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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

エペソ教会の長老たちへの教え

使徒の働きシリーズ32

使徒の働き20章28節〜38節

(2025年7月27日)

第三回伝道旅行の帰路に就いたパウロは、ミレトスでエペソ教会の長老たちを呼び集めて訓戒を与えます。

礼拝メッセージ音声

イントロダクション

パウロは、エペソ教会の長老たちを呼んで、最後にどうしても伝えておきたいことを話しました。その内容は、教会のリーダーが知っておくべき心得です。しかし、それは私たちクリスチャンみんなが知っておくべき心得でもあります。

1.エペソの長老たちへの説教

トロアスからミレトスへ

前回までの振り返り
時は紀元57年です。紀元53年に始まったパウロの第三回伝道旅行も、いよいよ帰りの旅に入りました。コリントを発ったパウロは、マケドニアを経由して小アジアのトロアスに入ります。

前回のメッセージでは、トロアスでの集会と、その際にユテコという青年が転落死し、パウロによってよみがえったという話を紹介しました。
トロアス以降の道程
13-15節に、トロアス以降の旅について書かれています。

トロアスを出発した後、パウロは陸路を使ってアソスに向かいますが、他の人たちは船でアソスに先行しました。そして、アソスでパウロと他の人たちが合流し、船でミティレネ、サモスを経由しながら、小アジア西岸のミレトスに到着しました。

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(画像引用:聖書 新改訳2017)

エペソ教会の長老たちへの説教 その1

エペソ教会の長老たちの呼び出し
パウロの第三回伝道旅行の中心地はエペソで、約3年間伝道・牧会をしました。ミレトスからそのエペソまでは約50キロ離れています。パウロはそのエペソに立ち寄るのを避けました。というのも、ユダヤの例祭の一つである五旬節(七週の祭り、ペンテコステ)をエルサレムで祝いたいと考えていたからです(16節)。

代わりに、パウロは使いを送って、エペソ教会の長老たちをミレトスに呼び寄せました(17節)。
パウロのことば
パウロは長老たちに向かって、自分がエペソで行なってきたことを語りました。今回の箇所の前(18-27節)には、次のようなことが語られました。
  • ユダヤ人の陰謀によってさまざまな試練が降りかかってきてけれど、謙遜の限りを尽くし、涙と共に主イエスに仕えてきた。
  • 自分は益になること、神のご計画を余すところなくあなたがたに伝えた。
  • だから、エペソの人々の血に対して自分は責任はない(誰かがキリストを信じず、最終的に神のさばきを招いたとしても、それはパウロの怠慢のせいではないという意味)。
  • 自分は御霊の導きによってこれからエルサレムに行く。具体的に何が起こるかは分からないが、鎖と苦しみが待っていることは示されている。
  • しかし、福音宣教という使命を全うできるなら、自分は命も惜しくない。
  • あなたがたに会うことは二度とないだろう。
そして、今回の箇所です。 エペソ教会を導く長老たちに対して、教会リーダーとしての心構えが語られます。

エペソ教会の長老たちへの説教 その2

自分と群れに気を配れ
(28節)あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。

長老たちに対して、パウロは教会全体に気を配るようにと言います。気配りされない人がいてはいけません。教会の中に、いらない人、軽く扱っていい人は一人もいません。

なぜなら、長老たちが導く教会は、イエスさまがご自分の命をささげて買い取られた大切な存在だからです。父・子・聖霊の三位一体の神さまは、教会の一部の人たちだけでなく全員を大切に思ってくださっています。

パウロはコリント人への第一の手紙の中で、教会はキリストの体であると述べています。そして、次のように書いています。

(第1コリント12:21-22)目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。

だからこそ、長老たちは教会の群れ全体に気を配らなければなりません。そのために、聖霊さまは長老たちをリーダーとして選ばれました。教会を支配するためではなく、全員が大切にされ、体全体が健全に成長するためです。

そして、それだけでなく自分自身にも気を配るようにとパウロは勧めます。自分自身が信仰を失ってしまったり、正しい教えから外れてしまったりしては、他の人たちを正しく導くことができないからです。
狼出現の預言
(29節)私は知っています。私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回ります。

パウロは、この後エペソ教会に「凶暴な狼」が入り込んで、教会をめちゃくちゃにしようとすると預言しました。
この狼とは、間違った教え、異端の教えを言い広めようとする偽教師のことです。それは、次の30節の言葉から分かります。
長老たちの堕落の預言
(30節)また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。

エペソ教会には、外から偽教師が入り込むだけではありません。パウロは、教会リーダーの中にも間違った教えに染まり、それを広めて分派分裂を引き起こす者が現れると言いました。
目を覚ましていなさい
(31節)ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。

だからこそ、長老たちは教会全体だけでなく、自分自身にも気を配らなければなりません。パウロは目を覚ましているようにと長老たちに述べます。これは、もちろん寝てはいけないということではなく、油断しないで警戒しているようにという意味です。

長老たちは、「自分だけは大丈夫だ」と思わず、パウロが3年間に渡って教えてくれたことをいつも思い起こして、自分自身をチェックし続けなければなりません。

では、どのように自分自身をチェックすれば良いのでしょうか。
神のみことばという基準
(32節)今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。

パウロは、長老たちを神とその恵みのみことば、すなわち聖書の言葉にゆだねると言いました。これは、自分自身をチェックする基準が聖書の言葉だということです。常に聖書の言葉を学び続け、聖書の言葉から逸脱しないよう気を配れば、間違った教えに染まることを避けられます。

聖書の言葉には、人を成長させ、救いを完成させる力があるからです。
貪りを避けたパウロの模範
(33-34節)私は、人の金銀や衣服を貪ったことはありません。あなたがた自身が知っているとおり、私の両手は、自分の必要のためにも、ともにいる人たちのためにも働いてきました。

そしてパウロは、教会のリーダーが道を踏み外さないために、貪りに警戒するようにと教えます。貪りとは、必要以上に物や欲望を追い求める態度を指します。

福音書の時代、イエスさまはイスラエルの霊的指導者たちの多くを批判しました。大祭司や祭司長たちは、お金を儲けたり、政治権力を手に入れて民を支配したりすることを追い求めました。イエスさまが2度に渡って宮きよめの事件を起こしたのはそれを批判するためです。

また、パリサイ人たちの多くは、神さまに純粋に従うためというより、人に尊敬されほめられるために良いことを行なおうとしました。そして、自分たちに都合がいいように、聖書の教えをねじ曲げて解釈することさえしていました。そのため、イエスさまは彼らを偽善者呼ばわりして責めています。

パウロは、エペソ教会の長老たちに向かって、「金銀や衣服を貪らなかったこの私を模範にして、貪欲の罠に陥らないように注意してほしい」と願いました。

これは、牧師や宣教師が教会から給料をもらってはいけないという教えではありません。パウロも、ピリピなどマケドニアの教会からの献金を受け取っていますし、「働く者が報酬を受けるのは当然である」とも語っています(第1テモテ5:18)。

パウロが戒めているのは、貪欲に陥って自分が得をすることばかり求めて、他の人を幸せに導くのを忘れてしまうことです。
イエスの教え
(35節)このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」

貪りに注意するようにという教えは、パウロ個人の教えだけではありません。それは、主であるイエスさまも語られたことだとパウロは言います。

「受けるよりも与えるほうが幸いである」という言葉は、福音書の中には出てきません。イエスさまとずっと行動を共にしてきた使徒たちの伝承として、教会の中に広まっていた言葉でしょう。

また、自分自身が得をすることを求めるより、他の人の幸せのために行動すべきだというこの教えは、イエスさまご自身の行動からもうかがえます。イエスさまは、「仕えられるためではなく、仕えるために来た」とおっしゃいました(マタイ20:28)。

そして、イエスさまは私たちの罪を赦し、神さまの子どもとして永遠に祝福される者とするために、ご自分のいのちさえささげてくださいました。
パウロの祈り
(36節)こう言ってから、パウロは皆とともに、ひざまずいて祈った。

エペソ教会の長老たちへの訓戒が終わり、パウロは長老たちや、テモテやルカなどの同行者たちと一緒に祈りをささげました。

ユダヤ人は、通常立って祈りました。ひざまずいて祈ったのはそれだけ心を注ぎだした祈りだったからでしょう。
  • パウロにとっては、もう二度と生きてまみえることのないエペソの長老たちや教会員の人たちへのあふれる愛を感じた祈りでした。
  • 長老たちにとっては、もう二度と生きてまみえることがないというパウロへの、惜別の思いがあふれた祈りでした。
エペソ教会の長老たちとの別れ
(37-38節)皆は声をあげて泣き、パウロの首を抱いて何度も口づけした。「もう二度と私の顔を見ることがないでしょう」と言った彼のことばに、特に心を痛めたのである。それから、彼らはパウロを船まで見送った。

いよいよ別れの時がやってきました。パウロの預言によれば、もう二度会うことがありません。エペソ教会の長老たちは、パウロとの別れを惜しんで声を上げて泣き、何度も首に口づけました。

こうして、パウロはパレスチナに向けて出航していきました。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。今回の教えは、牧師や役員など教会のリーダーだけでなく、クリスチャンすべてに関係しています。それは……

2.正しい教えと愛を調和させよう

正しい教えにとどまろう

パウロは、やがてエペソ教会に狼、すなわち偽の教えを宣べ伝える者たちが現れると警告しています。
教会の中に入り込みやすい間違った教え、異端的な教えとは、たとえば、
(1) 神の唯一絶対性の否定
異端的な偽教師の中には、神さまが唯一絶対であることを否定する人たちがいます。つまり、神がたくさんいるという多神教や、神と自然は同じだとする汎神論です。

聖書が教える罪とは、唯一絶対の神さまの存在や権威を認めないこと、そのみこころに逆らうことです。ですから、唯一絶対の神さまを認めず、その権威も認めなければ、罪もないということになります。

ということは、聖書が教える救いも認めないということです。というのは、救いとは、罪が赦され、唯一絶対の神さまとの関係が回復することだからです。

そうなると、人間にとっての救いは、自分の欲望がかなうこと、たとえば健康に過ごしたり、繁栄したりすることだと考えられがちになります。これでは、この世の成功哲学と何も変わらない教え、あるいは御利益宗教になってしまいますね。
(2) 三位一体の否定
三位一体とは、「神はその本質的存在においてただ一つであるが、この唯一の存在の中に、父と子と聖霊なる三位格が存在する」(いのちのことば社「新聖書辞典」)ことです。

異端的な偽教師の中には、神さまが唯一絶対の存在だと認めたとしても、三位一体であることを否定する人たちがいます。イエスさまや聖霊さまが神であることを認めなかったり、父・子・聖霊は、唯一の神がその時その時姿を変えて現れただけだと説いたりするわけです。

特に、イエスさまが100%人であり100%神であることを否定します。イエスさまは立派な人間に過ぎなかったとか、だから死んだ後に神になったとか、神が幻を使って人間イエスの姿を人々に見せていただけだとか。
もしイエスさまが人でなければ、死んだり復活したりできません。また、イエスさまが神でなければ、人を救うことができません。人であり神であるイエスさまを否定するということは、イエス・キリストの死と復活による一方的な罪の赦しを否定するということです。
(3) 恵みと信仰による救いの否定
というわけで、異端的な偽教師は、イエス・キリストを通して表された神さまの一方的な恵みと、それを信じる救いではない、別の救いの方法を主張します。行ないによって神さまに認められ、報酬として与えられる救いです。

そして、異端的なグループの多くは、自分たちの教団に対する犠牲的な忠誠を強調し、聖書が教えていないような行ないを要求します。たとえば、全財産を教団に献金しろとか、家を捨てて信者だけで集団生活しろとか、食事や睡眠時間を削ってでも伝道活動に献身しろとか。

パウロたちが活躍した時代も、「異邦人はモーセの律法を守り、割礼を受けなければ救われない」という、行ないによる救い、律法主義の教えを主張する偽教師たちがいました。

正しい教理がなぜ大事なのでしょうか。それは、間違った教えは、信者に自由の代わりに束縛を与え、喜びの代わりに恐怖を与え、平安の代わりに不安を与え、安息の代わりに疲労感を与え、きよい生き方の代わりに刹那的で自己中心的な生き方を与えるからです。

私たちクリスチャンは、たとえ昨日救われたばかりのピチピチの信者であっても、聖書の教えを学び続け、聖書の教えを価値観や行動の土台にしなければなりません。私たち自身の感情や、世間の常識も大切ですが、最終的な判断基準は聖書の教えです。

愛を実践しよう

次にパウロは、貪欲に気をつけるようにと教えました。むしろ、受けるより与えることを大切にすべきだと。これは、自分自身の利益よりも、他の人の利益を優先しなさいという教えです。

異端の教会のリーダーたちの多くは、信徒には貧しくなっても献金し、奉仕するようを求める一方で、自分たちは働かずに贅沢な暮らしをしています。

私たちクリスチャンは、牧師や宣教師、あるいは教会役員といった立場になくても、自分の利益ではなく他の人の利益のために行動するようにしましょう。
以前ラジオを聴いていたら、ピアニストの清塚信也さんがご自分の子育てについて語っておられました。お子さんが良くないことをしたとき、親として子どもを指導しなければなりません。そんなとき、必ず自分に向かってある質問を投げかけるようにしていると清塚さんはおっしゃいます。

それは、「この行動は、自分自身の利益になっていないか?」という問いです。子どものためだと言いながら、実は子どもを叱ることで、相手が下で自分が上だと感じられていい気持ちになっていないか、あるいは自分のストレス発散になっていないか、と。

知らない間に私たちの中に、愛ではない動機が滑り込んできます。いつも自分に気を配って、注意している必要がありますね。

エペソ教会を反面教師としよう

テモテが指導したエペソ教会
パウロと別れた後、エペソ教会はどうなったのでしょうか。一部、教会の伝承を元に解説します。

伝承によると、紀元65年頃、パウロはテモテをエペソ教会の監督(トップリーダー)に据えました。紀元67年にパウロは殉教しますが、テモテはその後もエペソを導き続け、そして、紀元80年、テモテは迫害によって殉教の死を遂げます。

テモテが亡くなると、エペソ教会は急速に信仰を失っていきました。といっても、異端の教えに走ったわけではありません。テモテ殉教の約15年後、紀元95年頃に書かれたヨハネの黙示録で、エペソ教会はどのように取り上げられているでしょうか。
テモテ殉教後のエペソ教会の良い点
黙示録の中で、イエスさまはエペソ教会の良い点について次のように語っておられます。

(黙示録2:2-3)わたしは、あなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが悪者たちに我慢がならず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちを試して、彼らを偽り者だと見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった。

(黙示録2:6)しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。

エペソ教会は、さまざまな苦労を乗り越えて、異端の教え、特にニコライ派と呼ばれるグループの教えを退け、正しい信仰を守りました。約40年前に語られたパウロの教えを忠実に守ったのです。
テモテ殉教後のエペソ教会の残念な点
一方で、イエスさまはエペソ教会の問題点についても指摘しておられます。

(黙示録2:4)けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

初めの愛とは、かつてエペソ教会の人たちが持っていたイエスさまへの愛、他の教会員への愛、まだ救われていない人への愛です。紀元90年代のエペソ教会は、教理的には正しいことを教え、また実践していましたが、その動機は愛ではありませんでした。

17世紀の終わり、ドイツのルター派や改革派の教会の中で、当時の教会の状況を憂える人々が現れます。

彼らが問題にしたのは、正しい教えを学ぶことが重視されるのはいいけれど、その知識が信徒の生活にまったく反映されず、一人ひとりの生き方や神さまとの関係がさっぱり変わっていなかったこと、その結果、信仰生活が単に儀式に参加することになってしまっていたことです。

当時のそのような教会の状況は、「死せる正統主義」と呼ばれています。そして、敬虔主義と呼ばれる、聖書の教えを大切にしながら、内面的な体験と実践を重んじる運動が起こります。
愛について、パウロはこんなことを語っています。

(第1コリント13:1-3)たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

正しい教理は絶対に大切です。それをないがしろにしていいということではありません。しかし、神さまや人への愛を忘れてしまったなら、正しい教理も価値が全くなくなってしまうのです。

それどころか、教会が自分たち以外の人を批判し、自分たちだけを正しいとする独善的で攻撃的なカルト集団になってしまいかねません。そこまで行かなくても、教会が他の人の足りない点を指摘し、自分の立派さを誇るばかりの、居心地の悪い交わりになってしまいます。

とはいえ、正しい教えは絶対に必要です。要はバランス。聖書の教えについての知識と、愛の実践。その両方を大切にしましょう。

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