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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

もう一人の助け主

イエス・キリストの生涯シリーズ91

ヨハネによる福音書14章15節〜31節

(2024年8月11日)

いわゆる最後の晩餐が終わって、イエス・キリストが使徒たちに「もう一人の助け主」である聖霊なる神について話をしている場面です。

礼拝メッセージ音声

参考資料

16節の「願う」と訳されているギリシア語の動詞「エロウタオウ」は、同格の人に対してお願いすることを表します。ここからもイエス・キリストが神であることが示唆されています。

22節の「イスカリオテではないユダ」は十二使徒の一人で、別名タダイ(マタイ10:3、マルコ3:18)。ルカ6:16や使徒1:13では「ヤコブの子ユダ」と呼ばれています。教会の伝承では、小アジアにあるエデッサの王アブガルのツァラート(重い皮膚病)をいやしたり、使徒バルトロマイと共にアルメニアで伝道したりしたとされています。そして、最期は斧で打ち殺されたといいます。

イントロダクション

神さまは世界全人類を愛してくださっています。しかし、その愛がこの自分により強く深く注がれるとしたらどうでしょうか。神さまとの関係が深まれば深まるほど、私たちは神さまからの導き、慰め、励まし、警告などをよりクリアに感じ取ることができるようになるでしょう。

今日は、十字架直前の過越の食事(いわゆる最後の晩餐)が終わった直後に語られたイエスさまの説教から、神さまとの関係をより深めるために必要なことを教えていただきましょう。

1.聖霊に関する教え

わたしの戒めを守りなさい

キリストを愛する人とは
(15節)もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。

ある時イエスさまは、ユダヤの指導者たちに向かって、ぶどう園の主人の2人の息子のたとえ話をなさいました。

(28-31節前半)ところで、あなたがたはどう思いますか。ある人に息子が二人いた。その人は兄のところに来て、『子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。 兄は『行きたくありません』と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。その人は弟のところに来て、同じように言った。弟は『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった。二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。」

もちろん答えは、実際に働きに行った兄の方ですね。
イエスさまを愛するとは、口で「愛しています」と告白するだけではありません。イエスさまの命令を聞いて、それを実際に守ることです。

ところが、私たち人間は、「こうするぞ」と決意したことを守り切ることがなかなかできません。イエスさまの命令を守るにはどうしたらいいのでしょうか。
もう一人の助け主
(16節)そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。

イエスさまはもう一人の助け主を、弟子たちの元に送ると約束なさいました。26節で明確に語られていますが、助け主とは聖霊なる神さまのことです。

「助け主」と訳されているギリシア語は、パラクレートス。これには「そばに呼び寄せられる人」という意味があります。転じて、弁護士、助言者、つらい時に慰めてくれる人、困った時に助けてくれる人などの意味が派生しました。

いつもそばにいて慰め、励まし、いやし、助言し、助けてくださるお方。イエスさまの弟子、すなわちクリスチャンにとって、聖霊さまはそういうお方です。
真理の御霊の内住
(17節)この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。

助け主と呼ばれる聖霊さまは、真理の御霊とも呼ばれています。真理を教えることによってクリスチャンを助けてくださるという意味です。

そして、真理の御霊である聖霊さまは、クリスチャンの内に住むことによって、いつも一緒にいてくださるようになります。それが最初に実現したのが、使徒2章のペンテコステの日の出来事です。

聖霊さまの存在やその助けについて体験的に知ることができるのは、イエスさまを信じたクリスチャンだけです。
孤児にはしないという約束
(18-19節) わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。

間もなくイエスさまはユダヤの指導者たちによって逮捕され、不当な裁判によって死刑が宣告され、十字架につけられてなくなります。そして墓に葬られ、弟子たちの前から姿を消してしまいます。しかし、イエスさまは3日目に復活して弟子たちの前に姿を現します。

それからイエスさまは天にお帰りになり、再びこの世からは見えなくなります。しかし、イエスさまの昇天後10日たつと、先ほど約束されていたとおりもう一人の助け主である聖霊さまが降ってこられ、弟子たちの内に住むようになります。

父なる神、子なる神であるイエスさま、そして聖霊さまは、三位一体の神です。イエスさまは今天の父なる神さまの隣にいらっしゃいますが、聖霊さまを通してクリスチャンの内にいてくださるとも言えます。

そして、クリスチャンが死ぬと、肉体は滅びてしまいますが、魂は父なる神さまとイエスさまがいらっしゃる天のパラダイスに招き入れられます。死んだクリスチャンの魂は、イエスさまの身元で安らぎを得ることができます。

それから、これは将来のことになりますが、「携挙」と呼ばれる出来事が起こります。携挙については前回のメッセージでも取り上げました。
  1. ある日ある時、すでに死んでしまったクリスチャンが復活します。それまでは魂だけの存在だったクリスチャンに、栄光の体が与えられるのです。
  2. 同時に、その時生きているクリスチャンは、瞬間的に復活の体と同じ栄光の姿に変えられます。
  3. 両者は空中に引き上げられます。
  4. そこに迎えに来られたイエスさまと共に天のパラダイスに招き入れられます。
こうして、イエスさまが死んで、まるで見捨てられた孤児のように思えた弟子たちは、復活したイエスさまと永遠に共にいることになります。
イエスと父と弟子たちの一致
(20節)その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。

文脈上、18-19節は聖霊さまの内住によってイエスさまが弟子たちと共にいてくださるようになることを特に示していると思われます。とすれば、20節の「その日」とは、聖霊が弟子たちの元に降ってこられ、うちに住んでくださるようになるペンテコステの日のことを指しています。

真理の御霊である聖霊さまは、イエスさまと父なる神さまが一つであることを理解させてくださいます。イエスさまは三位一体の神の第三位格、子なる神です。そして、イエスさまと弟子たちも一つであることを理解させてくださいます。

弟子たちの群れである教会は、キリストの体と呼ばれています。イエスさまと弟子であるクリスチャンもまた一つです。
愛のやり取り
(21節)わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」

私たちが聖書の神さまのことを知り神さまを愛するようになる前に、すでに私たちのことを愛してくださっています。そして、そのしるしとしてイエスさまが十字架にかかり、行ないではなく信仰によって救われる道を開いてくださいました。

(第1ヨハネ4:10)私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

イエスさまの命令を守ることは、救いの条件ではありませんし、神さまにもっと愛されるための条件でもありません。

その一方で、イエスさまはご自分の命令を守ることによってイエスさまへの愛を現す人に対する祝福も語られました。それは、イエスさまとの関係、父なる神さまとの関係がより深まるということです。

深く愛し合っている熟年夫婦が、言葉を交わさなくても相手の思いをくみ取れるようになりますね。同様に、神さまとの関係が深まれば深まるほど、折に触れて与えられる神さまの導き、慰め、励まし、警告などをよりクリアに感じ取ることができるようになります。それは大変な祝福です。

ユダ・タダイとの問答

タダイの問いかけ
(22節)イスカリオテでないほうのユダがイエスに言った。「主よ。私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか。」

十二使徒の中で、イスカリオテのユダではないユダ、他の箇所ではタダイと呼ばれている弟子がイエスさまに質問しました。

これまでイエスさまは近い弟子たちに対しては、ご自分が救い主だということを示してこられました。

旧約聖書の預言によれば、救い主は王として世界を征服し、神の国と呼ばれる理想的な王国を地上に実現します。王ならば当然ユダヤ人や異邦人の前で、自分は救い主だということを明言し、これから世界を治めると宣言するはずだとユダ・タダイは考えました。

このたびイエスさまはエルサレムに来られたのですから、いよいよその時が来たとタダイは考えました。これはタダイだけでなく他の弟子たちもそう期待していました。ところが一向にイエスさまは公に救い主宣言をしようとせず、それどころか前回や今回取り上げたように、イエスさまはこの後姿を消してしまうというようなことをおっしゃいます。

この点に関して疑問に思ったタダイは、イエスさまに直接質問したのです。
イエスの回答
(23-24節)イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。

イエスさまはタダイに、イエスさまの命令を守る人がイエスさまを愛する人であり、イエスさまと父なる神さまと深い交わりを体験するということを再び語られました。

逆に言うと、イエスさまを愛さない人、すなわち信仰のない人には、イエスさまが神の国を実現する救い主だということは分からないし、父なる神さまのことも分りません。

そして、イエスさまが王として神の国を実現するのは、まず十字架と復活によって人類の罪の問題を解決してからです。罪を持ったままの人間は、きよい神の国に入ることができないからです。

ですからイエスさまは、信じる人たちにだけ真理を明らかにしてこられました。
すでに話した
(25節)これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。

タダイが疑問に思った点についても、また前回ペテロやトマスが疑問に思った点についても、イエスさまはこれまで弟子たちには語ってこられました。

しかし、残念ながら弟子たちにはまだ理解できていませんでした。
真理を知る時
(26節)しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

弟子たちがイエスさまの教えを本当に理解できるようになり、教えられたことを実践できるようになるのは、真理の御霊である聖霊さまが降ってこられ、弟子たちの内に住むようになってから、すなわちペンテコステの日以降です。

残される弟子たちへの励まし

平安を残す
(27節)わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

これからイエスさまは弟子たちの前から姿を消してしまいます。十字架にかかり死んで葬られるからです。復活して一時的に弟子たちに姿を現しますが、今度は天にお帰りになって再び姿を消します。しかしイエスさまは、そうなった時に弟子たちが心を騒がせたりひるんだりしなくてすむよう、平安を与えてくださいます。

それは、この世の中で得られるような安心の種とは違います。この世の安心の種とは、たとえば財産をたくさん持っているとか、健康だとか、有力者とのコネがあるとかいうものではありません。それとはまったく違う安心の種、聖霊なる神さまによってもたらされる平安です。
まだ理解できない弟子たち
(28節)『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。

しかし、この時点ではまだ弟子たちは聖霊さまに住んでいただいていません。ですから、イエスさまの教えに対して理解が追いついていません。もし弟子たちがイエスさまの教えを理解していたなら、イエスさまがこれから十字架にかかったり、天にお帰りになったりすることも理解し、しかも喜んだはずです。

イエスさまは、弟子たちが喜ぶ理由を「父はわたしよりも偉大な方だから」とおっしゃいました。イエスさまが神であることを否定する異端の教会は、この箇所が根拠の一つだと主張します。

しかし、父なる神さまと子なる神であるイエスさまは同格であって、本来どちらが上でどちらが下ということはありません。けれども、あえて父と子という関係を取っておられます。そして、古代の人間の世界で子どもが父親に従うように、父なる神さまの立てたご計画と、それに基づく命令にイエスさまが従って行動するという形を取っておられるのです。

しかも、イエスさまは父なる神さまに嫌々従っておられるわけではありません。イエスさまは父なる神さまのことを心から愛しておられるので、喜んで従っていらっしゃるのです。

この「父はわたしよりも偉大な方だからです」という箇所箇所の意味は、イエスさまが神ではなく単なる被造物に過ぎないということではありません。「それほどまでに私が愛してやまない父なる神さまと、再び直接お目にかかることができるようになるのだから、私を愛するあなた方なら、本来私が地上を去って天に帰ることを喜んでくれるはずだよね」ということです。
予告による励まし
(29節)今わたしは、それが起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったとき、あなたがたが信じるためです。

イエスさまは、これから逮捕されて十字架にかけられようとしています。イエスさまが受けようとしている字架刑は、愛してやまない人間たちから拒否され、さらには永遠の昔から共にいて愛し合ってきた父なる神さまから罪人として呪われ、さばかれ、切り離されることです。肉体的・精神的にだけでなく、霊的にも大変な痛みです。
ところが、そんな十字架を前にしても、イエスさまはなお残される弟子たちのことを心に掛けておられます。そして、ことが起こった時に慌てふためくことがなく、むしろイエスさまに対する信頼の心を深められるよう、あらかじめこれらのことを話されました。
残された時間は少ない
(30-31節)わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることができません。それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。

イエスさまには、もっともっと弟子たちに話しておきたいことがあったでしょう。しかし、もうイエスさまにはほとんど時間が残されていません。間もなくイスカリオテのユダに導かれた捕り方によってイエスさまは逮捕され、その後十字架にかけられてしまいます。

それは多くの人々の目には、罪人であるナザレのイエス父なる神さまに嫌われ、さばかれたせいだと考えるでしょう。実際、多くの人々が逮捕されたイエスさま、そして十字架にかけられたイエスさまに呪いの言葉を投げかけました。

しかし、実際には十字架はイエスさまの父なる神さまへの従順の表れです。

イエスさまは過越の食事をとった部屋を出て、オリーブ山のゲツセマネの園に向かって弟子たちと共に出発しました。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神さまとの関係を今よりさらに深めて、神さまからの慰め、励まし、導きをよりクリアに受け取ることができるようになるために……

2.聖霊の助けを借りてイエスの命令を守ろう

イエスの命令を学ぼう

イエスさまの命令を守るためには、イエスさまの命令が何なのか知る必要があります。

福音書の時代には、ユダヤ人にはモーセの律法という命令体系が与えられていました。当時の、そしてそれ以前のユダヤ人はそれを守るよう命ぜられていたのです。しかし、イエスさまが十字架にかかった時、モーセの律法は役割を終えて廃棄されました。

代わりに与えられたのが「キリストの律法」と呼ばれる命令体系です。

(ガラテヤ9:19-21)私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。

キリストの律法の命令は、主に使徒の働き以降の新約聖書の中に見いだすことができます。

福音書は、まだモーセの律法が有効な時代を描いています。ですからイエスさまが語られた命令の多くはモーセの律法に関するものです。しかし、中には将来実現する教会の信者に向けて語られた命令もあります。それは話の流れ、文脈に注意して読めば判断できます。
聖書の霊感と聖霊の照明
聖書は、人間が勝手に自分の思想を書いたものではありません。聖霊なる神さまによって導かれた人たちが、神さまのみこころ、すなわち神さまのお考え、ご計画、願いを間違いなく記したものです。これを「聖書の霊感」と呼びます。

(第2テモテ3:16)聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。

ですから、聖書の本当の著者は聖霊さまだと言えます。書かれた文章の意味を最も理解しているのは、書いた本人ですね。ですから、聖書の意味を最もよくご存じなのは聖霊さまです。そして、クリスチャンの内に住んでくださっている聖霊さまは、クリスチャンが聖書の意味を理解できるよう助けてくださいます。この聖霊さまのお働きを「聖霊の照明」と呼びます。
イエスさまの命令を守るためには、イエスさまの命令が何なのか知る必要があります。今の時代、神さまは主に聖書を通してみこころを私たちに教えてくださいます。聖書を読んでその意味を理解し、イエスさまが私たちに行なうよう望んでおられることをはっきり理解できるよう、聖霊さまは助けてくださいます。

聖書を読む時には、聖霊さまの助けを期待し、求めながら読みましょう。

学んだことを実践しよう

しかし、ただイエスさまの命令を知るだけでは不十分です。イエスさまは、ご自分の命令を私たちが実際に行なうことを期待していらっしゃいます。

先ほど、聖霊の照明の話をしました。私たちの内に住んでくださっている聖霊さまは、聖書の内容を理解する力を与えてくださると共に、私たちの心の内を照らして闇を追い払い、良いものに造り変える働きもしてくださいます。

すなわち、
  • イエスさまへの愛を深め、愛するイエスさまの命令を守りたいという思いを与えてくださいます。
  • 困難な状況に直面しても、それでもイエスさまの命令を守ることができるよう、慰めや励まし、勇気や知恵を与えてくださいます。
これもまた聖霊の照明、聖霊さまのお働きです。

学んだことをどんな状況でも喜んで実行できるように、聖霊さまの助けを求めましょう。

神との深い交わりを味わおう

イエスさまの命令を学び、それを実践する人に与えられる報酬は、イエスさま、父なる神さま、そして聖霊さまとの関係がより深まることです。

それによって、私たちはますます自分が三位一体の神さまに愛されていることを実感できるようになります。全知全能の神さまと仲良しだという確信が深まれば、「何があっても大丈夫。何がなくても大丈夫」という確信も深まるでしょう。

そして、実際に神さまの導きや警告をさらにクリアに感じ取り、慰めや励ましをより強く感じ取ることができるようになっていきます。
今週も、私たちがもう一人の助け主である聖霊さまによって、イエスさまの命令を学び、実践し、それによって神さまのとの関係をさらにさらに深めることができますように。

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