本当の先祖供養

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ルカによる福音書16章19〜31節

(2011.11.20)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

本日、洗礼式が行なわれます。洗礼式では受洗者に対して「死に至るまで忠実たれ」という呼びかけがあります。また、来週は結婚式がありますが、結婚の誓約の中に「死が二人を分かつときまで節操を守ることを約束しますか?」という問いかけがあります。

キリスト教は、洗礼式や結婚式というめでたい席でも、あえて死を忌み嫌うことをしません。むしろ、死というものをしっかりと見据えて今を考えようとします。それは、死について考えることは、結局今をどう生きるかということとつながりがあるからです。

今回の箇所でも、イエスさまは死後の世界について語っておられます。それを学ぶことで、私たちの今の生き方について考えていきましょう。

1.死後の大逆転

生前の状況と死後の状況

今回のたとえ話には、金持ちとラザロという貧しい人の二人が登場します。

生前の二人の状態は対照的でした。金持ちは毎日ぜいたくに遊び暮らし、ラザロの方は食べるにも事欠き、しかも全身おできができて苦しい状態でした。

しかし、彼らが死ぬと、状況はまったく逆転します。ラザロの方はアブラハムのふところ(あるいは、パラダイス)と呼ばれる所に送られて、そこで安らぎを得ました。しかし、金持ちはハデスと呼ばれる苦しみの場所に送られて、炎の中で苦しんでいました。

死を通して、人生が大逆転したのです。

私たち神を信じる者は、今がどんなに苦しくてつらい状況であったとしても、いつでも人生の大逆転を期待することができます。たとえ、この地上でその大逆転を体験することができなかったとしても、人生は死後も永遠に続きます。その死後の人生において、大逆転を体験することができます。
大逆転
それを信じていたからこそ、多くの信仰の先輩たちは、苦しみの中でも平安を保つことができたし、迫害されて殉教するというような極限状態でも、喜びつつ死んでいくことができたのです。

ですから、私たちも今の状況に一喜一憂しないで、「自分は必ず幸せになれる」と信じ、安心して毎日を過ごしたいですね。

振り分けられた基準

では、どうしてラザロたち二人の運命が逆転したのか、イエスさまははっきりとした理由、基準を語っておられません。

この二人は、金持ちだからハデスに送られ、貧しかったからアブラハムのふところに送られたというわけではありません。25節のアブラハムの言葉を読むと、まるでそれが理由であるかのように思えますが、違います。

というのは、パラダイスにいるアブラハム自身が、生前は非常に富んでいたからです。あるとき、エラムの軍隊がソドムを攻撃して、アブラハムの甥のロトが連れ去られ、財産も略奪されるという事件が起こりました。それを聞いたアブラハムは、「彼の家で生まれたしもべども三百十八人」と共にエラム軍を追撃し、ロトを救出しました(創世記14章)。戦闘に参加できる成人の男奴隷だけで少なくとも318人いたわけですから(宿営地を守るしもべも必要ですから、実際にはもっといたでしょう)、アブラハムがいかにたくさんの奴隷を抱える財産家だったか分かりますね。

ついでに言えば、アブラハムの息子のイサクは、種をまけば100倍の収穫が与えられ、回りの国の王が恐れをなすほど富み栄えました。孫のヤコブも、叔父ラバンの妨害にもかかわらず数多くの家畜や奴隷を手にして富み栄えました。イエスさまは、神さまのことを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んでいて、しかも「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」であるとおっしゃっています(マタイ22:32)。大金持ちだったイサクやヤコブも、どうやらパラダイスでアブラハムと共に生きているようです。

聖書の他の箇所を読めば、二人がそれぞれの場所に振り分けられた理由は分かっています。これについては後述します。

再逆転不可能

とにかく、ハデスに落とされて苦しい思いをしている金持ちは、ほんの少しだけでもその苦しみが軽くなるようにと願いました。

しかし、アブラハムは非情な宣告をします。「私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです」(26節)。

人は、生前の状態がどうであっても、死んだ後に大逆転が可能。しかし、いったん死後の状態が確定したら、再逆転は不可能。この話で重要なポイントはここです。

2.死んだ金持ちの願い

生きている家族への心配

自分に、再逆転のチャンスがないことをアブラハムに宣告された金持ちは、「では、まだ生きている5人の兄弟がこんな苦しい場所に来ることがないように、ラザロを遣わしてよく言い聞かせてやってください」と願います。

日本の宗教の中には、先祖のたたりを説くものがあります。「あなたが今ひどい状況にあるのは、先祖をちゃんと供養していないから、そのたたりだ。だから、うちの宗教団体に多額のお布施をして、先祖を供養しなさい」というわけです。

しかし、イエスさまのこの話は、そういう先祖観とはまったく違うことを教えています。それは、自分の死後の苦しみを、まだ生きている家族や子孫のせいにして恨むのではなく、むしろ家族が死後に苦しむことがないようにと願っている、ということです。
パラダイス? ハデス?

本当の先祖供養

だから、本当の先祖供養は、死んだ後に冥福を祈ったり、彼らのために宗教団体に多額の寄付をすることでもありません。

すでに亡くなった家族や先祖の願いは、まだ生きているあなたが、死んだ後も続く本当の幸せを手にすることです。それこそ、本当の先祖供養です。

3.聖書の教え

モーセと預言者

ラザロがよみがえって兄弟たちを説得してくれたら、きっと彼らは悔い改めてくれるだろう、ハデスになんか来ることがないような生き方へと変わってくれるだろう。金持ちはアブラハムにそう訴えます。

しかし、アブラハムの答えはこうです。「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」。

モーセと預言者、すなわち聖書が教えていることに耳を傾けること。それがカギだとアブラハムは、そしてイエスさまはおっしゃいます。

聖書のテーマ

今回の話のターゲットは誰でしょうか。それは、前回のメッセージ同様、パリサイ人です。

彼らは聖書研究の専門家でした。人々に聖書のことを教える教師でした。しかし、彼らは聖書そのものよりも、自分たちの伝統を優先することで、聖書が本当に教えようとしていることを理解していませんでした。

「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。『なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか」(マタイ15:3)。

ルカ15章以降、イエスさまがパリサイ人や弟子たちに訴えてこられたのは何でしたか? それは「神は、罪人を罪ゆえにさばき、滅ぼすことを望んでおられるのではなく、彼らが悔い改めて神との関係を回復することを望んでおられる」ということであり、「そのために、神は律法を守ることによって救うというやり方ではなく、一方的に赦すというやり方で、人との関係を回復される」ということでしたね?

アダムの時代から世の終わりの時代まで、救われるための方法は一つ。神さまの一方的な赦しを信じ、受け取ることです。聖書は繰り返しそのことを教えています。だから、アブラハムは、そしてイエスさまは、聖書が語っていることに耳を傾けるべきだと主張なさったのです。

イエスさまの話に登場する金持ちが苦しみの場所に行ったのは、神さまの一方的な赦しを受け取らなかったからであり、ラザロが慰めの場所に行ったのは、赦しを信じたからです。
聖書

福音を信じなさい

私たちの罪がただで赦されるために、イエスさまは私たちの代わりに罪の罰を受けるため、十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさいました。これが、今の時代の私たちに与えられた福音(グッドニュースという意味)です(第1コリント15:1-8)。

この福音を信じるだけで、私たちは罪が赦され、神の子とされ、神さまに受け入れられて祝福されます。だから、福音を信じなさいと、イエスさまは今回の話を通して、現代の私たちに訴えておられます。

そうするなら、私たちは、自分が無条件に神さまのお気に入りであり、常に神さまの守りと祝福の内にあるということを知ることができます。そして、「だから、この地上でも、死んだ後でも、何があっても大丈夫」と安心することができます。

それこそ、すでに亡くなった家族や先祖の望んでいることです。そして、神さまが望んでいることです。

良いことをしたから救われるのではありません。モーセの律法を初めとする各時代の律法は、救いの条件ではなく、すでに救われた人々がいかに生きるべきかを教えた指針です。そして、自分が神さまに無条件に愛され、赦され、救われ、守られ、祝福されていることを知ったとき、私たちは自然に神さまに喜ばれることをしたい、神さまの命令を守りたいという願いがわき上がっていきます。

私たちが罪を犯すのは、自分がどんなに愛されているかを忘れているときです。そうではありませんか? 自分がどんなに神さまに愛されているか、イエスさまに愛されているかを自覚し、感謝しているときは、とても自発的に神さまに逆らうことをしようという気にはなれません。

私たちは、「何をすべきか」「何をすべきでないか」を考えることは大切ですが、それよりも、どんなに自分が神さまに愛されているかを考える方がもっと大切です。

まとめ

あなたは、たとえ死んでも祝福されます。それを知ったとき、今の生き方がどんなふうに変わりますか?

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


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