予想を超えた愛

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ルカによる福音書15章11〜32節

(2011.11.6)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

この話の最後に、登場人物たちは大宴会を開いて終わっています。私たちもイエスさまのたとえ話から、喜びと感動に満ちた人生の秘訣を学びましょう。

1.息子は思い知った

田舎で羊や牛の相手をして、毎日暑い中でクワを打つ……こんな生活、もういやだ! 金をもらって、都会で毎日遊んで暮らすんだ! 弟息子は、まだ生きているお父さんから遺産をもらうと、都会へと旅立っていきました。そして、湯水のようにお金を使いました。

そして、お金が尽きてしまいました。悪いことに飢饉が重なります。ここに至って、息子は3つのことを思い知らされることになります。

人の愛のはかなさ

第一に、人の愛のはかなさ。金の切れ目が縁の切れ目でした。こちらの調子がいいときにはちやほやしてくれるけれど、いったん悪くなると、途端に捨てられてしまう……。人の愛は麗しいものですが、同時に限界もあります。彼は、自分が愛されていたのではなく、自分のお金が愛されていたのだということを思い知らされます。

与えられたものを無駄遣いしたということ

第二に、自分が、与えられたものを無駄遣いしてしまったという事実。私たちは、神さまによって作られ、生かされています。そして、一人一人にすばらしい能力や時間を与えてくださっています。ちょうど、この話の父親が、まだ自分は生きているのに、財産を分けてやったように(まだ生きているんですから、当然まだ父親のものです)。

もし、死ぬときに、「ああ、自分はなんてつまらないことに、時間や能力を使ってしまったんだろうか」と嘆かなければならないとしたら、それは悲劇です。でも、とにかく今私たちは生きています。ということは、まだまだチャンスがあるということです。神さまが皆さんに用意していらっしゃる、さまざまなプレゼントをこれから十分に行かしていきたいものです。

自分が死んだということ

第三に、自分が死んだということ。ユダヤ人は、その文化的背景から、豚飼いの仕事は絶対にしませんでした。しかし、あまりの貧しさに、彼は豚飼いになってしまいます。そして、それどころか、豚の餌にまで手を付けようとしたのです。誇り高いユダヤ人としての自分を殺し、さらに今や人間としての自分まで殺そうとしていたのです。

皆さんは、本当の自分が死んでしまったと感じることはありませんか?
  • 本当はこんなことしたくないのに、でもやってしまう。
  • 本当は人に優しくしたいのに、つい憎まれ口を叩いてしまう。
  • 本当は寂しいのに、寂しいと言えない。
  • 本当は助けて欲しいのに、助けを求められない。
  • 本当はしたくないのに、誘いやお願いを断れない。
落ち込み〜
人の愛のはかなさや、人生を無駄遣いしてしまったことや、本当の自分を見失っていたということを認めるのはつらいでしょう。

でも、そこから喜びと感動に満ちた新しい人生が始まります。この息子も、この惨めな状況に陥ってしまった事実を認めたところから、希望が始まりました。あなたが今どんな状況にあっても、あなたにも必ず希望があります。

2.息子は我に返った

本来の自分

聖書は、この息子が我に返ったと記しています。これはいい翻訳だと思います。我に返った、すなわち本当の自分を思い出したのです。
はっ!
彼は、自分は惨めで、ダメな存在で、もう決して幸せにはなれないと思っていたかも知れません。でも、自分があのお父さんの息子だったということを思い出しました。お父さんこそ祝福の源であり、そのお父さんとつながって、たくさんの祝福をもらっていた。自分はそういう存在だったということを思い出したのです。

でも今は、こんなに惨めな生活をしている。これはおかしなことだと彼は思いました。何としてもお父さんの元に返らなければと感じました。息子として迎え入れてもらうのは無理だろうけれど、奴隷の一人として雇ってもらおう。それでも、お腹いっぱいご飯が食べられる。清潔なベッドで眠ることができる。暖かい衣服を着ることができる。幸せに生活できる。彼はそう思いました。

勇気を出して

ユダヤ教では、この息子のように家を捨て、国を捨てて出て行ったような者は、法的に死んだ者とされました。実際、葬式を挙げ、墓まで作られてしまいます。ですから、いったん家出をしておいて、おめおめと帰ることなど、普通は許されないことだったのです。

しかし、それでも彼は帰ろうと決意しました。きっと迷ったでしょうね。豚を相手に、何度も謝る練習をしたかも知れません。けれど、とにかく彼は、お父さんの愛の深さを信じて、お父さんがくれる祝福を求めて立ち上がり、ユダヤに向けて歩き始めたのです。
さあ、帰ろう

あなたはどんな存在?

あなたは、本当はどんな存在ですか? あなたは神さまに愛された存在です。神さまに祝福された存在です。神さまの大切な子どもであり、神の国の王子さま・王女さまです。どうぞ我に返ってください。

3.息子は予想を超えた父の愛を知った

予想を超えた父の愛

息子は、お父さんの愛を信じて帰ることを決心しました。息子は、お父さんは慈愛に満ちた人だから、奴隷の一人くらいにはしてくれるだろうと信じたのです。しかし、そのお父さんの愛は、彼の予想を遥かに超えたものでした。

このお父さんは、息子が去ってしまってから、仕事が終わると、毎日陽が沈むまで地平線の彼方を眺めていたことでしょう。そして、「今日は帰るか、明日は帰るか」と、息子の帰りを待ちわびていたのです。ですから、息子が地平線の彼方にポツリと姿を現しただけで、「あれは息子だ!」と分かったのです。

そして、お父さんは、飛んでいって、(豚小屋で染みついた糞尿の臭いがぷんぷんする息子を抱きしめ、口づけしました。さらに「召使いの一人にしてください」という言葉を息子に言わせず、彼を息子として迎え入れました。「息子が帰ってきた。息子が生き返った!」と大喜びで、兄息子が嫉妬するくらいの大宴会を催したのです。
走り寄る愛

予想を超えた神の愛

私たちも、神さまを無視して自分勝手な人生を送ってきました。そして、神さまに祝福された宝物のような存在としての、本当の自分を見失っていました。自分を責めたり、置かれた環境にイライラしたり、本来神さまが与えようとしておられる祝福を、味わうことができなくなっていました。これを聖書は「罪」と言います。

罪はさばかれなければなりません。本来であれば、私たちは神さまに受け入れられないはずなのです。しかし、私たちのすべての罪は、イエス・キリストの十字架によって取り除かれました。イエスさまは、私たちの身代わりに罰を受けて、死んでくださったのです。

ですから、私たちが、罪の故に神さまから裁かれたり、祝福を値引きされたりすることはありません。ただ、私たちがこの息子のように神さまの元に帰ろうと決心するなら、神さまとの関係は直ちに回復し、喜びと感動に満ちた人生を再開することができます。

何度失敗しても、です。以前、神さまとの関係を回復しようと決心した。でも、また神さまの元を離れてしまった。それでもです。神さまの赦しの愛、恵みの愛は、私たちの予想を遥かに超えて大きいのです。

まとめ

あなたの前に、今二つの道が用意されています。今そのままの生き方を続けるか。それとも、今そのままのあなたを愛し、祝福してくださる神さまの愛を信じるか。それを決断しなければなりません。しかもその決断は、一生に一度きりではありません。毎日毎日、いや、一瞬一瞬しなければなりません。
どっちに行く?
どうぞ、よい決断ができますように。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


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