居心地のいい場所

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ルカによる福音書17章1〜10節

(2011.12.4)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

あなたの属する家庭、職場、地域、そして教会は、参加者みんなにとって居心地のいい場所でしょうか。そうなるカギは、あなたが握っています。

1.赦し、受け入れること

イエスさまは、「小さい者の一人につまずきを与える者は、忌まわしい」とおっしゃっています。私たちに求められているのは、つまずきを与えない生き方です。

そして、3-4節を見ると、「小さい者の一人につまずきを与える」とは、「小さい者」の罪を赦さず、さばくことのようですね。

では、「小さい者」とは誰でしょう。この話の背景を見ると、14章からの続きで、イエスさまがパリサイ人の家で食事をしていたときのことだと考えられます。15:1-2を見ると、そこに人々から「罪人」としてさげすまれていた人たちがイエスさまの話を聞きに集まってきました。すると、パリサイ人、律法学者たちは「どうしてイエスという人は、あんなひどい連中を受け入れるのか」とつぶやいたのです。

それに対してイエスさまは、有名な放蕩息子のたとえを含む「捜し物三部作」を語ります。それらのたとえによって、天の父なる神さまは、罪人を捜し出し、喜んで許して受け入れる方だということを、イエスさまはお示しになったのです。

そして、今回の箇所で語られている「小さい者」とは、あの放蕩息子のように自分の罪を知り、神さまとの関係を回復しなければならないことを知っている人のことだと分かります。イエスさまは、そういう「小さい者」と神さまとの間を取り持ち、「小さい者」が安心して、堂々と神さまと交わることができるようになるために来られました。

では、罪はどうなるのでしょう。赦されたのです。私たちの罪が赦されるため、イエスさまは、その罪の罰を全部身代わりに負ってくださったのです。それが十字架です。ですから、「小さい者」は神さまに赦され、受け入れられ、圧倒的な祝福の中に生きることができます。

しかし、「つまずきは避けられない」と言われているように、つまずいて神さまのところに行けなくなってしまうことがあります。それは、回りから、神さまに愛され、赦されているということを不安にさせるような情報が入ってきたときです。
足引っ張ったらあかん
パリサイ人や律法学者たちは、聖書のことをよく研究していましたので、神さまが人間にどんな生き方を願っておられるか、熟知していました。ですから、その知識でもって、他人の言動をさばいたのです。彼らは、他人の言動を改めるのが自分の使命だと思っていました。

そんな彼らについて、イエスさまは、「彼らのやっていることは、小さい者たちにつまずきを与えるのと同じだ。小さい者たちが不安になり、神さまの赦しや愛を信じられないようにし、絶望へと追いやっている」と警告なさったのです。

むしろ、赦し、受け入れなさいとイエスさまはおっしゃいます。何度でも赦しなさいと。神さまは目に見えません。しかし、人の愛情は具体的に感じることができます。自分の罪深さ、自分の欠点に情けない思いを抱いている人は、教会の中で、家庭の中で、仲間内で、そのあるがままを受け入れられたとき、感じられないはずの神さまの愛に触れることができるのです。

2.謙遜であること

イエスさまの弟子たちは、何度でも赦すようにという勧めを聞いて、とてもできないと思ったのでしょうね。「信仰を増し加えてください」と願います。これに対してイエスさまがおっしゃったのは、「信仰を増し加える必要などない。からし種のような、ほんのちょっとの信仰があれば、それで十分」ということでした。

それでは、そういう「ちょっとでもOK」の信仰とはどういうものでしょうか。マタイ18:21-35で、イエスさまはやはり赦しについてのたとえ話を語っています。このたとえの中で、王に1万タラント(日当5千円として計算すると3千億円)の借金をしている人が、それを帳消しにしてもらったのに、友の100デナリ(50万円)の借金を赦さず、のちに王からそれを叱責されています。

50万円は決して小さな額ではありませんが、3千億円に比べれば微々たるものです。要するに、自分がどれだけ赦され、愛されているかを知っている人は、他の人のことをさばかず、赦すことができるとイエスさまはおっしゃっているのです。からし種一粒の信仰とは、「この私は神さまに赦されなければならない。そして、事実、神さまは私を赦し、愛し、祝福してくださっている」という信仰のことです。

このような信仰を持っている人は、不完全な生き方をしている人を見たとき、「私は健康、あなたは霊の病人」という見下げるような態度ではなく、「私も、自分の罪と戦っています。私とあなたは戦友です」という思いにさせられます」。そして、神の怒り、神の呪いではなく、赦しや祝福を語るようになります。
赦しや祝福を語ろう
人の罪の心配をする前に、まず自分と神さまとの関係を見つめていきたいものです。私は、自分の属している家庭や職場や教会を、「立派でない人を立派にするための矯正施設」「ダメなところを見つけて叩き直す場所」にはしたくありません。むしろ、赦された罪人たちが、互いに赦しを確認し合い、人生に祝福が満ちていることを確認し合い、神さまが互いの可能性を引き出してくださることを期待する交わりにしたいです。

3.恵みを体験すること

7節からのたとえ話は何を表しているのでしょうか。私たちがすばらしい業績を上げたとしても、すばらしい愛の実践をしたとしても、それは当然のことをしたまでで、別に威張るほどのものではないし、それによって神さまを感動させて、もっと祝福をいただくことはできないということです。

というと、何だか無味乾燥な印象ですが、そういうことではありません。私たちの言動にかかわらず、とにかく神さまは私たちを愛しておられるし、祝福しようと決めておられます。

からし種の信仰のもう一つの内容は、神さまの愛は出来高制ではないという信仰です。神さまの関係は、何かのごほうびではなく、一方的に与えられるものだということです。これを「恵み」と言います。

新約聖書には、パウロなど使徒たちの手紙が載っていますが、彼らの戦いは、イエスさまが示してくださった恵みの原則を守る戦いでした。「恵み」に「恵みでないもの」を付け加えようとする力が、いつも強く働いています。信じるだけではダメ。良いこともしないとダメ。割礼を受けなきゃダメ。これこれの食べ物を食べなきゃダメ。これこれの日は他の人区別して祝わないとダメ。こういう修行をしないとダメ。これをしてはダメ。これをやらないとダメ。
ダメ出し
ダメ、ダメ、ダメ……。あなたの心の中にも、「ダメだ」のメッセージが響いていませんか? お前はそのままではダメだ。そんなことをしているようじゃダメだ。そんなことを考えているようじゃダメだ。とにかく、「お前はダメ人間だ」というメッセージが、あなたの心をむしばんではいませんか?

クリスチャンとして、というだけではありません。男として、女として、夫として、妻として、親として、子として、社会人として、学生として、そんなことではダメだ。だからこういう生き方をしなさい……というメッセージです。

一切のダメは十字架に付けられました。ダメではありません。皆さんは、イエスさまによってOKなのです。何をしていても、していなくても、何を考えていても、いなくても、何を感じても、感じなくても、そのままでOKなのです。

だから皆さんには可能性があります。「ダメだから直す」のではなく、「OKだからもっと良くなる」というとらえ方をしましょう。それが私たち神さまを信じる者の、きよめや成長に対する考え方です。

恵みを信じましょう。今のままで神さまに愛され、祝福されていることを信じましょう。

まとめ

イエスさまの恵みを体験し、赦しを体験し、愛を体験するとき、私たちは他の人にも恵みの態度で接することができるようになっていきます。すなわち、相手のダメ出しをするのではなく、相手の中の可能性に目をとめて、それを認め、引き出すことができるようになるということです。
OK出し
あなたの周りの人に対して、ダメ出しの態度で接していなかったでしょうか。この人は神さまの認めた素晴らしい宝物という目で見つめると、その人の内にはどんな素晴らしい可能性が見つかるでしょうか。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


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