救われるってどういうことですか?
聖書が教える「救い」とは、経済的に豊かになるとか、健康な長寿が約束されるとか、社会的成功とか、家内安全とかいうことではありません。「神さまとの愛に満ちた温かい関係が回復し、自分の罪に対する神のさばきを免れる」ということです。
全知全能の神さまと仲良しである、親子関係になったということは、どんなに素晴らしい祝福でしょうか。
罪って何ですか?
聖書が教えている「罪」は、私たち日本人が普通に考える罪とは違います。それは、天地をお造りになった唯一の神に対する不信、反逆、失礼のことです。
神が私を造り、私を支え、守ってくださっているとすれば、私には神を愛し、信頼し、忠実に従う責任があります。
ところが、私が「神が何を願い、何を忌み嫌われようとも、自分でしたいことを、したい時に、したいようにする」とすれば、それは人生の主であるはずの神を否定し、自分が自分の人生の神になることです。それは、神に対する大変な失礼です。独裁者の国で、指導者を否定し、その命令に逆らい、「自分はやりたいことをやる」と宣言したらどういう目に遭うか想像してみてください。
もちろん、聖書の神は、地上の独裁者と違って愛に満ちたお方ですが、同時にきよく、正義のお方でもあります。罪は必ずさばかれなければなりません。私たち日本人はなかなか理解しにくいことですが、たった1回でも(それが、私たちの感覚ではどんなに些細な違反だったとしても)神に逆らったとすれば、それは有罪であって、さばきをまねくことです。
しかも、その基準は非常に高く、99%の出来でもアウトです。100%完璧に神の教えを守らなければ、「罪人」と判定され、さばきをまねくことになります。
そして、その「100%完璧」は、生まれてから死ぬまでの間、ただの一度の失敗もなく続けなければなりません。今から私やあなたが、「100%完璧」の人生を送ることができたとしても(そんなのは不可能でしょうが)、生まれてから今までが100%完璧でなかったとしたら、もう手遅れです。
ですから、正しい行ないによって、罪のさばきを免れることは、私たち人間には不可能なのです。さぁ、困った!
でも、安心してください。私たちは行ないによって罪を取り除くことはできませんが、罪を赦され、さばきを免れ、神さまに大いに祝福される道が用意されています(後述)。
さばきって何ですか?
神が人間の罪に対して罰を下すことです。聖書が描いているさばきには、二種類あります。
最終的な刑罰
生きている間に罪の赦しを受け取らなかった人に対して与えられる刑罰です。これは永遠の滅びと呼ばれています。あらゆる祝福の源である神から完全に見捨てられ、ゲヘナ(火の池)と呼ばれる場所に送り込まれ、永遠に苦しむことになります。そして、そこから出ることは決してできません。
教育的指導としての刑罰
罪を犯して悔い改めようとしない個人や集団に対して、本来あるべき姿に立ち戻らせようとする意図で、苦難を与えるショック療法です。要するに、愛する我が子に対する厳しいしつけ、愛の鞭です。神からの愛に基づくしつけであると気づき、悔い改めるなら、いつでも何度でもやり直すことができます。
聖書に描かれている歴史上のさばきのほとんどはこちらです。生きている限り、いつでも悔い改めるチャンスが与えられています。そして、仮にあなたが自分の過ちのせいでひどい目に遭ったとしても、それは神に愛されていない証拠ではなく、むしろ愛されている証拠だと思ってください。
福音って何ですか?
福音とは「良い知らせ」「グッドニュース」という意味です。その内容は、「イエス・キリストが私の罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさったと信じるだけで、実際に罪を赦され、救われ、神の子どもとされ、永遠の祝福をいただく身分となれる」ということです。
第1コリント15:1-8
「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。
福音書時代の福音
なお、福音書が描いている時代の「福音」は、これとは内容が異なります。その時代の福音は、「旧約聖書が約束してきた神の国の実現が近づいた。それは神の国の王である救い主(メシヤ、キリスト)がいよいよ現れたからである。それはナザレ出身のイエスである」というものです。これを上述の福音(「恵みの福音」と呼びます)と区別して、「御国の福音」と呼びます。
「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。『時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』」(マルコ1:14-15)。
マルコ1章の時点で、イエスさまはまだ十字架にかかっていませんし、当然復活もしていません。そして、イエスさま自身も将来起こる十字架や復活の話をしておられません。ですから、人々は十字架や復活を信じようがありません。そして、ようやくイエスさまが十字架と復活の話をなさるようになってからも、弟子たちは誰一人としてそれを信じませんでした。
ところが、福音書にはこう書かれています。水をぶどう酒に変えるという奇跡を行なった後(決して十字架と復活の話をした後のことではありません)、
「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(ヨハネ2:11)。これは、十字架と復活を信じたという意味ではなく、「イエスこそ約束の神の国の王、メシヤである」ということを信じたという意味です。 福音書時代の人々は、そのことを信じることで救われました。
今の時代の福音
しかし、今の時代の私たちが救われるために信じなければならない福音は、第1コリント15:3-8に書かれている恵みの福音です。これを信じるだけで、あなたはクリスチャンであり、全ての罪を赦された神の子どもです。特別な修行も善行も献金も必要ありません。簡単ですね。あなたも信じませんか? 信じるよという方は、ぜひ私たちまで
メールをください。祝福をお祈りさせていただきます。
どんな罪でも赦されるなら、平気で罪を犯すようになりませんか?
イエス・キリストによってどんな罪も赦されるというのなら、人は安心してどんどん罪を犯すようになるんじゃないかというご指摘です。
そもそも、罪が赦されているということと、平気で罪を犯していいということとは違います。
そして、積極的に罪を犯さない方がいい理由を3つ挙げておきましょう。
神さまを尊敬し、愛しているなら、そんな真似はできません
キリストによる救いの本質は、私たちがどれだけ祝福されるかということではなく、神さまとどんな関係を持つかということです。私たちの神さまは、祝福の自動販売機ではなく、ご人格です。都合良く利用されたいのではなく、愛されたいと願っておられます。
あなたが結婚、あるいは恋愛中だとします。そして、浮気をしてしまいましたが、謝罪したら、配偶者や恋人が赦してくれました。じゃあ、いつでも浮気できると安心して、それからも浮気し放題でいい、ということにはならないでしょう? 確かに配偶者や恋人は赦してくれたでしょうが、浮気は彼/彼女を深く傷つける行為だから。
神さまも同じです。神さまが私たちの罪によってどんなに傷つき、悲しまれるかを知り、神さまが私たちの罪を赦すためにどんな犠牲を払ってくださったかを知り、神さまがどんなにすばらしい方かということを知り、神さまを愛し尊敬しているなら、「どうせ何をやっても赦されるんだから、安心して好き勝手な生き方をしよう」というような、神さまを馬鹿にしたり、神さまの愛情を利用したりするような真似ができるはずがありません。もしできるというのなら、そもそもイエスさまを信じ、救われているのかどうか……。
やがて来る世で損をします
聖書は、イエスさまが再臨(もう一度地上に帰ってこられること)なさると、地上に千年間続く王国(千年王国、神の国、天の御国)が実現し、イエスさまが王として統治なさると預言されています。イエスさまによって自分の罪が赦されたということを信じた人は、すべて千年王国に迎え入れられます。信じた後、神さまに忠実な生涯を送っても、自分勝手ないい加減な生涯を送っても、です。
ただし、千年王国でどんな祝福をいただくかは、生きている間にどんな生き方をしたかによって決まります。
「私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。『その日』がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります」(第1コリント3:10-15)。
「どうせ赦されるんだから、好き勝手に生きよう」というのは、長い目で見れば損です。
地上でも損をします
罪は、神さまを傷つけ、自分自身を傷つけ、周りの人や社会や自然を傷つけます。 神さまは私たちの天の父で、私たちを大切に思っておられますから、私たちが罪を犯して平気でいると、私たちのために教育的指導をなさいます。時にそれは、私たちを痛い目に遭わせて反省を促すという方法でなされます。愛の鞭、あるいはショック療法ですね。
私たちは不完全ですから、ついつい神さまのみこころに逆らうことを考えたり、行なったりしてしまいますが、安心なことにそれらの罪や失敗はすべて赦していただけます。ただ、どうせ赦されるんだからと、反省しないで繰り返し罪を犯し続ければ、神さまからの教育的指導によって痛い目に遭うことになるでしょう。それは損な生き方ではありませんか?
「赦されない罪」って、どういう罪ですか?
マタイ12:31-32に、赦されない罪について書かれています。
「ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません」。
もしも赦されない罪があるなら、知らない間にその罪を犯していて、救いが取り消しになるかもしれません。これは心配ですね。
しかし、この「赦されない罪」とは、
- ある特定の時代に犯された罪です。それは、イエスさまが地上で活動していた時代です。
- 個人が犯した罪ではなく、国家としてのイスラエルが犯した罪です。
旧約聖書は、やがてダビデの子孫の中から救い主(メシヤ、キリスト)が現れ、理想的な神の国(天の御国)を建設して、ユダヤ人に平和をもたらし、さらに異邦人(外国人)をも祝福なさると預言しています。イエスさまは、その救い主は自分であると、言葉と奇跡によって主張なさいました。しかし、ユダヤ人は国として公式にそれを否定しました(マタイ12章のベルゼブル論争がそれです)。
そこで、イエスさまは、神の国建設をその目で見る特権を、「その時代の」ユダヤ人たちから取り去り、ずっと後の時代のユダヤ人に与えるとおっしゃいました。そして、「その時代の」イスラエル国家にさばきが下り、国が滅びることを預言なさいました。
当時、イエスさまを個人的に神の国の王、キリストだと信じたユダヤ人はたくさんいました。彼らはすべて霊的に救われていて、将来神の国が実現したときには、復活してその市民となる権利を持っています。しかし、国家としてのイスラエルへの物理的なさばきは取り消しになることはなく、紀元70年、ローマ軍がエルサレムを攻撃し、神殿も破壊されて、多くのユダヤ人が世界中に散らされてしまいました。
ですから、この「赦されない罪」は他の時代のユダヤ人(たとえば現代のユダヤ人)が犯すことはできませんし、その罪の責任を問われてさばきを受けることもありません。
もちろん、これを読んでおられるあなたも「赦されない罪」を犯すことができません。あなたはイエス・キリストを信じるだけで、すべての罪を赦されています。その救いが取り消しになることは決してありませんから、どうかご安心を。
どうしてユダヤ人は特別扱いなの?
このご質問は、ユダヤ人ばかり神さまにひいきされていてずるい、という思いから発せられたものでしょうか。確かに聖書は、ユダヤ人(イスラエル人、ヘブル人)を特別扱い、すなわち他の民族(異邦人)と区別しています。ユダヤ人は、世界の諸民族の中で唯一無二の、神の選びの民です。
しかし、ユダヤ人が神の選びの民となったのは、彼らだけが祝福されるためではありません。ユダヤ人を通して、どんな民族の人であったとしても神さまを信じることができるようになり、その結果罪を赦され、神さまに大いに祝福されるためです。
ユダヤ人の歴史はアブラム(後にアブラハムと改名)という一人の人物が、神さまに選ばれたところから始まります。神さまは、アブラハムとその子孫であるユダヤ人(より正確に言うと、ユダヤ人とは、アブラハムの子孫の中で、アブラハムの孫ヤコブの子孫のみを指します)を通して、全世界の国民を祝福するとおっしゃいました(創世記12:3)。
その当時、世界のほとんどの人々はまことの神さまのことを忘れ、自分勝手に神々を作って礼拝したり、自己中心的な生き方をしたりしていました。そんな中、ユダヤ人たちがまことの神さまに仕え、大いに祝福されている姿を見せることにより、また言葉によって神さまの存在やそのみこころを語ることにより、世界の人々がまことの神さまのことを知り、「自分たちも本物の神さまと交わりを回復したい」と願うようになります。それによって、全世界の人々が救われるようになるというのが神さまのご計画です。
ですから、もしもユダヤ人がまことの神さまから離れ、異邦人と同じように自分勝手な生き方をしていたら、その使命が果たせません。そこで、ユダヤ人が道を外れると、神さまは厳しいさばき(すなわち教育的指導、ショック療法)を与えて彼らを本来の道に戻そうとなさいます。
また、悪魔も、人類の救いのカギがユダヤ人だということを知っていますから、世界のあらゆる民族の中でも格別ユダヤ人を憎み、激しい攻撃を加えてきます。そのため、歴史上、ユダヤ人は多くの国民から迫害され、攻撃され、国を何度も失うような羽目に陥りました。
神さまに選ばれるというのは、ちゃんと使命を果たしているかどうか厳しく責任を問われ、また激しい攻撃も味わうということでもあります。それでも「ユダヤ人はずるい」と思われますか?
クリスチャンでも、自殺したら地獄に落ちるのですか?
結論から申し上げると、クリスチャンが自殺をしても、救いが取り消しになって地獄行き決定ということはありません。
聖書がはっきりと教えているのは、救いは行ないによって与えられるのではなく、イエス・キリストの恵みの福音を信じることによって与えられるということです(
上述)。自殺もまた「行ない」の一部です。
そして、
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:38-39)。自殺は、神さまの愛から私たちを引き離すことができないものの一つです。
ですから、一旦福音を信じたクリスチャンが、自殺によって救いを取り消しになることはありません。
悔い改め
一方、
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」(第1ヨハネ1:9)というみことばを引用し、自殺者は自殺の罪を告白し、悔い改めていないから赦されないと言う人もいます。
しかし、このみことばは、自分が犯した罪を、そのたびに「遺漏なくすべて」告白しないと救われないという意味ではありません。著者のヨハネは、「自分には罪なんかない」と主張している人たちに、その間違いを指摘した上で、罪を告白したら(すなわち福音を信じたら)完全に赦されて救われるんだから、安心して罪を認めて悔い改めなさい」と勧めているというのが、このみことばの文脈です。
たとえ自殺しなくても絶望して落ち込んだり弱音を吐いたりすれば、神さまの助けを信じ切れていないわけですから、厳密に言えば罪でしょう。また、陰口も罪、傲慢も罪、自己嫌悪も罪、嫉妬も罪、人のした悪を赦さないのも罪です。陰口や赦さない罪に気づかされたり悔い改めたりする前に、突然心臓麻痺になったり事故に遭ったりして死を迎えるクリスチャンも、古今東西たくさんいるはずです。その人たちの救いは取り消されるのでしょうか? いいえ、そんなことはありません。
そもそも、自分が犯す罪をすべて自覚し、告白して悔い改めることができる人がいるでしょうか。自殺の罪を犯した人の救いが取り消されるのであれば、救われる人は誰もいないことになります。
自殺していいというわけではない
繰り返しますが、聖書の教えを素直に読めば、クリスチャンが自殺しても、救いそのものが取り消しになることはないと断言できます。イエスさまの赦しは完全です。過去の罪も、現在進行形の罪も、そして死ぬまでの間に犯す罪も、すべて赦されました。
だからといって、自殺をしてもかまわないということではありません。自殺は殺人の罪の一種だからです。そして、多くの人たちに大きな心の傷を与える罪です。地上で生きている間は、完全に罪を犯さないことは不可能ですが、可能な限り罪を犯さないに越したことはありません(
その理由は上述)。
どんなに絶望状態に陥ったとしても、そこに神さまの愛と助けを信じ続けることができることが理想です。そして、神さまだけでなく、支えてくれる教会の仲間たちもいます。神さまが備えてくださった医療や心理学や法律などの専門家もいます。私(増田牧師)もここにいます。もし読者の中に自殺を考えている人がいれば、もう少しだけ先延ばしにしてください。そして、助けを求めてください。
携挙って何ですか?
世の終わりの時代に起こると聖書に預言されている出来事の一つです。詳しくは、第1テサロニケ4:13-18や第1コリント15:50-54に書かれています。
携挙の時が来ると、その時までに救われて死んだクリスチャンが、みんな復活して栄光の体が与えられます。また、その時生きているクリスチャンも、一瞬のうちに復活の体と同じ栄光の体に変えられます。そして、両者は一気に空中に引き上げられ、迎えに来られたイエスさまと出会い、そのまま天に迎え入れられます。
なお、携挙されたクリスチャンたちは、しばらく天で過ごした後、イエスさまの再臨の時に一緒に地上に戻ってきます。そして、その後地上に建設される千年王国(神の国、天の御国)に迎え入れられ、復活した旧約時代の信徒たちや携挙後に救われた人たちと共に、そこで祝福に満ちた生活を送ります。
いつ起こってもおかしくない
携挙は、イエスさまが天にお戻りになった後は何の前提条件もなく、いつ起こってもおかしくありません。携挙が今日起こるとしても、あるいは生きている間には起こらないとしても後悔しないような生き方をしましょう。
なお、いつ携挙が起こるかは父なる神さまだけがご存じであり、天使ばかりかイエスさまでさえ知らないとおっしゃいました(マタ 24:36)。ですから、携挙がいつかを人間が勝手に予想したり預言したりするのは間違いです。その預言がどんなに有名な牧師が語ったものでも、絶対に偽の預言ですから振り回されないでくださいね。
エレミヤの70年って、計算が合わないんじゃないですか?
「エレミヤの70年」とは、エレミヤが預言したバビロンの支配が終わって捕囚の民が故郷に帰れるようになるまでの期間のことです。具体的には以下の2つの預言です。
- 「この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える」(エレミヤ25:11)。
- 「まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる」(エレミヤ29:10)。
エレミヤがこの預言を語った当時、バビロン(新バビロニア帝国)が中東の国々を次々と支配下に置き、イスラエルの南王国にもたびたびバビロン軍が侵入してきていました。バビロン軍は攻撃した町の人々のうち、有能な政治家や職人や若者たちを自分たちの国に連れ去っていきました(バビロン捕囚)。
バビロンがペルシアによって滅ぼされたのが前539年、一部のユダヤ人によるイスラエルへの帰還が始まったのがその翌年の538年です。エレミヤの70年が前539年ないし538年に終わったとすると、スタートは前609年ないし608年ということになります。しかし、バビロンによる南王国攻撃と捕囚が始まったのが紀元前605年ですから計算が合わないじゃないか、というのが今回の質問の趣旨です。
エレミヤの70年が具体的にいつからいつまでなのかというのは、70年は文字通りでなく大体それくらいの長い期間という意味だという説も含めて諸説あります。
増田牧師はエレミヤの70年のスタートは前609年だと考えています。エレミヤ25:11は、イスラエルがバビロンに支配される期間が70年と語っているのではなく、バビロンの周辺諸国が支配される期間が70年だと語っています。そして、前609年にはそれまで中東で最も勢力のあったアッシリアがバビロンによって滅ぼされ、代わりにバビロンが中東の支配者となりました。
キリストの系図が、マタイとルカの福音書で異なってるんですが?
イエス・キリストの系図は、マタイ1章とルカ3章に書かれています。マタイはアブラハムからイエスさまに向かって先祖たちの系図を記し、ルカはイエスから人類の祖先アダムに向かってさかのぼる形で系図を記しています。それは、マタイはイエスさまがアブラハム(とダビデ王)の子孫であることを強調し、ルカはイエスさまが神の子であることを強調しているからです。
ただ、最も重要な違いはそこではなく、ダビデより後の名前がマタイとルカでまったく異なっていることです。マタイではダビデの子がソロモン、ルカではナタンとなっています。そこで、それ以降の先祖たちの名前が異なるのです(たまたま同名の人もいますが別人です)。
これは、マタイがイエスさまの法律上の父であるヨセフの家系を記し、ルカが肉体的な先祖、すなわち母マリアの家系を記しているためと考えられます。