十二弟子の派遣

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マタイによる福音書9章35節〜10章8節

(2017.12.10)

参考資料

9:35は、4:23にも出てきた表現です。

「会堂」(シナゴーグ)は、バビロンによって神殿が破壊され、ユダヤ人がバビロンに捕囚された時期に、礼拝したり律法を学んだりするために集まった建物(あるいはそこに属する会衆)のこと。捕囚が終わり、エルサレムに神殿が再建された後も、各地に建設されていきました。13歳以上のユダヤ人男子が10人以上いれば、その地域に会堂を作ることができます。現在、日本でも、東京、横浜、名古屋、神戸に存在します。

「福音」とは喜ばしい知らせという意味で、聖書で用いられる場合、人が救われるために信じなければならない神さまからのメッセージのことです。

聖書からのメッセージ

イントロ

この話をお読みください

イエスさまによって十二使徒が選ばれ、イスラエル各地に派遣されました。そこから、私たちが何者であり、何をすべき存在なのかを教えていただきましょう。

1.十二弟子の派遣

御国の福音

これまで、イエスさまは、お一人で人々に「御国の福音」を語っておられました。

「福音」とは、ギリシャ語でユアンゲリオンと言い、喜ばしい知らせという意味です。たとえば、敵が町(都市国家)に攻めてきたけれど、防衛部隊が出て行ってこれを打ち破ったとします。その時、防衛部隊から使者が町に遣わされ、「わが軍は勝利した。平和がやってきた」と報告し、人々が歓喜に沸きます。この、使者が語る喜ばしいメッセージがユアンゲリオン、福音です。

聖書で「福音」という言葉が用いられる場合は、人が救われるために信じなければならない神さまからのメッセージを指します(すなわち、人は救われることができるという喜ばしいメッセージが含まれています)。
御国の福音
その内容は時代によって変わりますが、福音書でイエスさまが語られた「御国の福音」とは、「神さまが約束なさった神の国(天の御国)が間もなく実現する。それは王である救い主が到来したからだ。その救い主はナザレのイエスである」というメッセージです(10:7、16:15-16参照)。

神の国(天の御国)とは、救い主が地上に作ってくださる王国で、そこは自然と人間とが互いに傷つけ合うこともなく、戦争も争いも飢えも寒さもない、理想的な世界です。
証拠としての奇跡
さらに、イエスさまは、そのメッセージが本当だということを証明するために、さまざまな奇跡を行なわれました。8-9章には、イエスさまが悪霊を追い出し、病気や障がいをいやし、死人を生き返らせることさえなさったということが記されています。

特に、当時の宗教的指導者たちは、ツァラートという重い皮膚病の人(8:1-4)や、悪霊によってしゃべることができなくなっている人(9:32-33)をいやせるのは、救い主だけだと教えていました。そこで多くの人々は、イエスさまがそういう人たちさえいやされるのを見て驚き、イエスさまこそ救い主だと信じました。その一方で、信じない人たちもたくさんいました。

「この人たちが出て行くと、見よ、悪霊につかれて口のきけない人が、みもとに連れて来られた。悪霊が追い出されると、その人はものを言った。群衆は驚いて、『こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない』と言った。しかし、パリサイ人たちは、『彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ』と言った」(9:32-34)。

羊飼いのいない羊

イエスさまは、集まってくる群衆をご覧になって、深いあわれみの思いを抱かれました。9:36に「羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている」という言葉があります。家畜として飼い慣らされた羊は、羊飼いがいないと大変惨めで危険な状態になります。
  • すぐに道に迷います。
  • 自分で食べ物や水場を見つけられず、飢え渇きます。
  • 仲間同士でケンカを始めて傷つけ合います。
  • 盗人によって連れ去られたり、野獣に殺されたりします。
それと同じように、人々は導き守ってくれる者がいないため、何が正しくて何が本当の幸せなのかを見失って混乱し、人や自然との調和を失い、霊的に飢え渇き、罪の方に引き寄せようとする悪魔やこの世からの攻撃に対して無力になっています。それによって、どんなに表面的には繁栄し、面白おかしく暮しているように見えても、心の奥底では弱り果て、倒れているのです。

そういう人間たちをご覧になって、きよさの極致にあるイエスさまは、あきれ果てて見捨てることもできました。しかし、イエスさまは「彼らをかわいそうに思われた」と書かれています(9:36)。それは、ただ単に同情したというだけではありません。イエスさまは、ご自分が彼らの羊飼いになることによって、彼らが人や自然と調和し、喜びや平安や希望に満ち、罪の力から解放され、本当の幸せを味わいながら生きていけるようにしたいと思われました。

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弟子たちによる働きの拡大

人々が羊飼いのいない羊のようであるのをごらんになって、イエスさまは弟子たち、すなわちすでにイエスさまを信じて従っている人たちに言いました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」(9:37-38)。

その祈りはさっそく聞かれます。イエスさまは、弟子たちの中から十二人を選び出しました。マルコ3:13-14よると、十二人を選び出したのはもう少し前の時ですが、ここで2人一組にして(マルコ6:7)、イスラエル各地に派遣なさいました。

この十二人の弟子たちは、十二使徒とも呼ばれています。使徒と訳されている言葉は、ギリシャ語でアポステロスといって、10:5の「遣わす」という言葉(アポステロー)の名詞形です。彼らは、王であるイエスさまの使者、神の国の大使としてイスラエル各地に遣わされたのです。

イエスさまの大使、すなわち代理として、彼らは御国の福音を語り、証拠として様々な奇跡を行ないました。こうして、さらにたくさんの人たちが、イエスさまこそ約束の救い主であり、間もなく神の国が実現するという喜ばしいメッセージを聞くことになりました。

イエスさまは、神さまの元から迷い出て、恐れ苦しんでいる人をご覧になって、ただ単に「かわいそうに」と同情するだけの方ではありません。このように、苦しい状況からその人を助け出すために、具体的に行動してくださるお方、まことの羊飼いです。

では、今の時代に生きる私たちは、ここから何を学ぶことができるでしょうか。私たちも神の国の大使であって、
  1. イエスさまの愛によってこの世に遣わされ、
  2. 福音を言葉で語り、
  3. それを行ないによって証明する
そういう使命が与えられているということです。

2.私たちは神の国の大使

イエスの愛によって

私たちが神の国の大使としてこの世に使わされているのは、イエスさまがこの世のすべての人を愛しておられるからです。イエスさま時代のユダヤ人だけでなく、今地上にいるすべての人は、まことの神さまにつながっていなければ、羊飼いのいない羊と同じです。

創世記の記事によれば、元々人間は、本当の幸せを味わいながら生活していました。アダムとエバは、自分自身をあるがままの姿で受け入れていましたし、お互いのことも受け入れ愛し合っていました。自然とも調和していました。争いや災害どころか、病気や死すらありませんでした。

ところが、今のこの世には多くの矛盾があり、痛みがあり、悲しみがあり、苦しみがあります。その大元をたどれば、人間の罪の問題に行き当たります。罪とは、まことの神さまを信頼せず、従おうとしないで、自分勝手に生きようとすることです。あらゆる祝福は神さまがくださいますから、神さまから離れていては、人は本当の幸せを味わうことができません。

そんな私たち人間の惨めな状態をご覧になって、イエスさまは深いあわれみのまなざしを注ぎ、それだけでなく何とかしようと思ってくださいました。

この世にはいろんな人がいます。「こういう自分の欲望のためにひどいことをする連中、こういう霊的なことに全く関心のない俗物は、決して救われることはないだろう」、そう思いたくなる人もいます。しかし、それでもイエスさまはその人を愛し、その人が救われて神さまの子どもとなり、永遠のいのちを得、本当の幸せを味わってもらいたいと願っておられます。

私たちは、そのイエスさまの思いを自分の思いにしなければなりません。なぜなら、私たちが、一足先にイエスさまを信じ、神さまとの関係を回復したのも、イエスさまが私たちをあわれみ、救ってやろうと思ってくださったからです。私は断言します。この私が、そうです、この私でさえ救われたのですから、イエスさまに愛されていない人、救われる可能性のない人は、この世に一人もいません。

福音を語り

十二使徒は、言葉によって「御国の福音」を語りました。今の時代の福音、すなわち救われるために信じなければならない神さまからのメッセージは、「恵みの福音」と呼ばれています。具体的には、第1コリント15:3-4に書かれています。「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」

またその話かとおっしゃらないでください。とても大切なことですから、繰り返し繰り返し確認する必要があります。というのは、人はこれ以外に救いの条件を付け加えようとしがちだからです。たとえば、伝道してたくさんの人を救いに導いたらとか、教会の規則や牧師の命令を忠実に守ったらとか、たくさん献金したらとか、立派な行ないを続けたらとか……。

私たちは、神さまの言葉に混ぜ物をしてはいけません。どんなに真面目な動機からであっても、救いの条件を勝手に増やしてはいけません。私たちは、イエスさまが自分の罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、復活なさったということを信じるだけで救われるのです。

私たちが忠実に公の礼拝を守り、聖書を読み、祈りと賛美をささげるのは、そして、悪い習慣をやめ、良い行ないをし、困っている人に愛のわざを示し、社会正義の実現のために行動するのは、それが救いの条件だからでなく、一方的に神さまに赦され、愛され、祝福されている喜びの故です。この順番を間違えてはいけません。そうでないと、クリスチャン生活が、たまらなくしんどいものになってしまいます。

行ないによって証明する

そして、十二使徒は、御国の福音が本当だということを、イエスさまによって与えられた力によって奇跡を行ない、証明してみせました。私たちもまた、イエスさまの十字架と復活を信じたことによって、罪が赦され、神さまの子どもとして新しく生まれ変わり、永遠の祝福を受け継ぐ者となったということを、私たちの人生そのものを通してこの世の人たちに示していきます。

それにしても、この私にそんなことができるでしょうか。自分の生き方を見てもらうことによって、イエスさまによる救いの素晴らしさを証明するなんておこがましい。神の国の面汚しと、神さまに言われるんじゃないか……。

しかし、それでもイエスさまは私たちを遣わされます。十二使徒も、決して完全な人たちではありませんでした。むしろ、私たちが不完全だからこそ、イエスさまの恵みが際立ちます。不完全な者が神さまに受け入れられ、愛され、祝福されることを信じて、図々しく堂々と生きることが、恵みの福音の最高のデモンストレーションです。

この話をお読みください

たとえ上手に語ることができなくても、「すごい人だ」と感動されるような生き方ができなくても、それでもそこにあなたがいること自体が、すでに伝道なのです。

だから、イエスさまに愛され、一方的に救われたことを喜びながら、堂々と、生き生きと、毎週の礼拝式に参加しましょう。つらいとき、困ったとき、「イエスさま」と祈りましょう。そして、家族や友だちに、自分がイエスさまを信じてからどんなふうに感じ方や考え方や行動パターンが変えられたか、自分の言葉で話しましょう。

まとめ

私たちは神の国の大使です。そして、言葉と行ないによって、恵みの福音を伝えましょう。イエスさまは、この世のすべての人たちを愛してくださっていますから。

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