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Q&A:中通りコミュニティ・チャーチ

中コミって変な教会じゃね?

牧師って普段何してるの?

中通りコミュニティ・チャーチの牧師その他のスタッフは、基本的に日曜日以外は他の仕事をすることになっています。教会の働きがあまりにも忙しくなって物理的に二足の草鞋が難しくなれば専任になりますが。

もちろん、私たちは独善的になりたくはありません。私たちと同じように考えない教会があってもかまいません。それどころか、聖書は、教会の指導者が教会から報酬を受け取ることを当然のことだと教えています。「よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのために労苦している長老は特にそうです。 聖書に『脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない』、また『働く者が報酬を受けるのは当然である』と言われているからです」(第1テモテ5:17-18)。

ただ、私たちはそのように実践している、ということです。これは以下のような理由によります。

(1) お金を教会の使命(存在目的)のために集中的に使いたい

普通、教会会計で大きなパーセンテージを占めるのは、会堂関係費用(家賃・駐車場代・水道光熱費など)と人件費です。これらをリストラできれば、かなりの額を礼拝・交わり・教育・社会のいやし・伝道という、教会の使命(存在目的)に関わる働きに使えます。

(2) 牧師は教会の事業主ではない

牧師は教会のリーダーですが、しかし奏楽、司会、受付、掃除など、他の奉仕をしているクリスチャンと、別段何が変わるわけではありません。教会の中の、一つの役割に過ぎないのです。牧師が教会の事業主で、他の信徒はお客さん……そんな教会は不健全です。

牧師が仕事を他に持ちながら奉仕の働きをするのは、それを通して牧師も他の信徒も、同じく尊い神の働き人なんだということを、教会の皆さんに知って欲しいと思うからです。

(3) 牧師本人のため

教会堂に閉じこもってばかりだと社会と隔絶してしまうかもしれません。特に、増田牧師はオタク体質ですし……。社会との接点を保つためにも、牧師が仕事を他に持つことは良いことだと考えます。

「目的主導の教会」ってどういうことですか?

伝統、特定個人の好みや考え、財政、建物、行事などによって教会の進む方向や行動が決定されるのではなくて、教会が何のために存在しているのかという、存在目的に従って決定されなければならないという理念です。この理念は、アメリカのサドルバック教会から学びました。

中通りコミュニティ・チャーチの存在目的って何ですか?

中通りコミュニティ・チャーチは、「できる限り多くの人々をイエス・キリストに導いて救いを得させて、神を礼拝する者とし、神の家族の交わりに加え、キリストに似た者に成熟できるよう訓練し、社会のいやしと伝道の働きのために整えてこの世に送り出すことによって、神の栄光を現すこと」を、その存在の目的としています。

5つの働き

ここには、教会の5つの存在目的と、それに伴う使命(働き)が描き出されています。
(1) 礼拝
神を愛し、神を喜び、神を誇り、神に信頼します。
(2) 交わり
神の家族として集まり、そこに自分の居場所を見いだし、互いに深く愛し合い、具体的に助け合います。
(3) 訓練
知恵においても、行動においても、神との関係においても、全人格的に限りなくキリストに似るよう成長していきます。
(4) 社会のいやし
この世を愛しておられる神の子どもとして、社会の中の傷を見つけてそれをいやす働きをします。
(5) 伝道
他の人々もキリストのすばらしい福音を信じるよう働きかけます。

最終的な目的

そして、私たち自身の幸せとか、願望が叶うこととか、自己実現とかが、私たちの最終目的なのではありません。私たちの最終目的は、神さまの栄光が現れることです。すなわち、私たち自身にも、また他の人たちにも、今よりももっともっと神さまの素晴らしさが明らかになることです。上述の5つの働きは、その手段として行なうものであって、私たちの幸福は、神さまの栄光が現れる際に結果として与えられるものだと考えます。

教会籍、あるいは教会員制度についてどう考えていますか?

教会籍については、救いについての教理などと違って「これ」という決まり事があるわけではなく、それぞれの教派教団や教会が、それぞれの信仰と伝統に基づき、それぞれの意味づけをしています。 教会員になるための、あるいは教会員であり続けるための要件、教会員の権利や義務についても同様です。

ただ、新約聖書を読む限り、教会の内の人と外の人の区別があったことは明白です。たとえばパウロは、罪を犯して悔い改めない人に対する除名処分をコリント教会に求めていますが、これは「コリント教会のメンバーとそうでない人がいる」ということを前提にした命令です。

中通りコミュニティ・チャーチの教会員であるとは

では、我が中通りコミュニティ・チャーチ(以下「中コミ」)の場合、「中コミに教会員籍がある」すなわち「中コミの教会員である」ということをどう捉えているのでしょうか。
(1) 共同体の一部であるという自覚
「自分は、単にお客さんとして中コミに来ているのではなく、中コミという共同体の一部である」という自覚を持つ、ということです。教会とは建物ではなく、イエスさまに召し出され、集められた人々のことですから。聖書は教会をキリストの体にたとえ、教会員をその体の器官にたとえています。
(2) 自分が祝福や訓練を受ける教会という意識
イエスさまが自分に与えようとしておられる祝福や訓練を、中コミという教会を通して思う存分味わってやるぞという決意をし続ける、ということです。
(3) ホスト意識
中コミからサービスを受けるだけでなく、自分も中コミの一員(一部)としてサービスする側にも回ろうという決意を持つ、ということ。それは、祈ることかもしれないし、喜んで礼拝に出席することかもしれないし、いらっしゃった方に笑顔を向けることかもしれません。とにかく、自分はお客さんとして来ているだけではなく、ホストとして迎える側にも立っているのだという自覚です。
(4) 中コミの信仰のあり方についての理解と従順
中コミの信仰、哲学、戦略などを理解し、それに従って活動しようという決意をする、ということ。もちろん、牧師の言うことに無批判に盲従しろというような、カルト的な従順を求めているわけではありません。建設的批判や提案は大歓迎です。

別帳会員

礼拝に来ていないけれど籍だけ残っているという、いわゆる別帳会員の制度は中コミにはありません。実体のない名前だけの身分には意味がないと、私たちは考えるからです。

引っ越して中コミの礼拝に集えなくなれば、その地域の教会に早く根付いて、そこで祝福を受け取り、奉仕の人生を歩むようお勧めします。当然、献金もそちらの教会に捧げるよう勧めます(ちなみに、中コミでは「十分の一献金」を教会員の義務にしていません)。

転入会

他の教会から移って来られる場合は、わざわざ前の教会から送籍状(薦書)を送ってもらうことはしません。もちろん、転会なさりたい方が、一つのけじめとしてそうしたいとおっしゃる場合には、送籍状を送っていただきます。また、こちらから他の教会に移られる場合、その教会が制度上送籍状を必要とするなら、こちらから送籍状を送ることはします。

洗礼式と入会式が別

多くの教会では、洗礼を受けた人は、半ば自動的にその教会の教会員になってしまいますが、中コミでは洗礼式と入会式はあえて分けています。本当は一緒が望ましいのでしょうが、イエスさまの救いを信じようという決意と、教会の一員として生きていこうという決意とが、必ずしも一つではないと今までの経験で知ったからです。そこで、中コミの教会員になり、教会員であり続けるということがどういうことなのか、しっかり学び、はっきりと自分の意志で決意した上で中コミのメンバーになって欲しいと思うのです。

自分の決意でメンバーになるので、メンバーでなくなるのも自由。そして、たとえ教会員でなかったとしても、中コミでは歓迎し、お互いを家族として大切にします。礼拝式に出ていただけると分かりますが、誰が教会員で誰が教会員でないかという違いは、外からは分からないと思います。教会員籍の問題は、教会がその人をどう扱うかというより、その人が教会とどういう関係を持つかという、その人の自覚と決意の問題なのです。少なくとも、中コミではそう考えています。

中通りコミュニティ・チャーチの教会員になるには?

中通りコミュニティ・チャーチの教会員になるためには、以下の条件があります。この条件に当てはまらなくなると、自動的に教会員でなくなります。ですから、一度入会すると、二度と再び抜けられなくなるという恐れはありません。
  1. イエス・キリストを救い主として個人的に信じ、そのしるしとして洗礼を受けていること(異端でなければ、受洗教会はどこでもかまいませんし、浸礼・滴礼・灌水礼の別は問いません)。
  2. 定期的に中通りコミュニティ・チャーチの礼拝式に出席していること(病気や加齢等で、集いたいのに集えないという特段の事情がある場合を除く)。
  3. 教会員クラスを受講し、教会の信仰・目的・戦略・組織、また教会員としての義務と特権について学ぶこと。
  4. 「教会員の誓約」に同意し、署名・提出すること。
教会員の誓約
「教会員の誓約」には、次のようなことが書かれています。
キリストを私の主、また救い主として受け入れてバプテスマを受けた私は、中通りコミュニティ・チャーチの理念・ビジョン・信仰告白・戦略・組織に同意し、中通りコミュニティ・チャーチという神の家族の一員になることを、神の導きとして決意しました。そして、中通りコミュニティ・チャーチに与えられている責任を、教会員の一人として分担するため、神と他の会員に以下のことを約束します。

「私は教会の一致を保ちます」。
・他の会員に愛の行動を示します。
・うわさ話に加わりません。
・指導者に従います。

「私は教会の働きを支えます」。
・自分に与えられている能力を見いだして磨き、指導者の下でふさわしい奉仕に加わります。
・自分に与えられている富のうち、その一部を献金としてささげます。
・自分に与えられている時間のうち、この教会の健康と働きのために祈る時間を持ちます。

「私は教会の宣教のわざに加わります」。
・福音にふさわしい生活を心がけます。
・まだ教会につながっていない人を集会に誘います。
・教会に来た人を温かく迎えます。

なぜ「十分の一献金」が義務ではないの?

先にも述べたように、「十分の一献金」(収入の十分の一を献金として教会に捧げること)を中通りコミュニティ・チャーチの教会員の義務とはしていません。

聖書的根拠

理由の第一は、十分の一献金の義務化には聖書的根拠がないからです。

よく、十分の一献金の根拠としてマラキ3:8-10が引用されます。また、ユダヤ人に与えられたモーセの律法では、収穫の十分の一をささげるように勧められていましたが(レビ27:30、申命14:22)、これも根拠に使われます。

また、ルカ11:42(マタイ23:22も同じ記事)の、イエスさまの言葉を根拠にする方もいます。「だが、わざわいだ、パリサイ人。おまえたちはミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ」(新改訳2017)。イエスさまが十分の一献金もおろそかにしてはならないとおっしゃっているではないかというわけです。

しかし、イエス・キリストが十字架で死んで復活されて以降、私たちはモーセの律法から解放されて(エペソ2:15、ローマ10:4など)、イエスさまや使徒たちが新約聖書の中で教えているキリストの律法(第1コリント9:21、ガラテヤ6:2)に従う者とされました。

ルカ11:42は、イエスさまがまだ十字架にかかっていない、モーセの律法が生きていた時代に語られました。しかも、その教えは、十字架後に信じて信者になった人たちに向けて語られたものではなく、まだモーセの律法を守る義務があった当時のユダヤ人に向けて語られたものだということが、文脈上明らかです。ですから、現代のクリスチャンにストレートに適用することはできません。

もし十分の一献金が私たちクリスチャンにとって未だに「義務」なのであれば、モーセの律法に書かれている他の規定も守らねばならないはずです。新約聖書のどこにも、「私たちはモーセの律法から解放されたけれど、十分の一献金だけは別だよん」とは書かれていません。十分の一の命令が今も有効なのだとすれば、モーセの律法のその他の規定も有効のはずです。

もし十分の一献金の規定を、旧約聖書に書かれているから実行しなければならないと言うなら、あなたは、
  1. ウナギの蒲焼きや、イカ・エビ・タコの寿司を食べてはいけません(えらやうろこが無い海産物は食用禁止)。
  2. 生姜焼き定食やとんかつを食べてはいけません(獣の肉の場合、ひづめが分かれていて反芻する獣以外は食用禁止)。
  3. 完全に血抜きしていないステーキを食べてはいけません。
  4. 混紡(異なる種類の糸を混ぜて作った布)の服を着てはいけません。
  5. 裾の四隅に房が付いている服を着なければなりません。
  6. 男性は髭を剃ってはいけません。
  7. 金曜日の日没後から土曜日の日没までは、仕事も家事もしてはいけませんし、他人にそれらの働きを代行させてもいけません。
  8. 礼拝のたびごとに、動物の血を祭壇にささげなければなりません。
  9. 過越、仮庵など、律法に記されている祭りを、毎年守らなければなりません。
  10. 男子は全員割礼(男性器の包皮の一部を切り取ること)を受けなければなりませんし、息子が生まれた場合には8日目に割礼を施さなければなりません。
なお、モーセの律法を、道徳律法、司法律法、儀式律法に分け、道徳律法は今も永続しているが、他は終わったとする教えがありますが、このような区分にも聖書的根拠がありません。ついでに言うと、613あるという律法の規定の中で、十戒だけ特別扱いするのも聖書的ではありません。聖書は常に、律法を一つの集合体として取り扱っています。ですから、規定を一つ破っただけで、律法全体を破った者と見なされると書かれているのです(ヤコブ2:10)。

モーセの律法が終わったのであれば、道徳律法や十戒も含めてすべてが終わりました。ですから、十分の一の命令も、もう無効です。

必要

もちろん、教会員制度はそれぞれの教会の事情に合わせて作られているものですから、「すべてのクリスチャンが十分の一献金をしなければならないというわけではない。しかし、うちの教会の場合には、それだけの必要があるから義務とする」と決めることも許されるでしょう。ですから、十分の一献金を教会員の義務と定めている教会があっても、それを批判するつもりは私たちにはまったくありません。
  • ただし、なぜそれだけのお金が「必要」なのか、そしてそれがなぜ「収入の十分の一」なのかを会員に明確に示して、納得してもらう必要はあるでしょう。「聖書に書いてあるから」とか「神のみこころだから」とかいう一言で説明を放棄するのは、会員や、これから会員になろうとしている人に対して、アンフェアな気がします。
中コミに関しては、収入の十分の一を義務にまでして集める「必要」がありません。一般に教会会計の大部分を占めるのは、人件費と会堂関係費用です。しかし、中コミでは、ここにほとんどお金をかける必要がないシステムになっています。ですから、私たちは十分の一献金を義務にしていません。これが第二の理由。

自発性

そして、三番目の理由は、捧げ物は、あくまでも自発的でなければならないと信じているからです(第2コリント9:7)。

私たちがお金を払わなければやっていけないほど、神さまは困窮していらっしゃいません。私たちそれぞれが、捧げ物(献金だけでなく、献品・献時間・献体力・献言葉・献アイデアなどなど)の意義を感じ、納得して、喜んで捧げるのを、神さまは一番喜ばれます。

それが、人によっては収入の十分の一を献金することだということもあるでしょう。あるいは、千分の一ということもあるでしょうし、十分の九ということもあるでしょう。月によって割合や額が違うこともあるかもしれません。ただ、どれだけ捧げるかは一人一人が自分で決めることであって、教会が額や割合を一律に決めるというのは、少なくとも中コミでは意味のないことだと考えます。

木曜日に礼拝していいの?

中コミの礼拝式は、現在木曜日と日曜日の2回行なっています。木曜日が第1礼拝で、同じ内容を3日後の日曜日の第2礼拝で行ないます。

日曜日の礼拝式がメインで、木曜日は、日曜日に来られない人が仕方なく参加する補助的な礼拝式……というわけではありません。現在の出席人数は日曜日の方が多いですが、どちらも同じ重みの集会です。仕事やクラブ活動や家庭の事情など様々な理由で日曜礼拝には出られず、木曜礼拝に出席するからといって、後ろめたい思いをする必要は全くありません。堂々と、喜んでお集まりください。

私たちは「礼拝式は絶対に日曜日に行なわなければならない」とは考えていません。聖書は、私たちが定期的に集まって礼拝することは求めています。「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか」(ヘブル10:25)。しかし集まる曜日を指定してはいません。いつ集まるかについては、それぞれの教会の自由な判断に任されています。

日曜日は安息日ではない

ちなみに、旧約聖書の安息日の規定を引き合いに出して、礼拝は日曜でなければならないと教える人たちがいますが、これまた聖書的とは言えません。
  1. 安息日はあくまでも休む日であって、礼拝する日だと聖書に定められているわけではありません。イエスさまの時代には、各地の会堂(シナゴーク)で安息日に礼拝をささげていましたが、それはバビロン捕囚という歴史的事情でそうなっただけで、聖書がそう命じているからではありません。
  2. 上述の十分の一献金の所に書いた通り、現代の私たちはモーセの律法から解放されています。ですから、安息日の規定にも縛られていません。
  3. ユダヤの安息日とは昔も今も「金曜日の日没から土曜日の日没まで」のことです。安息日を日曜日に変更したという記録は聖書のどこにもありません。
  4. 聖書自体は、日曜日を「主の日」とか「聖日」とか呼んでいません。聖書が言う「主の日」とは、救い主が再臨し、全世界をさばいてすべての悪が滅ぼされる時のことです。

使徒の働き20:7は日曜礼拝の普遍的命令ではない

第三回伝道旅行の帰りに、パウロはトロアスを訪問しました。使徒の働き20:7にはこのように書かれています。「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。パウロは翌日に出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた」。ここから、この時代の教会は日曜に礼拝を行なうようになっていた。これが新しいルールになった証拠だと主張する人たちもいます。

しかし、日曜日に礼拝をささげていたという記録はここにしかありません。そして、この箇所は命令ではなく、そういうことが起こったという事実の報告に過ぎません。パウロはトロアスを翌朝には出発しようと計画していたし、その後エルサレムに行けば逮捕され、苦しみを受けることを聖霊さまに示されていたため、最後にトロアス教会の人たちに様々なことを教えておきたいと考え、集会を持ったのだと考えられます。ですから、この記事から、礼拝日は日曜日だけだという普遍的ルールを導き出すのは無理です。

初期のエルサレム教会は毎日神殿で礼拝をささげていましたし(使徒2:46)、パウロが新しい町で伝道するときには、安息日(すなわち土曜日)にユダヤ人の会堂に行って福音を語りました。安息日には、ユダヤ人たちは会堂に集まって礼拝していましたから、パウロも礼拝に参加したということです。もし、使徒20:7から日曜礼拝が普遍的命令だというなら、毎日公の礼拝をささげなければならないとか、土曜日に礼拝すべきだとかいう教えを引き出すことだって可能です。

それぞれの確信

日曜日はイエスさまが復活なさった日ですから、ある教会が「復活を記念して日曜日に礼拝式をささげる」というふうに決めることは、もちろんすばらしいことです。しかし、「復活を記念して日曜日に礼拝しなさい」と聖書が命じているわけではない以上、すべての教会やすべてのクリスチャンがその考えを採用しなければならないわけではありません。「ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」(ローマ14:5)。

中コミをスタートさせたとき、礼拝式は日曜日だけでした。それは休みの人が多くて集まりやすいからであって、聖書がそう教えているからではありません。

こういうわけですから、木曜日に礼拝してもまったく問題ありません。将来土曜日にも礼拝式を行なうようになって、それが日曜礼拝よりも大々的になったとしても、あるいは日曜日より土曜日の方が集まりやすいから、日曜礼拝をやめて土曜礼拝に集中しようということになったとしても、まったく差し支えありません(今のところその予定はありませんが)。

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