(2025年10月19日)
コリント教会へのあいさつを終えた使徒パウロは、コリント教会について神に感謝していることと、その理由を述べました。
礼拝メッセージ音声
イントロダクション
今回のテーマは、神さまとの交わりです。父なる神さま、救い主イエスさま、聖霊なる神さまとの親しい交わりは、私たちクリスチャンにどんな祝福をもたらしてくれるでしょうか。
1.コリント教会についてのパウロの感謝
神への感謝
コリント教会について神に感謝するパウロ
(4節)私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。
これから使徒パウロは、コリント教会の中にあったさまざまな問題点について指導していきます。さっそく1章の後半では、教会に分派・分裂があったことを取り上げます。
しかし、その前に、コリント教会について自分は神さまに感謝しているのだと言います。
前回取り上げたあいさつの部分でも、パウロはコリント教会のすばらしさを強調しました。
パウロの指導のスタンスは、「あなたはダメだから直せ」という伝え方ではなく、「あなたはすばらしい存在だ。だからこの点を修正すればもっとすばらしくなる」という伝え方をするということです。私たちも他の人を指導する際は、そのような伝え方ができるといいですね。
さて、パウロは「キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに」コリント教会のことを感謝していると言いました。イエスさまのおかげで、私たちクリスチャンには神さまの恵みが注がれました。
この後、パウロはどんな恵みがコリント教会に注がれているか挙げていきます。それはパウロがコリント教会について神さまに感謝する理由でもあります。
感謝の理由
ことばと知識において豊かである
(5節)あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。
まずパウロは、コリント教会の人たちがことばと知識において豊かにされたと語ります。
ここで言う「ことば」とは、神さまの教えを他の人に伝える手段です。「知識」とは、特に神さまの教えに関する知識です。すなわち、信仰の知的な側面のことです。
コリントはギリシアの町です。ギリシア人は昔から議論好きの国民として知られていました。神さまはその特性を生かしてくださって、コリント教会に神さまのみこころを知り、それを伝える力を豊かに与えてくださいました。
8章に行くと、パウロは知識だけでは不十分だと語ります。愛によって知識を用いなければ意味がありません。それどころか、聖書の知識を用いて人をバッサバッサと切り捨て、傷つけ、かえって相手をイエスさまから遠ざけてしまうことにもなりかねません。
一方で、知識に欠けた信仰も不完全です。神さまのみこころに関する正しい知識がないと、些細なことに振り回されたり誤った行動をしてしまったりするかもしれません。
福音が確かに根付いている
(6節)キリストについての証しが、あなたがたの中で確かなものとなったからです。
「キリストについての証し」とはイエスさまの恵みの福音のことです。すなわち、「この自分の罪を赦すためにイエス・キリストが十字架にかけられた。そして、死んで葬られ、3日目に復活した」というメッセージです。
この福音が真実だと信じるだけで、その人は本当に罪を赦され、神さまからのさばきを免れるだけでなく、神さまの子どもとされて永遠に祝福されます。
コリントでは、パウロが福音の種をまきました。その後も、ペテロやアポロといった伝道者がコリントの町を訪れて活動しました。その結果、多くの人が福音を信じて救われ、教会に加えられました。
まず救いを手に入れたからこそ、コリント教会にはさまざまな恵みが注がれ、5節で触れたような言葉と知識における豊かさも与えられました。
パウロはそのことを神さまに感謝しています。
聖霊の賜物が豊かに与えられている
(7節前半)その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく、
コリント教会の人たちには、さまざまな賜物が与えられていて、足りない賜物が無いほどでした。
「賜物」とは聖霊の賜物のことです。これは、クリスチャンに聖霊なる神さまが与えてくださる奉仕のための特別な能力のことです。詳しくは12章に行ったときに解説しますので、ここでは簡単な説明に留めます。
賜物の中に、伝道の賜物があります。クリスチャンは、チャンスを見つけてまだ救われていない人にイエスさまのことを話し、福音を信じるよう促します。ただ、伝道の賜物が与えられている人は、その場で人が福音を信じて救われる確率が他の人より高いのです。
また、いやしの賜物があります。クリスチャンは、目の前にケガや病気で苦しんでいる人がいれば、そのいやしを祈ります。そして、実際に奇跡的ないやしが起こることもあります。ただ、いやしの賜物が与えられている人が祈ると、そうでない人に比べて高い確率で奇跡が起こります。
あるいは、ささげる賜物があります。クリスチャンは、賜物のあるなしにかかわらず、教会の働きや困っている人のためにモノやお金をささげます。しかし、ささげる賜物が与えられている人は、他の人以上の割合でモノやお金をささげても惜しいと思いませんし、生活が成り立ちます。
すなわち、聖霊の賜物は、クリスチャン一人ひとりに与えられている役割のうち、1つ、あるいは複数の分野のエキスパートになるための特別な能力です。
コリント教会の人たちには、さまざまな賜物が与えられていました。 故に、さまざまな働きを行なえる可能性があったのです。パウロはそのことを感謝しました。
携挙の時を待ち望んでいる
(7節後半)熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになっています。
コリント教会の人たちは、「主イエス・キリストの現れ」を熱心に待ち望んでいました。「主イエス・キリストの現れ」とは、将来起こると預言されている「携挙」のことです。
ある日あるとき(その時がいつなのかは、父なる神さま以外知りません)、携挙が起こります。その時、すでに死んでいたクリスチャンが栄光の体によみがえり、空中に引き上げられます。また、その時生きていたクリスチャンも、復活の体と同じ栄光の姿に変えられ、空中に引き上げられます。
そして、引き上げられたクリスチャンたちは、空中までいらっしゃったイエスさまに迎えられ、一緒に天のパラダイスに入ります。これが携挙です。
なお、イエスさまが空中までいらっしゃることを、千年王国が実現するときに地上にいらっしゃる地上再臨と区別して、空中再臨と呼ぶことがあります。
コリント教会の人たちは、現在の問題に目を向けているだけでなく、将来与えられる祝福の約束もしっかり握っていました。パウロはそのことも神さまに感謝しています。
コリント教会の希望
コリント教会の質的な成長
(8節)主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。
そんな信仰深いコリント教会ですから、イエスさまもコリント教会の人たちを守り導いてくださいます。そして、主イエス・キリストの日に責められるところがない者へと成長させてくださるでしょう。
「主イエス・キリストの日」とは、携挙されて天のパラダイスに迎え入れられたクリスチャンたちが、「キリストのさばきの座」でさばきを経験するときのことを指します。
(第2コリント5:10)私たちはみな、キリストのさばきの座の前に立つことになります。それは、それぞれが良いことでも悪いことでも、肉体にあってしたことに応じて報いを受けるためです。
さばきと言っても、罰を与えるための裁判ではありません。携挙されるのは、イエスさまの恵みの福音を信じてすべての罪を赦されたクリスチャンだけだからです。ですから、キリストのさばきの座で、地上で犯した罪を責められ、罰を受けることは決してありません。
(第1コリント3:14-15)だれでも、自分の働きが残れば報いを受けます。だれの働きも焼けてしまえば損害を受けますが、本人は救われます。しかし火をくぐるようにしてです。
キリストのさばきの座は、地上で行なったさまざまな良いことについて、プラスの査定が成されるための場です。そして、その評価に基づいて、その後地上に実現する千年王国においてどんな祝福がいただけるか決まります。
コリント教会の人たちは確かに救いを手に入れ、罪の罰をすでに免れています。そして、その祝福が後で取り除かれることがないように、イエスさまが彼らを守り導いてくださいます。ですから、コリント教会の人たちには、将来与えられるすばらしい祝福が待っているのです。
キリストとの交わり
(9節)神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。
恵みの福音を信じて与えられる救いは、将来罪の罰を受けないということ以上の祝福を私たちにもたらします。その一つは、主イエスさまとの平和な関係を取り戻し、イエスさまとの親しい交わりの中に入れていただいたということです。
(黙示録3:20)見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
クリスチャンは皆、主イエスさま、そして父なる神さま、聖霊なる神さまとの親しい交わりを経験します。
ただ、人と人との関係と同様、神さまと私たちの関係の深さは一人ひとり異なります。
相手とほとんどコミュニケーションを取ろうとしなければ、相手との関係は深まりません。日々祈ったり、聖書を通して神さまのみこころを学んだり、他のクリスチャンたちと神さまについて話し合ったり、教会の集会で神さまを礼拝したりすることによって、私たちは神さまとの関係を深めていかなければなりません。
また、神さまが喜ばれる行ないをせず、かえって悲しまれるようなことを考えたり実際に行なったりしていては、神さまとの関係は深まっていきません。
(ヨハネ14:23)だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
パウロはコリント人への第一の手紙の中で、イエスさまとの関係を深めるような生活をするよう訴えようとしているのです。
それでは、イエスさまとの親しい交わりの中に入れられたこと、そしてその関係が深まっていくことは、私たちクリスチャンにどんな祝福をもたらすのでしょうか。それを後半、解説します。
2.主イエス・キリストとの交わりがもたらす祝福
神の臨在を味わい、平安が与えられる
神さまとの関係が深まると、慈愛に満ちた神さまが自分と共にいてくださるという感覚、臨在感が高まります。
(ローマ8:38-39)私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
そして、神さまの臨在を味わうほど、神さまが私たちの敵ではなく味方であるという確信も深まります。そして、全知全能の神さまが味方なのだから、何も恐れるものはないという確信を生み出します。
(詩篇23:4)たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。
いじめを受けた中学生の証し
中学1年生のAさんは、学校でいじめに遭っていました。クリスチャンであるAさんは神さまに祈りましたが、一向にいじめがやみません。そこで「祈っても聞かれないじゃないか」とお父さんに感情をぶつけてしまいます。
するとお父さんはある聖書の箇所を示しました。
(ヤコブ4:7-8)ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。
そして、神さまが共にいてくださると信じようと言いました。さらに、いじめのことを担任に話し、みんなの前で「いじめはやめて」と言おうと励ましました。
担任は、ホームルームの時間にAさんがみんなの前で話す機会を与えてくださいました。内心震えながらも、しかしイエスさまが共にいてくださると心の中で何度も繰り返すと、恐れがしぼんでいくのを感じました。そして、Aさんは勇気を出して、いじめをやめるようみんなに訴えかけました。
その後、いじめはピタリとやんだそうです。
祈りがかなえられるようになり、確かな導きを得る
神さまとの関係が深まると、祈りがかなえられるようになっていきます。
(ヨハネ15:7)あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。
それは、関係が深まれば深まるほど、私たちが神さまのみこころについてより深く知るようになるからです。
(ヨハネ14:26)しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
その結果、自分勝手な願いではなく、神さまのみこころにかなう祈りをささげたいと思うようになっていきます。神さまのみこころにかなう祈りは、必ずかなえられます。
(第1ヨハネ5:14)何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。
霊的に成長して、キリストに似た者に変えられていく
私たちが神さまとの交わりを深めれば深めるほど、罪に対して敏感になり、罪から離れたいという思いが強くなります。そして、私たちはきよめられていきます。
(第1ヨハネ1:7)もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
そしてそのきよめは、単に私たちの努力によってもたらされるものではありません。私たちの内に住み、私たちと親しく交わってくださっている聖霊なる神さまのお働きです。
(第2コリント3:18)私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
人は触れたものに似ます。神さまとの交わりを深め、関係が親密になっていけば行くほど、私たちはイエスさまの栄光を反映し、成長していきます。この弱くて不完全な私たちが、あのすばらしいイエスさまのような人格に成長していける。そんな希望が私たちに与えられているのです。
台所のキリスト
仲が悪い夫婦がいました。妻は、近所に住む友人の誘いで教会に行くようになりました。そして、教会の静かな雰囲気や、教会員の優しさに触れ、すっかり教会が気に入りました。教会の建物の中にいる間は、むしゃくしゃした気分から解放されるのでした。
しかし、家庭での生活は相変わらずでした。妻は夫に対して、がみがみと小言とグチばかりぶつけていたのです。ある日、妻はこんなことを口にしました。「あんたのような男こそ、教会に行って、牧師さんの話を聞いて、悔い改めるべきよ!」
もちろん、夫は妻がそう言いたくなるようなことをしていました。しかし、こんなことを言われて面白いはずがありません。日曜日になると、夫は毎週のように釣りやゴルフに出かけるようになりました。もちろん教会の礼拝に出かける妻への当てつけです。そういうわけで、ますます二人の仲は険悪なものになっていき、離婚するのも時間の問題という状態になってしまいました。
ある日、教会で伝道集会が開かれました。説教者は、単純明快にキリストの十字架のメッセージを語りました。そして、「悔い改めて、罪の赦しを信じなさい。そして、キリストを主とし、心の王座に座っていただきなさい」。説教者はそう結びました。
妻は、ハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けました。今まで、自分は夫を責めるばかりで、夫こそ悔い改めなければならないと思っていた。そして、自分のことは、正しい人間だと思っていた。しかし、夫がではなく、まず自分自身が悔い改めなければならなかったのだ。まず自分こそがキリストの赦しをいただかなければならなかったのだ……。
妻は、その日、イエス・キリストを救い主として受け入れました。心いっぱいに、神さまの愛が満ちあふれてきました。喜びと平安が心を支配していきました。
その日を境に、妻の態度は一変しました。不平やグチの代わりに感謝が、小言の代わりにねぎらいの言葉が、彼女の口から流れ出てきます。いつもしわの寄っていた眉間が広がり、いつも笑顔がこぼれるようになりました。そして、台所仕事をするときには、いつも賛美歌を口ずさんでいます。
すると、やがて夫も教会に出席するようになり、間もなくイエス・キリストを受け入れてクリスチャンとなりました。洗礼準備会のとき、夫は牧師に語りました。「私が救われたのは、先生の説教はもちろんですが、我が家の台所で、イエスさまが輝いた顔をして、いつも歩いていたからです」。
まとめ
父なる神さま、救い主イエスさま、聖霊なる神さまとの深い交わりは、私たちに確かな祝福をもたらします。神さまとの関係を深めるため、あなたに何かできることがあるでしょうか? それを見つけてぜひ実践しましょう。