不正のススメ

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ルカによる福音書16章1〜9節

(2011.11.13)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」などと、イエスさまは不正を奨励していらっしゃるのでしょうか。いったいイエスさまは、このたとえ話を通して、何を教えたいとお思いなのでしょうか。

聖書は、特定の箇所だけ抜き出して読んで解釈してはいけません。前後の文脈、さらには聖書全体の文脈に照らして解釈すべきです。そこで、第1のポイントでは前の話、第2のポイントでは後の話のテーマを確認しましょう。それらが同じなら、今回のたとえ話のテーマもそれと同じはずです。

1.前の話

今回の不正な管理人のたとえの直前には、前回のメッセージでも学びましたが、捜し物三部作(いなくなった羊、無くなったコイン、家出した放蕩息子)のたとえ話が語られています。

これらは、イエスさまが罪人たちを受け入れ、食事を共にしていたのを見てパリサイ人が非難し、それに対して語られたたとえ話です。

パリサイ人は、自分たちはきよくて正しいので神に祝福されるのにふさわしいが、取税人や罪人たちは汚れており、神のさばきを受けるのにふさわしいと考えていました。それなのに、イエスさまは罪人たちと親しく接し、彼らを祝福していました。これは、パリサイ人たちからすれば、とうてい受け入れることのできない所行でした。
とんでもねー話だ!
これに対してイエスさまは、「神さまは、罪の故に神さまから離れてしまった人が、悔い改めて戻ってくることを望んでおられる」ということを、これらのたとえ話を通して教えてくださいました。

パリサイ人の信じる神さまは、罪人をさばいて滅ぼすことを望んでおられる、短気で恐ろしい神さまです。しかし、イエスさまは、聖書の神さまはそうではないと教えてくださいました。本当の神さまは、罪人を赦して受け入れ、愛して祝福することを望んでおられる、愛と恵みに満ちたお方です。

さて、今回の不正な管理人のたとえは、前のたとえ話の続きとして語られました。1節の「イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた」の「にも」という言葉に注目してください。

2.後の話

福音と律法主義

では、今回のたとえ話の後の話はどうでしょうか。今回の話を聞いたパリサイ人への語りかけがなされます。

「さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます」(14-15節)

旧約聖書は、第1のポイントで触れたように、「神は罪人を断罪して滅ぼすことを望まず、代わりに、罪を完全に赦して受け入れ、神の子として祝福することを望んでおられる」ということを繰り返し教えています。そして、それを信じる人が、罪を赦され、救われます。

一方、パリサイ人たちは、律法の命令を守ることによって救われると考えていました(彼らだけでなく、ほとんどの宗教が、行ないによる救いを教えています)。そして、パリサイ人たちは、自分たちは正しいから大丈夫だと考えていました。

福音書を読むと、イエスさまとパリサイ人が何度も何度も衝突している場面が描かれています。その対立は、結局のところ、「行ないによって救われる」というパリサイ人に対して、「律法を行なうことによっては誰も救われない。だから、神さまは、一方的に赦して愛することを選んでくださった。それを信じて受け取りなさい」という「福音」を主張し続けたところから生じています。

姦淫の罪について

それでも、あくまでも行ないによって救われると信じるパリサイ人たちに対して、イエスさまはこんな話をなさいました。「だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です(18節)。

ここで注意が必要なことは、イエスさまのこの言葉を「律法」として受け取ってはいけないということです。イエスさまは、「離婚後に再婚することが罪だ」と、世の中の再婚した人たちを断罪することが目的でこの言葉を語られたわけではありません。

イエスさまは、何度も離婚と再婚を繰り返したサマリヤの女を断罪なさいませんでした。それどころか、姦淫の現場で捕まった女でさえも赦して解放なさいました。

今回、イエスさまが18節の言葉を語られたのは、「もしも律法を行なうことによって救われるのだというのなら、律法を徹底的に厳しく適用しなければならない。そうしたら、あなたたちだって、罪人としてさばかれるのだよ」ということを指摘するためです。

他の箇所でも、「心の中で情欲を抱いただけで姦淫と同じ」、また「心の中で人をののしっただけで殺人と同じ」と教えておられます。これらの厳しい教えも、同様の目的です。 律法を守ることによっては、誰も救われません。ですから、神さまからの一方的な赦しが必要なのです。そして、神さまはその赦しを喜んで提供してくださる方です。
完璧になんて無理だ〜!

3.まことの友であるイエス

この話のテーマ

ここまで見てきたように、「前の話」も「後の話も、神の愛と赦しによる救いをテーマにしていました。ですから、イエスさまが今回のたとえ話で私たちに訴えたいポイントも、「神の愛と赦し」でなければなりません。

今回のたとえ話に出てくる管理人の行動は、業務上横領の罪であり、背任の罪です。その行為自体は決してほめられたものではないし、別にイエスさまも横領や背任を勧めているわけではありません。イエスさまは、この話を通して、私たちに神さまの愛と赦しを知ってもらいたいのです。

抜け目なさ

管理人は、自分を助けてくれるかもしれない友を得るために、法的には問題がありますが、彼らの借金を減らしてやりました。主人は、最初の損害に加えて、さらに損害を増し加えられたわけで、そのことを怒ってもよかったのですが、何と管理人の抜け目なさをほめました。

その抜け目なさとは、不正を働いたことではなく、「友だちを作っておけば、たとえ首になっても助けてくれるだろう」と考えたことです。

私たちも、このたとえ話のテーマである「神の愛と赦し」を得るためには、たとえ「それはあまりに図々しいやり方なんじゃないの?」と誰かに責められようとも、自分の救いのために友だちを作っておく抜け目なさが必要です。

友とは誰か

では、その「友」とは誰でしょうか。9節に注目してみましょう。「そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです」。

私たちを「永遠の住まい」に迎えることができるのは誰ですか? 聖書全体は何と教えていますか? そうです。イエスさまです。十字架にかかり復活したイエスさまが、私たちの罪を赦し、永遠の住まいである天国へと導いてくださいます。ですから、ここで言う「友」とは、イエスさまのことです。

イエスさまはおっしゃいました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)。イエスさまは、敵であるはずの私たちを友と呼んでくださり、私たちのために命を捨て、身代わりに罪の罰を受けてくださいました。ですから、私たちは罪の故に断罪されて滅ぼされることはなく、そのままの姿で許され、神の子として祝福されています。

「自分のために友をつくりなさい」とは、実は「私たちを救ってくださるイエスさまと親しい関係になりなさい」ということです。「前の話」の取税人や罪人たちのように、イエスさまに近づいていきましょう。
イエスさまへ!
では、どうしたら、イエスさま親しくなれるでしょうか? それは「私はあなたと親しくなりたいです」と祈るだけです。なぜなら、イエスさまの方では、あなたと親しい関係になりたいのですから。

まとめ

たとえ、「図々しい」「そんな不正がまかり通ると思うのか」と、誰に言われたとしても、「イエスさまが私を救ってくださる」と信じ、信じ続けましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


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