(2026年1月11日)
コリント教会の中には、姦淫を避けるあまり夫婦の性的関係や結婚そのものを否定する人たちがいました。そこで、使徒パウロがバランスの取れた考え方を教えています。
礼拝メッセージ音声
イントロダクション
前々回のメッセージで、私たちはクリスチャンとしての行動原則を学びました。その際、3つのチェックポイントを教わりましたね。
- 有益かどうか(特に愛を実現するかどうか)
- 何かに支配されていないかどうか
- 神の栄光を現すかどうか
今回の箇所では、具体例として結婚や離婚、その他の問題にどのように対処するかに触れられています。それを学ぶことによって、私たちは迷いがちな選択肢を前にして、確信を持って自分の行動を選択できるようになります。
1.この章の内容
概要
不品行に関するパウロの指導
コリント人への第一の手紙で、ここまでパウロはいくつかの問題について指導してきました。
- 分派分裂の問題
- 不品行に陥っている教会員に対して、教会が何も指導しないという問題
- 教会員同士の訴訟問題
- クリスチャンに与えられている自由のはき違え問題
特に、結婚していない異性と性的な関係を持ってはならないという点について、パウロは何度も 言及してきました。
コリントという町は性的に非常に堕落していて、クリスチャンたちもその悪影響を受けやすい状況にありました。
その結果、クリスチャンに与えられた自由をはき違えて、配偶者以外との性的関係を平気で行う教会員がコリント教会の中にいましたし、そのような行動をする教会員に対して、教会は何も指導してきませんでした。パウロはそれを嘆き、不品行を避けるようにと繰り返し述べています。
その一方で……
結婚自体を否定する意見
(1節)さて、「男が女に触れないのは良いことだ」と、あなたがたが書いてきたことについてですが、
コリント教会の中には、不品行を避けるあまり夫婦間の性的関係まで否定したり、結婚そのものを避けたりする人たちがいたようです。この逆の極端な意見に対して、パウロはこの章で指導しようとしています。
また、結婚と離婚、割礼、奴隷制度についてもこの章で取り扱っています。
男女の結婚・離婚について
この章で語られていること
男女の結婚、あるいは離婚についてのパウロの教えを大まかに整理してみましょう。
- 1-2節、8-9節
結婚していない男女。そのまま独身を勧めるが、独身は神さまからの賜物なので、独身を我慢できない人は結婚しなさい。
- 3-6節。
夫婦であっても、性的交わりを控えるべきかどうか。それは夫婦それぞれの権利であり義務でもあるので、あえて控えてはならない。ただし、祈りに専心するため、一時的で双方合意の上なら良い。
- 10-11節。
クリスチャンの夫婦は離婚してはならない。これは主イエスさまによる命令である
- 12-16節。
夫婦どちらかが未信者の場合、未信者の方が同居に同意しているなら離婚してはならないが、相手が離婚を望むならその限りではない。神さまは我々に平和な生活を与えたいと願っておられるのだから。
割礼や奴隷制度について
原則
17節から24節で、パウロは男女関係だけでなく、割礼の問題や奴隷の問題についても触れています。原則は17節です。
(17節)ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています。
具体的には、
- イエスさまを信じたときすでに割礼を受けていたのなら、その跡を無くそうとしてはならない。
- 信じたときに割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけない。
- 信じたときに奴隷だったのなら、そのことを気にしてはならない。ただし、自由の身になるチャンスがあればそうしなさい。
つまり、イエスさまを信じたときの状態を、無理して変えようとしなくてよいということです。
同じ状態にとどまる理由
割礼の状態を変えない理由について、パウロは19節で次のように語っています。
(19節)割礼は取るに足りないこと、無割礼も取るに足りないことです。重要なのは神の命令を守ることです。
また、奴隷の状態を変えない理由については、次のように述べています。
(22-23節)主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。
これらの節でパウロが言わんとしていることは、今の状態を否定して別の自分になろうと気に病むよりも、もっと大切なことがあるということです。それは、神さまの命令に従うことです。
もちろん、私たちはイエスさまによって買い取られた大切な存在ですから、誰かに虐げられているような状態にあるなら、そこから抜け出そうとするのは正しいことです。
しかし、いたずらに自分の現状を嘆いて不満を並べるより、今できることを精一杯行うよう努めていこうとパウロは言うのです。
未婚の人について
25節から40節でも、未婚の人はそのままの状態、すなわち独身でいることを勧めるとパウロは言います。独身を続けることを勧める理由について、パウロは次のように語っています。
(26節)差し迫っている危機のゆえに、男はそのままの状態にとどまるのがよい、と私は思います。
この「差し迫っている危機」については、2つの視点があります。
一つは、迫害など具体的な苦しみが待っているという意味です。1世紀の教会は、ユダヤ人やローマ帝国からの迫害、あるいは飢饉などの困難に直面していました。
もう一つは、世の終わりが近いという意味です。29節で「
時は短くなっています」と語られています。
結婚をすると、夫も妻も家族のことに気持ちや時間を向けなければなりません。しかし、独身ならばそうする必要が無く、イエスさまに従うことに多くの時間やエネルギーを割くことができます。
(32-34節)あなたがたが思い煩わないように、と私は願います。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。しかし、結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。
ただし、結婚するとしても罪を犯すわけではないともパウロは語っています。結婚は良いことであり、独身はさらにすばらしいことです。大切なのは、なぜ結婚したり独身でいることを選んだりするのかという理由です。
(35節)私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。
結婚にせよそれ以外の場面にせよ、大切なのはイエスさまに従うことだというわけですね。
では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.考えて行動しよう
パウロが心がけていたこと
この章で、パウロは様々な指導をしています。特に注目したいのは、その勧めなり命令なりを「誰がしているのか」ということについて、パウロが注意深く区別していることです。これは主であるイエス・キリストが命じておられるのか、それともパウロが自分で考えて導き出した教えなのか、という区別です。
上述の、結婚や離婚に関する教えの場合、「これはイエスさまがなさった命令である」と明言しているのは、クリスチャン夫婦の離婚についての教え(10-11節)だけです。あとは、パウロが考えている行動の指針でした。
もちろん、自分で考えたといっても、勝手気ままに規則を作り出したわけではありません。
(40節)これは私の意見ですが、私も神の御霊をいただいていると思います。
パウロは聖霊に導かれた祈りを積み重ね、聖書に書かれていることや、他の使徒たちから聞いたイエスさまの生前の教えや、神さまが直接パウロに語られたことなどを考え合わせて、このケースはこういうふうに考えた方がいいだろうと結論を出したのです。
ただし、明確に神さまが命じておられることでない限り、「これは神のみこころである」「これは神からの教えである」などと、勝手に神さまの名前を持ち出して権威づけたりはしませんでした。
今回の教えにしても、パウロが自分の見解だと言っていることについては、パウロと違った結論を出す人がいたとしても、必ずしもおかしくはないということです。もちろん、大切なのはそういう結論を出した理由です。
聖書にはすべての行動が書かれているわけではない
私たちの毎日は、一瞬一瞬選択と決断の繰り返しですね。クリスチャンとして、当然神さまのみこころにかなう選択と決断をしなければなりませんが、残念なことに、聖書の中に具体的な答えが載っているとは限りません。
もちろん、明確に記されていることもあります。たとえば、自分が欲しいと思っている物を誰かが持っている。だからこっそりその人から盗み取る……これはダメです。自分には配偶者がいるけれど、すてきな異性が現れた。誘われるままにその人と関係を持つ……これもダメです。盗みも不倫も、聖書で明確に禁じられています。
しかし、
- 二人の人からプロポーズされたけれど、どちらを選ぶべきだろうか。
- 将来、どんな仕事に就いたらいいだろうか。
- 転職すべきだろうか、今の仕事を続けるべきだろうか。
- 今回の集会で、どれくらい献金したらいいだろうか。
- ガンだと診断されたけれど、手術すべきだろうか、化学治療だけにすべきだろうか。
- 生命保険を勧められたけれど、入るべきだろうか。
- 赤い靴下と青い靴下、今日はどちらをはいたらいいだろうか。
たとえばそのようなことは、聖書には書かれていないのです。
多くのことは、パウロがしたように、聖書に書かれていることを元にしながら、自分で考えて決断する必要があります。
ケーススタディ
パウロは、未信者の配偶者が一緒にいることを望んでいるなら離婚してはいけないと教えています。また、クリスチャン同士の離婚も禁じています。
では、配偶者が不倫を繰り返したり、あるいはDVや子供への虐待を繰り返したりしていて、しかし離婚するつもりはないと主張している場合、それでも被害を受けているクリスチャンの方から離婚を申し立てたり、黙ってシェルターなどに避難したりしてはいけないのでしょうか?
「私の考え」はこうです。関係改善のための努力を最初からあきらめるべきではありません。しかし、どうしても相手が態度を改めようとしない場合には、離婚や別居もやむなしと考えます。
そう考える理由は、
- 不倫を繰り返すことは、自ら夫婦であることを捨てる行為と判断できるから。たとえば、夫が他の女性と性的な関係を持ちながら、なおも妻を縛り付けるのは、それはもはや妻として扱っているのではなく、ただ働きの家政婦、すなわち奴隷として利用しているだけです。
- 子どもに暴力や暴言が向かう場合、子どもの命や心を守らなければなりません。たとえ子どもが直接暴力や暴言の被害を受けていなくても、他の家族が暴力を受けている場面を見せるだけで虐待であり、子どもの心に深刻な被害をもたらします。
- 自分が不倫を繰り返され、あるいは暴力を受け続けているのに何もしないのは、聖霊の宮である自分、イエスさまが命をもって買い取られたほどに価値ある自分を粗末にすることです。それは、自分を大切にしてくださる神さまを馬鹿にする行為でもあります。
- 不倫や暴力を繰り返す人は、一種の依存症です。「自分がいないとあの人はダメになる」などと言ってその人と共に居続け、結果的にそれらの不適切な行為を続けさせることは、アルコール依存症の人の前に酒を出し続けることと同じです。それは、動機がどうであれ、結果として愛ある行動とは言えません。
- 罪を犯して悔い改めない人に対して、聖書は交わりを絶つよう求めています(第1コリント5:11)。
……と、このように考えて(もちろん祈りながら)、判断を下すのです。もちろん、個々のケースによって、具体的な判断が変わることはあります。
3.まとめ:私たちの行動原則
神への愛
パウロは、すべてのクリスチャンが、結婚しているかどうか、奴隷であるかどうかといった今の状態に関係なく、できる限り神さまのことを考え、神さまとの交わりを深め、神さまに従うことを優先しようと勧めています。
私たちが選ぼうとしているその行為は、神さまを愛し、神さまとの交わりを深め、神さまのみこころにかなうものでしょうか。
他者への愛
独身主義のパウロでしたが、家族を持ったならば、家族にも意識を向け、家族と交わり、家族を大切にすることが重要な義務であると考えていました。だから、夫婦関係もおろそかにしてはいけないし、相手が一緒にいることを望んでいるなら離れてはいけないと勧めるのです。
私たちは、他の人、特に家族を大切にしていたでしょうか。寂しい思いをさせてはいなかったでしょうか。他の人を物質的に、そして精神的に、霊的に養う義務をおろそかにしていなかったでしょうか。
神からの愛
パウロは、神さまはあなたの平安を望んでいると述べています。
また、基本的には今の自分の境遇を変えようと躍起にならない方がいいけれど、奴隷が自由になるチャンスがあるのなら、ぜひそうしなさいとも言いました。
私たちが決して忘れていけないのは、神さまというお方は、私たちが楽しい人生を送れないよう、あれこれと縛り付けて意地悪をなさる方ではなく、私たちが本当に幸せになり、本当に喜びや感動に満ちた人生を歩むことを願っていらっしゃるということです。
だからこそ、御子イエス・キリストが私たちの身代わりに死んで、罪ののろいから解放してくださいました。
私たちが選ぼうとしているその行為は、神さまが私に与えようとしておられる幸せな人生に近づくようなものでしょうか。それとも、一時的な快楽しか与えないものではないでしょうか。
他の基準
もちろん、パウロが心に留めていた行動基準はこれだけではありません。私たちも、聖書を通して、その時々に明確に判断できるようにさせていただきましょう。