たくさん愛する人

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ルカによる福音書7章36〜50節

(2011.9.11)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

イエスさまは、私たちがイエスさまや天のお父さまを何よりも愛することを求めておられます(マタイ10:34-37)。私たちクリスチャンの、神さまに対する深い愛は、どんな原動力で発揮されるのでしょうか。

1.少ない愛と多くの愛

シモン

シモンは、イエスさまを食事に招きました。中東では、旅人、特に巡回伝道者を歓迎するのは社会的なエチケットとして考えられていました。シモンはパリサイ人であって、おそらくその町でも有力者の一人だったのでしょう。彼がイエスさま一行を招いたのは、社会的な慣習にかなったことでした。

しかし、彼は個人的にイエスさまを歓迎していたわけではないようです。むしろ、イエスさまが神さまから遣わされた方かどうか疑っていました。

後で、イエスさまは「あなたは土埃で汚れた足を洗う水もくれなかったし、歓迎の口づけもしてくれなかったし、頭に油も塗ってくれなかった」とおっしゃっています。日本風にいえば、呼ばれたから訪ねて行ったのに、お茶も出してくれなかったし、座布団も出してくれなかった、というところでしょう。イエスさまからすれば、ただ慣習に従って招かれただけで、心から歓迎された気がしない、ということです。

罪深い女

一方、シモンから「罪深い女」と思われていた女性(おそらく遊女か何かだったのでしょう)はどうでしょうか。彼女は、イエスさまがいらしたと聞いて、シモンの家にやってきました。聖書の教師を金持ちが招いた場合、その場を一般の人にも公開して、いろんな人が話を聞けるようにするというのは、当時のイスラエルではよく行なわれていたようです。

そして、女性はイエスさまの後ろに立ち、イエスさまの足の上に涙をこぼし、それを髪の毛でぬぐって、何度も口づけし、香油を塗りました。シモンがしなかった歓迎の行為を、彼女は一生懸命イエスさまに対して行なったのです。
ちなみに、この当時のイスラエルの食事は、低いテーブルを中心にして、体の左側を下にして寝転がり、左のひじを床について上半身を支え、右手を伸ばして食べ物を口に運びました。そこで、足はテーブルから放射線状に後ろに投げ出してあります。そこで、後ろに立った女性が足の上に涙をこぼしたり、それを髪の毛でぬぐったりできたのです。
シモンは(そして、多くの町の人も)この女性を見下していました。しかし、イエスさまはこの女性の行為をことのほか喜ばれました。そして、「シモンの私への愛は少なかったけれど、彼女の愛の方はずっと多かった」と評価なさいました。
イエスさまへの愛に違いがある

あなた

私たちはイエスさまに愛されていますが、同時に私たちもイエスさまを愛することが期待されています。愛は具体的に行動することです。罪深い女性も具体的に行動しました。では、私たちはどうでしょうか。今の時代は、イエスさまに直接触ることはできませんが、イエスさまのために何かをすることはできます。

イエスさまが大切になさっているものを大切にすることは、イエスさまを愛することです。イエスさまは、あの人のことを愛しています。ですから、その人のことを大切にすることは、イエスさまを愛することです。

イエスさまは、私のことも愛しています。ですから、私が自分自身を大切にすることは、イエスさまを愛することです。

聖書の中に記されていることを学び、イエスさまが喜ばれることをやり、イエスさまが悲しまれることはやめるよう努める。これもまたイエスさまを愛することです。

イスラム教徒は戒律で1日5回の礼拝を決められ、断食月(ラマダン)には、日の出から日没までは食を絶ちます。クリスチャンにはそのような戒律はありません。しかし、それ以上の熱心さで、神さまの前に祈り、賛美し、集会に出席したいものです。

2.少ない赦しと多くの赦し

多く愛したから多く赦された?

47節でイエスさまはこうおっしゃっています。「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」
イエスさまからの愛に違いがある?
これを表面的に取ると、「多く愛した人は多く赦されるし、ちょっとしか愛さない人はちょっとしか赦されない」というふうに読めるかもしれません。すなわち、イエスさまに対する愛が赦しの条件だということですね。

しかし、そう取ってしまうと、イエスさまが直前に話された借金のたとえと矛盾します。

借金のたとえ

「500デナリ借りた人と、50デナリ借りた人がいる。返せないと泣きついたら、金貸しが全額棒引きしてくれた。だとしたら、どちらがよけいにこの金貸しを愛するか」とイエスさまは訪ねました。シモンは「たくさん借りていた方です」と答えました。その通りです。

このたとえ話は、「たくさん赦された人がたくさん愛する」ということを教えています。

ですから、47節の言葉は、「この女性はたくさんの罪を赦された。だからたくさん私(イエス)を愛した。しかし、シモンは、少ししか赦されなかったから、少ししか愛さなかったのだ」というふうに解釈すべきです。

感謝の度合いの違い

要するに、シモンと罪深い女性の違いは、イエスさまにどれだけ罪を赦してもらったのかという認識の違い、それ故にどれだけイエスさまに対して「あなたのおかげです」と感謝しているかということの違いだということです。
感謝の度合い
イエスさまに対する愛の大きさの違いは、イエスさまに対する感謝の度合いの違いに比例しているということです。

3.変わらぬ愛と赦し

罪の重さは違わない

しかし、本当にシモンと罪深い女性は、赦された度合いが違うのでしょうか。いいえ、違いません。罪の重みは、シモンもこの女性も違いはありません。

聖書の基準ははっきりしています。神さまの罪かどうかをさばく基準は、パーフェクトかどうかです。100%出なければ、99.999999%でもダメ。また、どれだけ他の命令を完璧に守れていたとしても、たった1回でも違反したらダメ。

そんな基準で裁かれたら、誰も「あなたは罪人だ」という判定から逃れられる人はいません。

そして、罪に対する罰則もはっきりしています。人間の法律では、信号無視をしたからといって、殺人犯と同じように死刑になったりはしません。罪には重みに違いがあり、それに従って量刑が変わります。しかし、神さまに対する罪の罰は「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)。これだけです。

シモンも、罪深い女も、私もあなたも、みんな罪人であり、本当であれば死をもって償わなければならない存在だったのです。

神の愛も赦しも違わない

ですから、神さまが私たちを愛し、私たちを赦し、私たちを祝福しようと思われたとき、その愛の重みに違いはありませんでした。みんな、同じ重みで愛され、祝福されています。

シモンに対してもです。イエスさまは、罪深い女性を愛し、赦し、祝福しておられたと同じように、彼のことも愛しておられます。

もちろん、あなたのことも。
違わない

自覚の問題

結局のところ、シモンと罪深い女性の違いは、自分の罪深さに対する自覚の違いです。それ故に、イエスさまが与えてくださる赦しの恵みに対するありがたみが違ってきて、その感謝の度合いの違いが、イエスさまに対する愛の大きさの違いとなって表れているのです。

「罪」というのは嫌な言葉です。自分の罪深さや、不完全さ、不純な部分、過去の失敗などを認め、見つめるのは痛いことです。

しかし、なぜ聖書がことさらに罪について強調するかといえば、それを認めることが、実は感謝と感動に満ちた人生を生み出すし、神さまに喜ばれる生き方の原動力になるからです。

痛いですけれど、逃げないで、自分の中の影の部分に目を向けましょう。

まとめ

自分がいかに深く愛されているかを、日々自覚しましょう。それが、あなたを愛の人へと成長させていきます。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。

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