良い木は良い実を結ぶ

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ルカによる福音書6章43〜49節

(2011.8.28)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

私たちは、人生の中で様々な良い実を結ぶ良い木でありたいと思います。今年のテーマ聖句は、「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです」(ヤコブ1:27)ですが、具体的に愛の行ないができる生き方も、人生の実の一つではないでしょうか。「実を結ぶ」という言葉を聞いて、皆さんはどんなことをイメージなさいますか?
実を結ぶ木
イエスさまは、二つの家のたとえの中で、たとえ洪水が来ても揺るがされることのない生き方をする人とは、「わたしのもと来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人」(47節)だとおっしゃいました。

1.イエスさまのもとに来る

「イエスさまのもとに来る」とは、教会の礼拝式などに出席するということとイコールではありません。もちろん、クリスチャンのホームページを読んだり、メッセージテープを聴くこととイコールでもありません。

ヨハネ15:5にはこのように書かれています。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」

すなわち、ここで求められているのは、イエスさまの所に行って、ちょっと時を過ごして、また自分の所に帰って来るというような行き方ではなく、ずっとそこにとどまり続けるということです。
つながり続けて
「絶えず祈りなさい」(第1テサロニケ5:17)という聖書の言葉があります。しかし、実際問題として、「絶えず」祈るなんて可能でしょうか。食事だってするし、仕事も、車の運転だってしなければなりません。断食をすれば、かなりの時間を祈りに割くことができますが、それでも、睡眠は取らなければなりません。祈りというものを、もしも、座ったりひざまずいたりして、目を閉じ、手を組んで神さまに向かって何かを語ることだと定義すれば、「絶えず」祈るのは不可能です。

しかし、祈りがイエスさまと共にあることだとすればどうでしょうか。大切な人と共に食事をしたり、ドライブを楽しんだり、買い物をしたり、仕事をしたり、眠ったりすることはできます。イエスさまのあだ名の一つは「インマヌエル(神が共におられるという意味)」です。イエスさまは私たちと共にいたいと願っておられます。ですから、私たちの側でも、今イエスさまが一緒にいてくださっているのだということを意識してはどうでしょうか。
絶えず祈るとは
昔、ある本の中で、ジプシーのおばあさんが主人公に語った台詞が、今も印象深く心に残っています。「天に目があると思いなされ。そして、その目は、いつもそなたを見ている。いつもそれを忘れず行動なされ」。

食事するとき、職場や学校に向かうとき、仕事をしたり授業を受けたりしているとき、買い物しているとき、家事をしているとき、友だちと電話で話をしているとき、ゲームをしているとき、テレビを見ているとき、道を歩いているとき、つらいとき、苦しいとき、うれしいとき……ありとあらゆるときに、イエスさまは共にいてくださっています。あなたのすぐそばにおられます。それを意識してみると何が変わるでしょうか。あなたの感情や考えは、言葉は、行動はどう変わるでしょうか。

2.イエスさまのことばを聞く

イエスさまの存在を意識するだけではなく、イエスさまが何を語っておられるのか、心の耳を傾けます。主人の前で命令を待つ奴隷のように、いつもいつも緊張している必要はありません。しかし、いつ語られても応答できるように、心の無線機のスイッチは入れておきたいものです。
無線機のスイッチオン
神さまは、私たちが実を結ぶことができるよう、様々な方法で私たちに真理を語ってくださいます。特に、書かれた神のことばである聖書は、私たちの信仰生活にとって必要不可欠のものです。祈りの中で神さまが語ってくださるときも、多くは聖書のみことばに基づいて語ってくださいます(もしも、聖書に矛盾する内容なら、それは神の声ではなく、悪魔のささやきです)。聖書の内容に関する理解が深まれば深まるほど、私たちは心の内に平安・感動・喜び・希望・勇気などを体験します。

聖書を開く、聖書のことばに触れる。そのような機会を、一日の内に確保したいと思います。個人的に聖書を読み、お祈りする時を、ディボーション、あるいはQT(クワイエット・タイム)と言います。ディボーションは、私たちクリスチャンが実を結ぶ人生を送るためには、必要不可欠のものです。あるいは、カードに聖書のことばを書いて、財布の中に携帯したり、職場の机やトイレなどいつも目につくところに貼っておくというのも良い方法です。とにかく、神さまのことばに触れ続けることです。

「一人で読んでもよく分からなくて」とおっしゃる方もおいででしょう。最近では、良い参考書も安価で手にはいるようになりましたから、それを利用するのも良いでしょう。また、たとえそのときには、さしたる感動も喜びも感じなかったとしても(ぜひ感じたいものですが)、心の中に蓄えられた聖書のことばは、ここぞというときにあなたの心を支え、他の人を支えることでしょう。

以前、礼拝メッセージの代わりに、みんなで一緒に聖書の学びをしたことがあります。今後も機会があればそのようなやり方を採用して、自分で聖書から神さまのメッセージを読み取れるようにしていきたいと思います。

3.イエスさまの命令を行なう

二つの家のたとえは、聞いて実行する人と、聞いても実行しない人とが対比されています。すなわち違いは、行なうか行なわないか、ということです。

このページの最下段に、適用のコーナーがありますが、そこには「何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう」と書かれています。神さまのことばに触れたときには、それを抽象化しないで、できるだけ具体的に、すなわち行動のレベルにまで落とし込んで考えることが大切です。

その際、4W1H「いつ・どこで・誰が(誰に)・何を・どのように」に注目すると良いでしょう。もちろん、他の人の行動ではなく、自分の取るべき行動について考えることが大切です。たとえば、

  • 「敵を愛しなさい」という命令を聞いたとき、「私の敵って誰だろう」「その人を愛するって、いつ、どこで、何をすることだろう」と考える。
    たとえば、「職場のAさんに、朝、私の方から挨拶する」。
  • 「あなたの罪は赦された」という宣言を聞いたとき、「私の罪って何だろう」「罪が赦されたということを知る前と、知った後では、行動がどう変わるだろうか」と考える。
    たとえば、「過去の失敗を思い出して責めそうになったとき、『私は赦されている』と何度も心の中で唱える」。
    罪責感からの解放
  • イサクを捧げたアブラハムの記事を読み、そこから特に、「たとえ先が見えなくても、神さまに信頼して従うとき、必要は神さまが備えてくださる」というポイントを学んだとき、「自分にとって、必要を備えられることを信じて従うとは、何をどうすることなのか」と自問する。
    たとえば、「もし離婚されたら、一人では経済的にも精神的にもやっていけないと思って、今まで夫の暴力や不条理な命令に耐えてきたが、神さまが支えてくださると信じて、暴力をやめるよう夫に要求する」。

ということです。

イエスさまのみこころを実行するとき、私たちは自分の無力を痛感します。そして、自分の力だけで事をなすことをあきらめ、聖霊さまのお助けを渇望します。イエスさまは、飢え渇く者を必ず聖霊さまで満たし、行動する力を与えてくださいます。

御霊によって
「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます』」(ヨハネ4:13-14)

まとめ

皆さんは、イエスさまによって救われた「良い木」です。ですから、必ず良い実を結ぶことができます。イエスさまによって。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

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