痛むほどの愛

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ルカによる福音書7章11〜17節

(2011.9.4)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

新約聖書には、死人をイエスさまがよみがえらせた記事が3つ載っています。「タリタ・クミ」の女の子、マルタとマリヤの兄弟ベタニヤのラザロ、そして今日の箇所に出てくるナインの青年です。

このような、驚くべき奇跡に触れると、奇跡そのものに目を奪われてしまいますが、奇跡の背後にある、イエスさまの私たちに対するあふれる愛を読み取っていきましょう。イエスさまは、あなたにとってどんなお方でしょうか。

1.理解してくださる方

一人息子を失った未亡人

たくさんの群衆が、ナインの町を目指して進んでいました。彼らの先頭には、イエスさまがいらっしゃいました。このグループの中にあったのは、喜びであり、わくわくするような期待感でした。

一方、ナインの町の方から出てくる一群もありました。彼らの先頭には、青年の棺がありました。彼らの中にあったのは、深い悲しみでした。この喜びの一群と、悲しみの一群。それは、非常に対照的なグループでした。この二つのグループが、ナイン郊外で出会ったのでした。

青年の棺には、母親が寄り添っていました。愛する息子が死んでしまう。どれだけ、彼女にとって悲しく、またショックだったことでしょう。また、この母親はやもめであったと書かれています。すなわち、既に夫を天に送ったということです。夫は既に亡く、またたった一人の子どもにも先立たれ、彼女はひとりぼっちになってしまいました。

息子の死は、どんなに悲しく、また寂しい思いを彼女に与えたでしょう。それだけでなく、子どものいない未亡人は、経済的な基盤を持たないということですから、これからの生活のことを考えると、不安でいっぱいだったかもしれません。

はらわたが動かされる

イエスさまは、そのような彼女に目をとめました。そして「かわいそうに」と思われたのです。直訳すると「はらわたが動かされる」です。この母親を見たとき、身がよじれるほどの痛みを、イエスさま自身も味わったということです。

上から眺めて「かわいそうになあ」とただ同情したのではありません。イエスさまは目を留めてくださり、気持ちを心の底から、体全体で理解してくださいました。
はらわたが動かされる

誰にも言えない思い

イエスさまは、あなたの思いも知っておられます。たとえ、誰にも言えないような、隠れた悲しみや、怒りや、恐れであったとしても。自分でも気づかないほどに、心の奥底に封印していた感情であったとしても。

イエスさまは、そういう感情をバカにしたり、叱ったりするのではなく、深い理解と共感を表してくださいます。「それは、どれだけつらかったろうなあ」「それは悲しかったよね」「あんなことされたら、殺してやりたいと思うほど憎く思うのは当然だよ」……と。そして、イエスさまも一緒に痛みを負ってくださるのです。

イエスさまが、母親を見て、かわいそうに思われた。これが奇跡のきっかけでした。この母親が、イエスを見て、「どうか、息子をよみがえらせてください」と願ったから、奇跡が行なわれたわけではありません。あなたの悲しみや怒り、恐れを知ったイエスさまは、あなたのために何かを始めようとしておられます。いや、もう既に、何かが始まっているかもしれません。

2.触れてくださる方

棺に手をかけた

イエスさまは、単に同情したのではなく、行動をなさいました。何と、お棺に手をかけたのです。

これは、当時の宗教的な背景からすると、驚くようなことでした。というのは、死体に触れたものは、宗教的に汚れてしまい、しばらくさまざまな宗教的な活動を制限されてしまうからです。

当時のユダヤ人、特に祭司や律法の教師などの宗教家は、汚れを非常に嫌いましたから、遺族や友人でもないのに死体に触れるなどということは、極力避けようとしたのです。
手を触れた

ツァラート患者のいやし

ルカ5:12-16に、イエスさまのもとに、ツァラート(重い皮膚病)の人がやってきて、いやしを願った記事があります。ユダヤの伝統では、ツァラートを患った人は、宗教的に汚れていると言われ、人々との接触や宗教行事への参加が制限されました(おそらく感染を防ぐためです)。

それは、宗教的に汚れていると宣言されるだけで、その人自身が汚いわけでも、格別罪深いわけでもありません。しかし、人はそれをネタに差別をしました。ですから、この病人はイエスさまに近づくこともしないで、遠くから「もし、お心でしたら、きよめられるのですが」と、遠慮しいしいお願いしたのでした。

イエスさまは、遠く離れた町の病人をもいやす力をお持ちでしたが、わざわざツァラート患者に近づき、手を伸ばして彼に触れ、抱きしめるようにして「これが私の心だ」とささやかれました。そして、彼はいやされました。

イエスさまは単に皮膚の病気をいやされただけではなく、心の病気もいやされたのです。その心の病気とは、「私は誰からも愛されていない。私はいらない人間なのだ」という、深い自己否定の思いです。

あなたにも触れてくださる

イエスさまは、汚れているとかいないとか、そんなことを気にしないで触れてくださいます。私たちの目に、どんなに汚れて見えても、醜く見えても、イエスさまにとって、私たちは宝物のように大切な存在なのです。それを表すために触れてくださいます。

「あなたが大切だよ」とイエスさまがおっしゃってくださるのですから、どんな自分を見つけたとしても、あなたもご自分のことを「あなたが大切だよ」と語りかけてあげてください。

それでも、自分の醜さに、目を背けたくなりますか? 自分のやってしまったこと、自分の内側にわき上がってくる嫌な考えや感情を、否定してしまいたくなりますか?

イエスさまは、どんな私たちであったとしても、愛し、祝福するために、十字架にかかって罪を取り除いてくださいました。不完全だったり、罪があったりするから、罰を受けなければならないとしても、もうその罰は、イエスさまの十字架で完了しています。神さまは、決してあなたを罰したり、捨てたり、ののしったり、呪ったりなさいません。

どんな自分を見つけたとしても、そのあるがままのあなたが神さまの宝物なのです。

3.語りかけてくださる方

新しいいのちの力

イエスさまは、死んでいる青年に声をかけました。「起きなさい」。すると、彼にいのちが与えられました。

神さまは、天地創造の始め、ことばによって万物をお造りになりました。そして、神のことばは、私たちに新しいいのちの力を吹き込みます。

あなたは、本当の自分がぼろぼろに傷ついて、死んだようになっていると思われますか? しかし、イエスさまは、愛のみことばにより、あなたに新しいいのちを与えてくださり、立ち上がる力を与えてくださいます。

それは、苦しみの中にあっても、なおも喜ぶことができる力であり、絶望的な状況の中にあって、なお期待する力であり、攻撃の中にあって、なお愛する力です。そして、自分自身を本当に大切にできる力です。

本音のレベルで聞く

イエスさまの声を聴きましょう。聖書と祈りを通し、イエスさまがどんな言葉をかけてくださっているのか。

しかも、本音のレベルで聞くのです。かっこよく、信仰深い、表面の自分(それも本当の自分の一部ですが)だけではなく、心の奥底で、実は泣いていたり、地団駄を踏んでいたり、絶望していたり、反抗していたりしている自分に向けられて語られる、イエスさまの声を聴くのです。

心痛むほどに

わたなべゆきこさんは、十数年にうつ病と診断されました。仕事に行こうとすると体が震え、電話で誰かと話をするだけで、汗が額から次々と流れ落ちる。一日に何時間も涙が止まらない。「私なんか、存在する価値があるのか」「「いったい、誰がこんな私のことを愛してくれるのか」。そういう声が、頭の中を駆けめぐります。

病院で医者に症状を尋ねられても、とうとう言葉を発することすらできなくなったとき、突然、ゆきこさんの言葉にならないうめきを、イエスさまが聞いてくださっているのが分かりました。そして、心の奥底にうずくまっている、もう一人のゆきこさんを、しっかりと抱きしめながら、イエスさまはこうおっしゃったのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。心痛むほどに」。
心痛むほどに
今、すっかりいやされたゆきこさんは、その経験を歌詞にのせ、イエスさまの愛を歌っています。そして、たくさんの方を励ましておられます。

まとめ

イエスさまは、痛むほどの愛によって、あなたをも新しく造り替えることがおできになります。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

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