勇気を与える主

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マタイによる福音書10章16節〜31節

(2017.12.17)

参考資料

25節の「ベルゼブル」とは、ハエの王(バアルゼブブ)から来ており、イスラエルの人々が異教の神バアル(バアルゼブル、気高き王)をさげすんで使った言葉です(第2列王記1:3)。後に、悪霊のかしら(サタン、あるいは悪霊たちのリーダーの一人)を指す言葉になりました。
イエスさまは、ご自分が救い主だということを証明するため、多くの奇跡を行なわれました。ところが、多くの宗教的指導者たちはそれを受け入れず、ベルゼブルの力によって奇跡を行なっていると言いました(9:34、12:24)。すなわち、彼はモーセの律法で禁じられている魔術を行なう罪人だという主張です。

28節の「ゲヘナ」とは、世の終わりに、不信者やサタンや悪霊が落とされる永遠の滅びの場所、いわゆる地獄のこと。エルサレムの南にあるヒンノムの谷(ゲーヒンノーム)から取られた名です。かつてこの谷は、ゴミを捨てたり、犯罪人の死体を焼いたりした場所でした。いつも何かが燃える煙が立ち上り、悪臭が漂い、また偶像礼拝者が幼児を犠牲にささげた忌まわしい場所だったので、地獄のイメージと重なったのでしょう。

29節の「アサリオン」は、ローマの銅貨(労働者の日当に相当する1デナリの、16分の一の価値)。ここでは「2羽の雀は1アサリオンで売っている」と言われていますが、ルカ12:6では「5羽の雀は2アサリオンで売っている」とあります。4羽買うと1羽おまけでついてきたわけです。

聖書からのメッセージ

イントロ

今回のテーマは、「勇気」です。勇気は、特に現代にあって、子どもたちが、そして大人である私たちが育てなければならない性質の一つです。そのことを、イエスさまが十二弟子を各地に派遣なさったときに語られた警告から、教えていただきましょう。

1.派遣に当たっての警告

迫害の予言

イエスさまは、十二使徒をイスラエル各地に派遣されました。彼らは、「神の国の実現が近づいた。神の国の王である救い主が登場したからである。それはナザレのイエスだ」という御国の福音を語り、その証拠としてさまざまな奇跡を行なうように命ぜられました。

その働きは、イエスさまがお命じになったことですから、当然父なる神さまのみこころにかなった働きです。しかし、だからといって必ずしも順風満帆に物事が進むわけではないということを、イエスさまは警告なさいました。
  • 14節には「もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら」と書かれています。これは、弟子たちのすばらしい働きを認めず、拒否する人もいるということですね。
  • 16-17節「あなたがたを使わすのは、狼の中に羊を送り出すものです。ですから、人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから」。肉体的な痛みさえ味わう可能性があります。
  • また、21-22節には「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に断ち逆らって、彼らを死なせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます」と書かれています。愛する家族から拒否され、攻撃されることもあり得るということです。

イエスは知っている

24-25節の「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です」という箇所は、「あなたは劣っている」とか「どうせたいしたことはできない」とかいう意味ではありません。

イエスさまは、私たちが経験するよりも、もっと大きな痛みや悲しみを味わってくださったということです。

イエスさまは、真実に、一点の不純な動機もなく、人々を愛し、いやし、励まされ、また神さまに仕えてこられました。しかし、悪霊の頭ベルゼブルと呼ばれ、神を冒涜する者と呼ばれ、迫害され、あげくに愛する弟子たちにも裏切られ、見捨てられ、十字架にかけられて亡くなりました。

ですから、様々な妨害にあうであろう弟子たちの、その痛みや苦しみや悩みを、イエスさまはよくご存じです。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(ヘブル4:15)。

恐れるな

もちろん、イエスさまがどんなに私たちの苦しみを知っていてくださったとしても、私たちが経験する問題よりも力がない弱いお方なら、意味がありません。しかし、イエスさまや父なる神さまは、力あるお方です。

ですから、イエスさまは、弟子たちに「恐れるな」とおっしゃいました。迫害する人たちは強く見えるけれど、妨害の壁は果てしなく高く見えるけれど、あなた方を守る神さまは、もっともっと強いのだからと。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(28節)。

1羽では値がつかないような雀でさえも、神さまの許可なしには地に落ちることはありません。十万本あると言われる髪の毛の一本一本もすべて神さまはご存じです。まして、雀や髪の毛よりも大切なあなたのことを、神さまが見捨てるはずがあろうかと。

議会に引き出されて裁判を受けることになったとしても、聖霊なる神さまは、何を語ったらいいかが示してくださるから大丈夫なのだと(19-20節)。

では、ここから、私たちへの励ましをいただきましょう。

2.イエスからの勇気づけ

妨害を覚悟しよう

イエスさまが弟子たちに警告なさったように、正しいことを行なっているからといって、順風満帆が保証されているわけではありません。妨害されたり、壁にぶつかったり、やる気が萎えてしまったりして、その正しいことを続けることが難しくなることもたくさんあります。

もちろん、他人への配慮を欠くような言動をしたり、間違ったことを行なったりして、それで人々から責められたり、拒否されたりするのは、ある意味自業自得です。ペテロも「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう」(第1ペテロ2:20)と語っています。

私たちは、イエスさまが望んでおられる生き方を学び、それを実践しなければなりません。しかし、神さまのみこころにかなう正しいことを行なっていても、それでも迫害や妨害は起こりえます。それはおかしなことではないということを知っておきましょう。

むしろ、周りの人たちと、できるだけ平和にすごそうと最大限努力して、それでもなお迫害が起こるということは、私たちが真理に従って歩んでいる証拠です。

あなたは何か価値あることを志して、それを実行しようとしたときに、他の人から反対されたり、邪魔をされたり、意気消沈するようなことを言われたりしたことがありませんか?
内なる迫害者
迫害や妨害は外からだけ来るわけではありません。ある場合には、もう一人の自分が自分の足を引っ張ります。コツコツと努力することに飽きてしまったり、どうせうまくいくはずがないと絶望してしまったり、このままやっていると大変なことになるかもしれないと恐れたり、こんなことを続けていて意味があるんだろうかと迷ったり……。

むしろ、最大の敵は私たち自身かもしれません。どんなに周りが反対しても、私たち自身がやる気や希望を維持し、努力し続けていくなら、結局誰もその価値ある働きを邪魔することはできません。「成功者とは、成功するまでやめなかった人のことである」(ロバート・シュラー)。

あなたは今、どんな働きを志していますか? そして、どんな抵抗・妨害・迫害を体験していますか? その妨害の中で、あなた自身の心は、どんなことをつぶやいているでしょうか?

勇気を育てよう

困難があっても、心が意気消沈しても、それでもなすべきことをやり続けていくためには、勇気が必要です。26節にも「彼ら(すなわち迫害したり妨害したりする人たち)を恐れてはいけません」と書かれています。

聖書が教える勇気というのは、無茶をするとか、乱暴だということではありません。 私たちは、自分を愛し、自分と同じように他の人を愛し、そして自然を愛を持って管理するように神さまから期待されています。だから、車やバイクを暴走させたり、ケンカで誰が一番強いかを争ったりするように、自分や他人を粗末にするようなやり方で恐れを感じないのは、本当の勇気とは言えないのです。
勇気とは
勇気とは、「なすべきことをやり続ける力」のことです。

私はよく、「勇気は気です」と説明しています。勇気、元気、やる気、根気、負けん気、覇気、英気、生気、活気……。それは、正しいこと、価値あることを行なおうと決意して、それを継続してやりきるためには、どうしても必要な心の態度ですね。

親や先生にがみがみ怒鳴られ、監視されないと勉強しないとか、ルールを守らないとかいうのは、勇気のある態度ではありません。勇気のある子は、親や先生が見ていても見ていなくても、なすべきことをし続けるのです。

ダイエットに取り組んで、3日で根を上げるのは、勇気のある態度ではありません。勇気のある人は、コツコツとダイエットに必要なメニューをこなして、減量していくのです(きゃあ、耳が痛い!)。
どうしたら勇気に満たされるか
では、どうしたら自分自身や他の人の中に、勇気を満たすことができるでしょうか。それは「あなたには勇気がない。勇気を出せ」と叱咤激励することではありません。それでは、「あなたには勇気がない」と宣言しているようなもので、叱咤された方はますます自信を失い、やる気を失ってしまうでしょう。

勇気を増し加えるには、今のあなたで大丈夫だというメッセージを送ることです。イエスさまが、「この私があなたのことを知っており、父なる神さまが見守ってくださっているのだから大丈夫だ」と語られたように。

この話をお読みください

足りない所に注目すれば、限りがありませんし、ますます不安になったり嫌になったりするでしょう。しかし、必ずあると思って探せば、その人がすでに行なっている望ましい行動や、肯定的な状況は必ずあります。そこに注目し、「すでにこんなに素晴らしいところがある。だから、このまま進んでいけば大丈夫だ」ということを伝えるのです。

イエスが共にいる

でも、こんな自分が大丈夫だなんてとても思えない……そんなふうに感じてしまうことがありますね。いや、しょっちゅうそんなふうに感じてしまうかもしれません。

しかし、イエスさまが十二弟子を励まされた言葉は、私やあなたにも向けられています。

大きな苦しみを味わい、耐え抜いてくださったイエスさまが、私たちの痛み、苦しみ、恥ずかしさ、退屈さ、迷いなどを理解してくださっています。そして、イエスさまは全宇宙を支配なさる王の王、主の主です。そのイエスさまがついていてくださる。そのイエスさまが私たちに大丈夫だと言ってくださっている。それが私たちの勇気の種です。

昨年12月に召天なさったノートルダム清心学園前理事長、渡辺和子さんが、こんな話をしていらっしゃいます。「私が出張から疲れて帰ったとき、あるシスターが、私の『ただいま』に返事をしてくださらなかった。小さな傷です。しかしその後、私の方からそのシスターに話しかけるのには勇気がいりました」。

人に話したならば、「なんだそんなこと」と言われるような、そんな小さな小さな傷かもしれません。しかも、クリスチャンは、自分で復讐せず、敵さえも赦せと教えられています。しかし、靴の中に入った小さな石ころや、入れ歯の間に入り込んだ小さなごま粒がひどい痛みを引き起こし、自由な行動をできなくさせてしまうように、小さな小さな傷が私たちの生き方をゆがめてしまったり、人や神さまとの関係をゆがめてしまい、神さまの命令なんか守っていられるかという思いにさせてしまったりするものです。

その小さな傷を乗り越えるのには、大きな勇気が必要です。その勇気をイエスさまがくださいます。渡辺和子さんは、そんなとき、自分の思いをイエスさまに聞いていただき、イエスさまが自分をそのままで愛し、受け入れ、守り、支えてくださっていることを確認することによって、一つ一つ小さく乗り越えてこられました。イエスさまがくださる勇気によって、自分を無視したシスターに、自分からあいさつするというようなやり方で。

渡辺和子さんとは、一度直接お話しさせていただく機会がありましたが、本当に温かいぬくもりに満ちた方でした。それは、日々の生活の中で、やむを得ず負ってしまった小さな傷を放っておかないで、イエスさまによって慰めていただき、さらに相手を赦し、それどころか愛する勇気を求めていらっしゃったからでしょう。そうするとき、小さな傷は、単にいやされるだけでなく、他の人の小さな傷(そして大きな傷も)を共感する土台となったのです。

まとめ

あなたの志は何でしょうか。何を目指しておられるでしょうか。それがみこころにかなったものだという確信があれば、大丈夫。あなた一人が戦うわけではありません。イエスさまが共にいて、何者にも揺るがされない勇気を与え、その働きや学びや準備を助けてくださいます。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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