私たちも病人です

トップページ聖書のメッセージ集2011年 > このページ


ルカによる福音書5章27〜32節

(2011.8.21)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

「こんな奴とはお近づきになりたくないな」と思うような人を、わざわざイエスさまは弟子に加えたり、友だちになったりしました。それをイエスさまは「医者を必要とするのは病人だ」というたとえでその意図を解説なさいました。どういうことでしょうか?

1.自分を病人だと認めよう

自覚症状がないと

たとえ病気で、治療が必要な人でも、自覚症状がなくて、自分が病気だと知らない人は、医者にかかろうとはしません。すると、治る病気も治らないかもしれません。

体や心の病気だけではなくて、魂も病気にかかります。それを、聖書は「罪」と呼んでいます。神さま中心ではなく、自己中心的に生きているということです。その罪のために、人間は神さまとの関係が悪くなり、さらにそのために、自分や他人を心から愛せなくなったり、様々な良くない行ないに走ったり、本当の喜びや平安や満足を体験できなったりしてしまったのです。
風邪かなぁ
イエスさまは、私たちに、自分が罪という問題を抱えた病人だということを自覚して欲しい、そう願っておられます。

今回の話に出てくる取税人レビや仲間の取税人たちとパリサイ人には、自分が抱える罪という魂の病気を自覚しているかいないかの違いがありました。

取税人

今回イエスさまが取税人たちは、自分が罪人であることをよく知っていました。売国奴として、また盗人として、人々から嫌われ、罪人扱いされていましたから。

そして、彼らは、自分が神さまから遠く離れてしまっているのを知っていました。お金はたくさんありましたが、心の内側に、お金やごちそうやブランドものでは埋めることができない穴がぽっかりと空いているのを知っていました。

そして、彼らはみんなに嫌われていて、孤独でした。心の中には、ひどいことをしているという罪責感でいっぱいでした。神さまから罰が降るかも知れないという不安もありました。

心の奥底では、こんな人生はおかしい。別の生き方がしたいと願っていたでしょう。しかし、自分の力ではどうすることもできませんでした。

彼らはまさに、魂の病気、霊的な病気を抱えている人たちでした。
何とかしてください

パリサイ人

パリサイ人は、旧約聖書に書かれている律法を実行することに熱心でした。しかし(というか、それだからこそ)、自分たちはそこそこ立派であると思っていました。ですから、神さまの助けも赦しも、本当には必要とはしていなかったのです。

確かに、人間的には、取税人よりもパリサイ人の方がはるかに立派でした。しかし、神さまの目から見れば、パリサイ人もまた罪人であり、神さまの助けや赦しが必要な存在です。彼らもまた「魂の病人」だったのです。ローマ3:10にはこう書かれていますね。「義人はいない。ひとりもいない」

自分が罪人であり、弱者であると知っている人は、自分を立派で強い人間だと思っている人よりも、それだけ素直に罪を悔い改め、神さまの助けやあわれみを求めやすいと言えます。

「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」(ルカ18:9-14)


罪の問題を抱えていない人は一人もいません。そして、神さまはその問題を解決することがおできになります。そして、あなたの問題を解決したいと願っておられます。まず、私たちがしなければならないことは、自分には問題があり、その根本原因は罪の問題だということを自覚することです。

2.いやしを求めよう

罪の問題を自覚した人は、いやしを求めて医者の所に行きます。そのように、素直に神の赦しやあわれみを求める人をイエスさまは喜ばれました。そして、解決を与えてくださいました。
イエスさまの所へ

ニコデモ

ヨハネの福音書3章に登場するニコデモは、パリサイ人でしたが、当時のパリサイ派では珍しく誠実な人だったようで、真面目にやればやるほど、神さまから遠く離れてしまっているのを思い知らされました。完全にきよい神さまに、行ないによって気に入ってもらい、ごほうびとして祝福していただくなんて、自分にはとても無理だと思ったのです。自分が神さまと共にいないことに悩んだニコデモは、イエスさまに教えを請いに訪れました。そして、イエスさまと話をし、魂に平安を得ました。

バルテマイ

盲人バルテマイは、弟子たちにうるさいと叱られても、イエスさまに大声で叫び続けました。イエスさまが自分をいやしてくださると信じていたからです。

カナン人の女性

カナン人の女性は、冷たくされても冷たくされても、なおもイエスさまに娘のいやしを願い続けました。悪霊から娘を解放してくれるのはイエスさまだけだと信じていたからです。彼らは、他に救いの道がありませんでした。だから、助けてくださる方のところに行き、必要な助けを受けることができたました。

3.イエスを医者だと認めよう

信頼できる医者

いくら病気を自覚したとしても、藪医者の所、あるいは専門外の医者の所には行きませんね。必ずいやしてくれると信頼できる医者の所に行くはずです。
名医の所へ
イエスさまは、罪という魂の病気の専門医です。ですから、自分が罪人だと自覚した人たちはイエスさまと共にいることを喜んだし、イエスさまも彼らを喜んで迎え入れてくださいました。

罪人を招くため

イエスさまは、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」とおっしゃっています。正しい人は、救われる必要がないからです。イエスさまが来られたのは、正しくない人、罪人の罪が赦されて、救われるためです。

よく、「自分は醜いから、神を信じる資格がない」とおっしゃる方がいらっしゃいます。いいえ、逆です! 自分は醜いと知っておられるあなただからこそ、イエスさまを信じる資格があるのです。

イエスさまは、罪人を愛するために、罪人を救うために、罪人と共にいてくださるために来られました。イエスさまがあなたを拒否なさることは、決してありません。

変えられたレビ

今回登場したレビは、実は十二弟子の一人に加えられるマタイのことです。

レビは、自分のことをわざわざ「取税人」マタイと呼んでいます(マタイ10:3)。金はあったけれど、ちっとも幸せではなかった昔のこと、正しくないと分かっていながら抜け出せないどうしようもない自分の習性、傷つけ苦しめてしまったたくさんの人々の顔、そういう思い出したくもないような過去を、レビはしっかりと背負っています。

しかし、それは、彼がその後もずっと過去の痛みに引きずられ、罪責感に苦しんでいたからではありません。むしろ、自分はイエス・キリストによって赦され、受け入れられ、愛されているのだと知ったからです。だからこそ、何もかも捨てて彼はついていきました。
わーい
レビは、おそらくイエスさまによってマタイという新しい名前を与えられたのでしょう。マタイとは「神のプレゼント」という意味です。「マタイ。お前は父なる神が私に与えて下さった、大切な大切なプレゼントなのだよ」と、イエスさまが優しくレビに語りかけておられるようです。

レビは家で祝宴を開き、友だちをイエスさまに紹介します。彼らもまた、社会の鼻つまみ者ばかりでした。彼らにも、イエスさまに受け入れられ、愛され、人生が根底から造り変えられるような喜びを知って欲しかったのです。だから、イエスさまは、喜んでレビの招きに応じ、彼らと交わりをもたれました。

まとめ

あなたもイエスさまに愛されています。あなたもイエスさまに大切にされています。あなたもイエスさまによって、人生を造り変えていただけます。日々、罪を認め、悔い改めて、イエスさまの愛と赦しを受け取りましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

Copyright(c) 2011 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.