(2025年月日)
第2回伝道旅行中のパウロは、一人でアテネにやってきました。そして、市民たちに請われて偶像礼拝とまことの神への礼拝について話をしました。
礼拝メッセージ音声
参考資料
22節の「アレオパゴス」はアテネにあった丘の名前。あるいは、そこに置かれたアテネの長老たちが参加する議会のこと。重要な審議事項は市民が参加する「民会」で決定しましたが、アレオパゴス議会は教育・道徳・宗教に関する監督権を有していました。
28節には2つの詩が引用されています。引用元の詩人については、次の2人の可能性が指摘されています。
- 1つ目の詩は、クレタ(ギリシア南方の島)のエピメニデス(紀元前6世紀)。アテネで予言を行なったり、浄めを行なって疫病を食い止めたりしたという伝説があります。また、テトス1:12の「クレタ人の預言者」もエピメニデスのことだと思われます。
- 2つ目の詩は、キリキヤ(小アジア南部)のアラトス(紀元前3世紀)。ギリシア神話の星座にまつわるエピソードの多くは、彼が書いた教訓詩「星辰譜」(パイノメナ)を元にしています。
この「星辰譜」の中に、「我々はゼウスの子孫である」という一節があります。
イントロダクション
聖書は偶像礼拝を禁止していますが、どうしてなのでしょうか。それをこの箇所から教えていただきましょう。
1.アテネでの伝道
アテネに到着したパウロ
マケドニアからアカイアへ
これまでの話を振り返りましょう。シラスと共に第二回伝道旅行をスタートさせたパウロは、途中でテモテとルカを一行に加えて、ギリシア北部のマケドニア属州に渡りました。そして、ピリピ、テサロニケ、ベレアで伝道しました。
その後パウロは、ギリシア南部のアカイア属州に移動しました。なお、ルカはピリピに、シラスとテモテはベレアに残りました。パウロは一人で、アカイアの主要都市の一つであるアテネに入ります。
偶像に満ちた町
(16節)さて、パウロはアテネで二人を待っていたが、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた。
「二人」というのは、シラスとテモテのことです。パウロは、アテネの町に多くの偶像が建っているのを見ました。
愛媛県に青島という島があります。ここは猫島という別名で有名で、島民6人に対して、猫が200匹もいるそうです。つまり、人間より猫の方が多い島です。同様にアテネも、人より偶像の方が多いと言われるほどでした。
元々パウロは、イスラエルではなく小アジアのタルソという町で生まれ育ちました。ですから、ギリシア・ローマ世界の偶像には馴染みがあったはずです。しかし、アテネの町はパウロの想像以上に偶像がたくさんあったのです。その状況に、パウロは怒りを覚えました。
そして、ユダヤ人や神を敬う人々(すなわち、正式にはユダヤ教に改宗していないが、聖書の神を信じる異邦人たち)、そして市民たちと議論しました。
アレオパゴスに案内されるパウロ
パウロの話を聴いたアテネの人たちは、もっと話をして欲しいと願いました。その理由について、聖書には次のように書かれています。
(21節)アテネ人も、そこに滞在する他国人もみな、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。
つまり、パウロが語る福音の内容そのものに興味を持ったというよりも、耳新しい話を聴きたいという知的好奇心から「もっと話をしてくれ」と言ったわけです。
こうしてパウロは、アレオパゴスという所に案内されました。こうして今回のエピソードが始まります。
アレオパゴスでの説教
アイスブレイク
(22節)パウロは、アレオパゴスの中央に立って言った。「アテネの人たち。あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。
アレオパゴスはアテネの丘の名前、あるいはその場所で開かれた長老たちから構成される議会のことです。22節の「アレオパゴス」が丘のことを指しているのか、議会のことを指しているのかは分かりません。
ただ、34節にアレオパゴスの裁判官が登場しますし、アレオパゴス義会は教育・道徳・宗教について監督する権限が与えられていましたから、パウロが議会に連れて行かれたというのは大いにあり得ます。
このときのパウロは、町が偶像で満ちあふれている様子に憤りを感じていました。しかし、いきなりアテネの人々を批判したりはしませんでした。まずは、アテネの人たちの宗教心のあつさを認めてほめます。心を開いて「こいつの話を聴いてやろう」と思ってもらうためです。
本題への導入
(23節)道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られていない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけたからです。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。
次にパウロは、「知られていない神に」と刻まれた祭壇の話題を出します。アテネの人々は、ギリシア神話の神々を礼拝していました。しかし、広い世界にはまだ自分たちが聞いたことのない神々がいるはずだからと考え、そんな未知の神々ための祭壇まで造って拝んでいたのです。
ちなみに、この祭壇は発掘されて見つかっています。
パウロは、その知られていない神についてこれから話しますよと予告します。多神教を信じるアテネの人たちに、いきなり偶像礼拝は罪だという話をしても理解してもらえません。この導入によってパウロは、唯一まことに神さまについての話を聴くための心の準備をさせています。
自立している創造主
(24-25節)この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。
いよいよ本題に入ったパウロは、「知られていない神」とはこの世界を創造なさった天地の主であると語ります。数多くの神々の中の一人ではなく、ただお一人の絶対的存在です。
日本では旧暦の十月を神無月と呼びました。この名前の由来については諸説ありますが、最もよく知られる由来は、この月には全国の神々が出雲大社に出張して会議を開くので、出雲以外は神がいなくなるからというものです。
しかし、聖書の神さまは、どこかの場所にいるからといって他の場所には存在しないということはありません。神さまはただお一人ですが、場所に縛られずどこにでも存在しておられます。神さまのこのご性質を「遍在」と呼びます。
神殿を作ってそこに神が住むと信じるのは、神さまの遍在のご性質を否定することになります。パウロはそのように主張します。
ただ、ここで疑問が生じます。パウロの時代にはまだエルサレムに神殿があって、そこに神さまが臨在なさると信じられていました。また、モーセの時代には幕屋が神の臨在の場所でした。これをどう考えればいいのでしょうか。
イスラエルの幕屋や神殿は、世界各地にある神殿と異なり、人間が勝手に造って「ここに神が住んでおられる」と決めたものではありません。幕屋は神さまがモーセに作るよう命じたものですし、エルサレム神殿はダビデが建てたいと神さまに願って、ダビデではなく息子のソロモンが建てるようにと命ぜられたものです。
すなわち、イスラエルの幕屋や神殿は、神さまご自身が「わたしはそこにいよう」とお決めになり、そうなさった場所でした。もちろん、神さまは遍在ですからそこにだけ存在しておられたわけではありません。特別にご自分の存在を明らかになさり、特別な働きをなさる場所となさったということです。
しかし、人間が勝手に神殿を作るのは、神さまを一箇所にしか存在できないお方にしてしまう失礼な行為です。
またパウロは、唯一絶対の神さまは、人の手であれこれとお世話してもらう必要もないと主張しました。神さまは完全に自立しておられて、足りないことが何一つないからです。むしろ、創造主である神さまの方が、私たち人類に命や様々なものを与えてくださっています。
全人類の創造主
(26節)神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。
アテネの人々のほとんどは、創世記の内容を知りません。そんなアテネ市民に、パウロは全人類が一人の人(すなわちアダム)から出たということ、そしてそのアダムは神さまによって創造されたのだと言いました。
それから人類は世界中に広がっていきました。人類は好き勝手に世界に広がって住まいを定めたように思います。しかし、その背後には神さまの導きがあります。アテネ人がアテネに住んでいるのも、神さまの導きがあったからです。
ギリシアの哲学者の中には、理神論という考え方を信じる人たちがいました。理神論とは、神が世界を創造したことは認めても、創造後はもはや世界に関わることがないという立場。ネジを巻いた後の時計のように、創造後の世界は自らの法則に則って動き続けるという考えです。
パウロは、この理神論を真っ向から否定しています。創造主である唯一まことの神さまは、この世界や私たち人類に深い関心を持っておられ、積極的に関わっておられます。
神が世界に関わる目的
(27節)それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。
創造主の神さまがこの世界に積極的に関わっておられるのは、人間が神さまのことを求めさせるためだとパウロは言います。多くの人々はまことの神さまを忘れて生きていますが、もしも作り物ではない本当の神さまのことを知りたいと願うなら、その人は神さまを見出すことができます。
後にパウロは、ローマ人への手紙で次のように語りました。
(ローマ1:19-20)神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。
この世界を素直な目で観察するならば、創造主の神さまの存在やそのご性質の一部を知ることは十分可能です。
この話をお読みください。
17世紀後半、オランダの商人だったアントニ・ファン・レーウェンフックは、仕事柄小さいものを拡大するレンズに興味を持ちました。
そして、17世紀初頭に発明された顕微鏡を自作しようと思い立ちます。彼は自分でレンズを研磨して、従来のものとは比べものにならない倍率の顕微鏡を作り上げます。
その結果レーウェンフックは、これまでは見ることができなかった微生物を発見します。
熱心なクリスチャンだったレーウェンフックは、微生物の構造や動きを観察しながら、神さまの創造のわざの緻密さに驚嘆しました。それ以来、顕微鏡を覗く際には、礼拝に行くときに着る正装をするようになったと言われています。
詩の引用
(28節)『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。あなたがたのうちのある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である』と言ったとおりです。
パウロは2つの詩を引用しました。引用元と考えられている詩人については、参考資料をご覧ください。
ただ、2人の詩人が言っている「神」とは、ギリシア神話の神のことです。最高神ゼウスとか、大地の女神ガイアとかですね。パウロは、もちろんアテネの人々がゼウスやガイアの子孫だということを認めているわけではありません。
聖書のことを知らないアテネの人々に、彼らが知っている詩を用いて興味を引き、あなた方は実は唯一絶対の創造主によって造られたのだということを伝えようとしています。
神は人が作ったものではない
(29節)そのように私たちは神の子孫ですから、神である方を金や銀や石、人間の技術や考えで造ったものと同じであると、考えるべきではありません。
神は、人の技術で金・銀・石などを材料にして形作ることができるものではありません。また、人間が理性で考え出したものとも違います。むしろ、人間の方が神さまによって創造されたのです。パウロはそのように主張しました。
しかし、多くの異邦人たちは、人間を造った神を偶像という形に押し込めてしまいました。先ほどのローマ人への手紙の続きで、パウロは次のように語っています。
(ローマ1:21-23)彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。
恵みと悔い改めの時代
(30節-31節前半)神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。
これまでの時代、創造主の神さまは、ご自分のことを忘れて偶像礼拝にふける人類の罪を見過ごしにしておられました。それは、さばきを控えて忍耐しておられたという意味です。
しかし、新しい時代が到来しました。イエス・キリストによって救いの道が開かれ、救われるために信じなければならない恵みの福音が明らかにされたのです。
恵みの福音とは、「この私の罪を赦すためにイエス・キリストが十字架にかかった。そして、キリストは死んで葬られ、3日目に復活なさった」ということです。これを本当のことだと信じ受け入れるだけで、人の罪は赦され、それどころか神さまの子どもにしていただいて永遠に祝福されます。
そのような恵みの時代、救いの時代がやってきました。しかし、この時代がいつまでも続くわけではありません。
イエス・キリストはもう一度地上に戻ってこられます。すなわち再臨です。そして、キリストは世の終わりに白い御座について、罪が赦されないまま残されている人たちの裁判を行なわれます。罪人たちは有罪判決を受けて、永遠の苦しみという罰を受けることになるのです。
しかし、恐れる必要はありません。恵みの福音を信じて罪の赦しを受け取ったなら、最後の審判に引き出されることは決してありません。永遠の苦しみではなく、永遠に続く祝福が与えられます。
ですから、人は自分の罪を認め、悔い改めて福音を信じなければなりません。そして、罪を赦され、神さまの子どもにしていただく必要があります。今はそれが可能な恵みの時代なのだから。パウロはそう訴えました。
キリストの復活という証拠
(31節後半)神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。」
最後にパウロは、イエスさまの復活を持ち出しました。イエスさまはご自分の教え、すなわち罪のさばきや赦しについての教えが正しいことを、予告通り十字架で殺された後に復活することによって証明なさいました。
アテネ伝道の結果
興味を失ったアテネ人
(32節)死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、ほかの人たちは「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」と言った。こうして、パウロは彼らの中から出て行った。
この後パウロは、恵みの福音の内容について詳しく解説しようと考えていたことでしょう。しかし、聞いていた人々は聞く気をなくしてしまいました。というのは、パウロが語るキリストの復活というテーマは、ギリシア哲学の常識からかけ離れていたからです。
ギリシア哲学の特徴の一つは、霊肉二元論です。物質的な肉体と非物質的な霊魂を明確に区別します。そして、物質は悪で霊魂は善です。人間が苦しむのは、善である霊魂が悪である肉体に捕らわれているからだと考えました。
ですから、苦しみの源である肉体から解放される死は、アテネの人々にとってはむしろ幸福です。それなのに、わざわざもう一度肉体に戻ってくる復活などバカバカしい話だと思われたのです。
パウロはそれ以上話を聴いてもらえなくなったため、アレオパゴスを離れました。この後パウロは、アテネ自体からも出てしまってコリントに向かいます。
伝道の実
(34節)ある人々は彼につき従い、信仰に入った。その中には、アレオパゴスの裁判官ディオヌシオ、ダマリスという名の女の人、そのほかの人たちもいた。
ピリピ、テサロニケ、そしてベレアなどマケドニア属州での伝道では、パウロはひどい迫害に遭いましたが、たくさんの人々、特に異邦人たちが救いに導かれました。しかし、アテネでは迫害は起こらなかったものの、ほとんど福音に興味を持ってもらえません。
それでも、数名の人たちがパウロの話を聴いて悔い改め、福音を信じて救われました。パウロの働きは無駄ではなかったのです。たとえ反応が薄くても、私たちはイエスさまのことを伝え続ける必要がありますね。
それでは、ここから偶像礼拝がなぜいけないのかを教えていただきましょう。
2.偶像礼拝がいけない理由
(1) 神の偉大さを否定するから
本当の神さまは、天地を造られた創造主であって、あらゆるものを超越し、その上に存在しておられる方だとパウロは言います。そういう偉大なお方を、偶像の形で表現することはできないのです。
神さまを手で作った偶像に形作ることは、神さまのさまざまなご性質に制限を与えます。
- 勝手に神殿を作るのと同様に、遍在であるはずの神さまを一箇所に縛り付けてしまいます。
- 偶像は神さまのご性質の一部しか表現できません。慈愛に満ちた顔の像を刻むと、神さまの罪を憎みさばきをもたらす正義のご性質を表せません。 逆に怒りに満ちた表情の像を刻むと、赦しを与える愛のご性質を表せません。
- 多くの宗教では自分たちが信じる神々を偶像にします。もし聖書の神さまを偶像で表すと、唯一絶対であるはずの神さまが多くの神々の一人のように誤解される恐れがあります。
- 創造主であり被造物を超越していらっしゃる神さまを、有限な被造物で表現することはできません。 そんなことをするのは、神にのみ与えられるべき栄光を被造物に与える行為です。
たとえ聖書の神さまを礼拝するためであっても、偶像を作ることは神さまをほめたたえるどころかかえって神さまの偉大さを否定する失礼な行為です。ですから、決してしてはならないのです。
(2) 人間の可能性を否定するから
私たちは神の子孫だとパウロは言います。それは、私たち人類が神さまによって創造された、神さまの作品だからです。また、クリスチャンにとってはそれ以上の意味があります。恵みの福音を信じたとき、私たちは神さまの養子となりました。
(ヨハネ1:12)しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
子どもは親に似る
子どもは親に似るものです。私たちの2人の娘も、顔だけでなく行動もどことなく私や家内に似ていますし、私自身も両親に言動が似ています。
私たちが神さまの子どもになったのなら、私たちは神さまに似てきます。実際、聖書も次のように約束しています。
(第2コリント3:18)私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
しかし、私たちの親でありモデルであるはずの神さまが、手で作られたり頭で考え出されたりしたちっぽけな偶像だとしたらどうでしょうか。子どもである私たちの可能性も著しく制限されることになります。
みにくいアヒルの子
あなたは「みにくいアヒルの子」という童話をご存じでしょう。羽毛が灰色のアヒルがいて、きょうだいにから不細工だといじめられ、母鳥からも邪険に扱われていました。
ところが、あるとき彼は水面に移る自分の姿を見ます。そこにいたのは、真っ白な美しい白鳥でした。みにくいアヒルの子だった白鳥は、他の白鳥たちの元へと飛び立ち、その後は幸せに暮らしましたとさ、という話です。
みにくいアヒルの子は、アヒルではなく白鳥でした。卵の頃から一瞬たりともアヒルだったことはなく、ずっと白鳥のままです。だからこそ、真っ白な羽毛と大空に舞い上がる強い翼を手に入れたのです。
しかし、もしも本来の自分の姿に気づけなかったら、一生自信を持てないまま湖の上とその周りで過ごしたことでしょう。
私たちは偉大なお方の子ども
私たちは偉大な神さまの子どもであり、すばらしい可能性に満ちています。しかし、偶像で表される程度の神の子どもだとしたらどうでしょうか。
不完全な偶像が表現する神もまた、不完全です。日本の神話やギリシア・ローマ神話に登場する神々は、人間臭くて魅力的ではありますが、弱くて嫉妬深くて怒りっぽくて不誠実です。
偶像を作り、それを神さまとして拝んでいると、神さまについてのイメージがどんどん偏り、貧困になってしまいます。そうすると、神さまの子どもである私たちのセルフイメージもゆがみ、生き方が本来神さまが用意してくださった可能性からかけ離れていきます。
頭の中の偶像
たとえ物理的に偶像を作って拝まなくても、頭の中に聖書とかけ離れた神さまをイメージしていたとしたら、その間違ったイメージは私たちの生き方を縛り付けます。
Aさんは引きこもりでした。小さい頃から親に連れられて教会の礼拝に参加していたのですが、そこで語られるメッセージに登場する神さまは、聖書の神さまとはかけ離れていました。
罪人をさばくために世界を滅ぼす恐ろしい神、あれしろこれしろと命令する高圧的な神、人間が罪を犯さないかいつも監視する神という面がものすごく強調されていたのです。その結果、Aさんの頭の中の神さまもそのようなイメージでした。
自分が罪を犯して罰を受けるのではないかという恐れに捕らわれたAさんは、恐ろしくて外に出ることができなくなりました。何かをしたり誰かと話したりすると、間違いを犯す可能性が高まるからです。
しかし、インターネットを通じて他の教会のメッセージを読んだり聴いたりしているうちに、Aさんの偏った神さまイメージが修正されていきます。そして、ある牧師のメッセージに心を撃ち抜かれます。
「間違った神さまイメージを持つことは、たとえ物理的に偶像を拝んでいなくても偶像礼拝です。頭の中の偶像を捨て去りましょう」。
その日、Aさんは偶像礼拝の罪を悔い改めました。そして、聖書が教える神さまを自分の神とすることを決意しました。程なくして、Aさんは社会への恐れを克服して外出できるようになり、やがて就職や結婚も果たします。
偶像を捨てよう
偶像は、私たちに与えられている神さまの子どもとしての可能性を台無しにします。だから、たとえ聖書の神さまを礼拝するためであっても、偶像など作って拝んではいけないのです。
(3) 神との親しい関係を否定するから
父である愛の神との関係
パウロは、聖書の神さまは、何かが足りないかのように人の手によって仕えられる必要がないと言いました。では、教会で献金をしたり、奉仕をしたりすることはどう考えればいいのでしょうか。
確かに神さまは人の助けが必要なわけではなく、何でもご自分一人で行なうことがおできになります。それでも、私たちにお金や労力や時間をささげることが勧められているのは、神さまが私たちと一緒に何かをしたい、共に時間を過ごしたいと思っておられるからです。
人間の親も、子どもと共にいることを望み、一緒に何かをすることに喜びを感じます。たとえば母親は、自分一人で料理をした方がおそらく手間も時間もかかりませんが、あえて子どもと一緒に料理をしようとします。そして、料理ができあがったら子どもの努力や工夫をほめ、一緒に喜びます。
それと同じように、私たちの父である神さまも、私たちを子どもとして愛し、守り、支え、導いてくださっています。そして、いつも共にいて、私たちと一緒に何かをし、私たちと共に喜びを分かち合おうとしておられます。教会の捧げものはその一環です。そうしなければ愛されないわけではありません。そうしなければ祝福されないからではありません。
私たちはイエス・キリストの十字架と復活を信じたことにより、あらゆる罪を赦されました。そして、内に聖霊なる神さまが住んでくださり、日々イエスさまに似た者に造り変えてくださっています。私たちは、たとえ不完全でもそのままの姿で神さまに受け入れられ、愛されています。
しかし、往々にして偶像礼拝は、私たちと神さまのそのような麗しい関係を破壊します。偶像は、不完全な神の姿しか表現しないからです。
直接の交わり
以前も申し上げた言葉ですが、「私たちが信じる神さまは、天のお父さまであって、天のおじいさまではありません」。 神さまは、偶像を通してではなく私たちと直接交わりたいと願っていらっしゃいます。
イエスさまはおっしゃいました。
(ヨハネ4:23)しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
実際、私たちは祈りや賛美を通して直接神さまと交わることができます。偶像など必要ありません。むしろ、偶像は私たちと神さまの直接的な交わりを台無しにします。
人間もまた偶像になり得ます。どれほど私がすばらしい牧師でも(冗談ですからね、念のため)、私を通して神さまと交わることができるわけではありません。人間を神さま以上に信頼してはなりません。神さま以上に崇拝してはなりません。
偶像を拝まないのはもちろん、指導者を天の父、偶像にしないよう気をつけましょう。
まとめ
旧約聖書も新約聖書も、一貫して偶像礼拝を禁止しています。物理的なものであれ、精神的なものであれ、聖書が教える神さま以外のものを神としないようにしましょう。そのために、いつも聖書に立ち返って、自分の頭の中の神さまイメージを修正し続けましょう。
それは、私たちの幸せな人生のためです。