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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

偶像にささげられた肉

コリント人への手紙シリーズ12

コリント人への第一の手紙8章1節~13節

(2026年1月18日)

コリント教会では、異教の偶像にささげられた肉をクリスチャンが食べてよいかどうかが問題になっており、使徒パウロが回答しています。

礼拝メッセージ音声

参考資料

この時代のコリントには、美と愛の女神アフロディーテ、太陽神アポロン、医術の神アスクレピオスの神殿がありました。

また、皇帝は死ぬと神格化されて礼拝の対象となっていましたし、現役の皇帝も「神の子」としてあがめられました。クリスチャンはイエス・キリストを「救い主」(ギリシア語でソーテール)、「主」(キュリオス)と呼びますが、一般の人々にとってこれらの称号は皇帝に用いられるものでした。

イントロダクション

新しい問題についてパウロが回答しています。今回は「偶像に献げた肉」についてです。これは、異教の神殿にささげられた肉のことを指しています。

その一部は神殿で働く人々が消費しましたが、残りは市場に卸されて市民が買い求めていました。ですから、クリスチャンがそれを買うということもあり得たのです。また、神殿で行なわれる異教的な祭りや行事、冠婚葬祭での会食に、そういう肉が出されることもありました。

コリント教会では、クリスチャンがそのような偶像にささげられた肉を食べていいのかということについて意見の一致が見られず、パウロに質問状を送りました。
私たちが住む日本も、コリントと同じように異教、すなわち神道や仏教に基づく風習がたくさんあります。そのような国に住むクリスチャンとして、私たちがどのように振る舞えば良いかを教えていただきましょう。

1.偶像にささげられた肉をクリスチャンが食べてよいか

原則

質問のポイント
(1節前半)次に、偶像に献げた肉についてですが、

イントロダクションで申し上げたとおり、コリント教会からパウロに質問状が届いたようです。その内容は、異教の神殿にささげられた肉を、クリスチャンが食べてよいかという問題についてです。

この問題に対して、コリント教会には大きく2つの意見がありました。
  1. 偶像にささげた肉を食べることは偶像礼拝だからしてはいけないという意見
  2. たとえ多くの人々が信じて拝んでいたとしても、聖書の神以外に神は存在しないのだから、偶像にささげた肉もただの肉である。だから食べても全然問題ないという意見
日本にも、様々な異教的な風習、習俗があります。

仏式や神道式の冠婚葬祭の儀式に呼ばれることもあるでしょうし、その後会食に招かれることもあるでしょう。そういう儀式に参加していいのでしょうか。参加して祭壇に向かって頭を下げたり、焼香したりしていいのでしょうか。そして、会食で飲み食いしたりしていいのでしょうか。
同居する家族がまだクリスチャンではない場合、おそらく家の中に仏壇や神棚があるでしょう。お菓子や果物などの頂き物があった場合、一時的に仏壇や神棚に供えてから食卓に出されるという家も多いはずです。そういうお菓子や果物を食べていいのでしょうか。

中通りコミュニティ・チャーチのある須賀川市では、冬に入る前に「松明明かし」という祭りがあります。何メートルもの巨大な松明を何本も立てて、そこに火をつけるという火祭りです。この祭りの由来は、戦国時代に伊達政宗に攻められて滅んだ須賀川城の人々や伊達軍の戦死者の魂を鎮めるためでした。クリスチャンがこの祭りを見物に出かけていいのでしょうか。また、祭りの屋台でチョコバナナを買って食べると、偶像にささげられたチョコバナナを食べることになるのでしょうか。

家を建てる際には神道式の地鎮祭や棟上げ式が行なわれるのことがほとんどですから、借家に住むとしたら、まず間違いなく「偶像に守られた家」に住むことになります。クリスチャンがそういう家に住んでいいのでしょうか。

30年ほど前、キリスト教界で霊的地図作りというのが流行ったことがあります。教会や自宅の周りに、どんな偶像や異教の施設があるかを調べ、その地域がきよめられるように祈るというわけです(私はやったことがありませんが)。

あなたの住んでいる地域には、その地域の菩提寺や鎮守の神社があるはずです。我が家は牧師に棟上げ式をやってもらったし、食べ物は全部産地直送で偶像にささげられていないから関係ないというわけにはいきません。家や畑の土地自体が、偶像にささげられているからです。

私の知っている教会は、神社のすぐそばに会堂が建っていて、礼拝に出席するためには、神社の鳥居をくぐり、参道の一部を通って行く必要がありました。それではまるで神社に参拝しているようなものだから、鳥居や参道の横の藪を踏み分けて入るべきなのではないでしょうか。

野球などのプロスポーツでは、シーズン開幕前、チームが神社で必勝祈願をします。どこかのチームを応援するということは、偶像にささげられたチームを応援するということになりはしないでしょうか。

電車やバスに乗るのも問題です。神主に安全祈願をされていますから。自家用車だって、安全祈願をされた工場で作られています。

そう考えると、今回の問題は人ごとではないと分かりますね。日本や、異教的な習俗が根強く残っている国で生活する際、私たちはどんな原則で生きていけばいいのでしょうか。
大原則
(1節後半)「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。

パウロは、この問題を考える原則を語りました。「何をしてよくて、何をしてはいけないか」ということに関する知識は人を高慢にさせる。しかし、愛は人を育て、成長させる、というものです。

知識は大事だけれど、それ以上に大切なのは愛であるということです。この原則に基づいて、パウロは偶像にささげられた肉の問題を解き明かそうとしています。そして、この原則は、現代日本に住む私たちにも適用されます。
傲慢に陥っていないか
(2節)自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。

コリントはギリシアの町であり、ギリシア人は哲学的な知恵や知識をことのほか尊びました。そして、知恵や知識を持っていることを誇りとしていました。コリント教会の中にも、知識を誇りの種にする風潮が蔓延していました。

しかし、パウロはコリントの人たちが自己満足的な「分かったつもり」になっていないかと指摘します。

真の知識は謙遜さを伴います。なぜなら、神さまに関する真理は、神さまが教えてくださって初めて人間が知ることができるものであり、自分の力で見つけ出すものではないからです。

パウロは、自分の知識を過信して誇る態度そのものが、まだ本当の意味で「知る」段階に達していない証拠だと言うのです。
神を愛すること
(3節)しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。

信仰において、知識は大事です。しかし、より重要なのは「何を知っているか」ではなく、「神さまを愛しているか」どうか、そして「神さまに知られているか」どうかです。

「神に知られている」とは、神さまから選ばれ、神さまと親密な関係を持っていることを表します。私たちが神さまを愛するのは、神さまがまず私たちを愛し、選んでくださったからです。

(第1ヨハネ4:19)私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

救いは自分自身の正しさや力によって勝ち取られたものではなく、神さまが一方的に与えてくださったものです。だからこそ、私たちは自分に与えられている知識についても謙遜にならなければなりません。

そして、自分に与えられている知識は、自分のプライドを満足させるためではなく、他の人を愛し、育てる目的で用いられなければなりません。これが、今回の「偶像にささげられた肉」の問題について考える際も原則になります。

知識の側面

異教の神など存在しない
(4節)さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。

パウロは、偶像にささげられた肉の問題に話題を戻します。まず、知識の側面について確認します。

「偶像にささげられた肉」と言いますが、偶像そのものは神ではありません。偶像が表している異教の神々は、人間が「こういう神がいたらいいな」「こういう神がいるのではないか」と考え、勝手に作り出したものです。つまり、本当には存在していません。

釈迦も孔子も菅原道真も、神や仏として尊ばれていますが、実際には立派な人間に過ぎません。天照大神を始めとする神道の神々も本当には存在しません。
ただ主のみいませり
(5節) というのは、多くの神々や多くの主があるとされているように、たとえ、神々と呼ばれるものが天にも地にもあったとしても、

パウロは、異教世界の現実を認めています。ローマ帝国の多神教的文化では、無数の神々が崇拝されていました。

「天にも地にも」という表現は、天上界の神々のほかに、地上の神々(すなわち神格化された人物)が神としてあがめられていることを指しています。ローマ帝国の皇帝は、死ぬと神格化されて神として礼拝されましたし、現役の皇帝も「神の子」としてあがめられました。

日本においても同じで、たくさんの神々がいるとされていますね。 そして、箱根駅伝の5区でものすごい走りをすると「山の神」などと呼ばれたり、手術の腕が良い医師は「ゴッドハンド」などと呼ばれたりします。
唯一の神・唯一の主
(6節)私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。

どれほど多くの人が、勝手に神々を作り出し拝んだとしても、神と呼べるお方は唯一であり、主と呼べるお方も唯一です。異教の神々、偶像の神々は、本当には存在しません。コリントの町にあった神殿に鎮座する偶像は、神ではなくただの大理石の塊です。

であれば、偶像にささげられた肉自体に、何かしら人を汚す力があるわけではないという結論が出てきます。
ですから、いけにえとしてささげられた肉もをクリスチャンが食べても、別に偶像礼拝を行うわけではありませんから問題なし。仏壇に供えられたお菓子や、お祭りの屋台で売られているチョコバナナを食べても問題ありません。
  • なお、10章では、異教礼拝の場は悪霊も強く働くということが語られています。いくら罪ではないとは言え、異教礼拝の場に赴く際は警戒が必要です。
他にも、
  • 深酒して酩酊状態になって言動がコントロールできなくなったり、体を壊したりするような飲み方をするのはダメですが、飲酒自体は禁じられていません。
  • 仏など本当は存在しませんし、焼香用のお香はただの枯れた葉っぱです。ですから、仏式の葬儀に参列したり、焼香したりすること自体は偶像礼拝ではありません。
  • オカルトや魔法が登場する小説やアニメを楽しんだり、不倫を美化するような歌詞の歌を聴いたりするのは、別に自分自身がオカルト的な儀式や不品行を行わない限り問題ありません。
これが知識の側面です。

しかし、私たちは愛の側面も考えなければなりません。それが、7節以降で語られます。

愛の側面

弱い人たち
(7節)しかし、すべての人にこの知識があるわけではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんできたため、偶像に献げられた肉として食べて、その弱い良心が汚されてしまいます。

「本当は偶像の神々など存在しないのだから、偶像にささげられた肉を食べても問題ない」というのは真理です。しかし、そういった真理に関する知識をすべてのクリスチャンが持っているわけではありません。ましてや、まだ救いを個人的に受け取っていない求道者は知らないでしょう。

知識のない人たちは、偶像にささげられた肉を食べることは、まるで偶像礼拝に加担することと同じだと考えてしまいます。もしそんな人が偶像にささげられた肉を食べてしまうと、良心が汚れるとパウロは言います。
パウロは、ローマ人への手紙で次のように語っています。

(ローマ14:22-23)あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

ここで問題にされているのは心です。

もちろん、聖書が明確に禁じている行動は罪です。しかし、偶像にささげられた肉を食べること自体は、聖書が禁じていませんから罪ではありません。

ただし、「本当は罪なんじゃないか」と思いながら、それでも周りの雰囲気などに流されて食べてしまった場合は罪になります。客観的には罪でなかったとしても、本人が「これは罪だ」と思いながら行うなら、たとえ聖書が禁じていない行動であってもそれは罪になるのです。

なぜなら、心が神さまに従う方向に向いていないから、すなわち信仰から出ていないからです。
知識の再確認
(8節)しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。

ここでパウロは、改めて知識の側面を確認します。食べ物そのものは、私たちの信仰の良し悪しを決めるものではありません。何かを食べたり食べなかったりすることが、神さまとの関係を深めたり断ち切ったりするわけではありません。

すなわち、「何を食べてもよい」というのは、クリスチャンに与えられている権利です。クリスチャンは、モーセの律法に書かれているような食物規定に、もはや縛られていません。
弱い人のつまずきとならないように
(9節)ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。

権利があることと、その権利を好き勝手に行使していいかどうかは異なります。日本の憲法や法令でも、権利は濫用してはならず、他人の権利を侵害したり社会秩序を乱したりしないことを求めています。これは、聖書の精神に基づいています。
いくら偶像にささげた肉を食べても問題ないからといっても、その行為が他の人にどんな影響を与えるかを考える責任があるのです。「弱い人たち」とは、偶像の神々は存在しないのだから、偶像にささげられた肉を食べても問題ないという知識を持っていない人のことです。

パウロは、その人たちをつまずかせないようにせよと言います。「つまずき」とは、他の人の信仰を奪い去ったり、信仰の成長の妨げになったりすることです。

クリスチャンは自由であり、さまざまな権利が与えられています。その自由や権利は、他の人のつまずきにならないよう注意しながら用いる必要があります。
つまずきの例
(10-11節)知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、その人はそれに後押しされて、その良心は弱いのに、偶像の神に献げた肉を食べるようにならないでしょうか。つまり、 その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。

パウロは、偶像にささげた肉の問題において、つまずきが起こる例を挙げて説明します。

罪についての知識を持っている人は、偶像など存在しないのだから偶像にささげた肉を食べたり、偶像の神殿で催される宴会に参加して飲み食いしたりしても問題ないと知っています。

しかし、そんな確かな知識がない人が、あなたが異教の神殿での宴会に参加しているのを見ました。そして、自分も宴会に参加しないとばつが悪いと思って飲み食いしたとします。

しかし、その人は心の中で「これは罪だ」と考えています。客観的には罪ではありませんが、信仰から出ていないのでそれは罪です。

つまり、弱い人に配慮しないで飲み食いすると、自分自身は罪を犯していませんが、他の人に罪を犯させることになる可能性があるのです。その人は信仰に基づかない飲み食いの罪によってさばきを受けることになるでしょう。

もちろん、その人のためにもイエスさまは十字架にかかって罪を赦してくださいました。ですから、クリスチャンが信仰に基づかずに飲み食いしたとしても、永遠の苦しみという罰を受けることはありませんし、将来千年王国に入れられる祝福を失うことはありません。。

ただ、千年王国で与えられるはずのボーナスの祝福を、一部もらえなくなる可能性はあります。それは非常にもったいない話です。
罪を犯させる罪
(12節)あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。

権利だからと言って自由気ままに行動した結果、聖書の正しい知識に欠けている人をつまずかせてしまうなら、その弱い人が罪を犯すだけではありません。配慮を欠いてつまずかせた側も罪を犯したことになると、パウロは言います。

罪を犯させる罪、です。
他の人のために権利を用いない生き方
(13節)ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。

パウロは、聖書によれば偶像の神など存在しないのだから、偶像にささげられた肉や神殿で振る舞われる食べ物を食べても問題ないという知識を持っていました。しかし、その知識を持っていない人の信仰を削り取ってその成長を邪魔するのなら、あえてその人たちの前で肉を食べないと言います。

それは肉を食べることが禁じられているからではなく、他の人への愛のためです。

パウロは、クリスチャンに与えられている権利についての知識の大切さを十分理解しています。知識が足りないと、本当はそんな義務がないのに「これをしなければならない」「してはならない」という掟に縛られて、神さまの罰を恐れてビクビクしながら生活しなければならなくなります。それでは窮屈です。

しかし、クリスチャンが自分に与えられている権利を行使するにあたっては、他の人のつまずきにならないよう配慮する必要があります。むしろ、他の人の信仰の成長に役立つような言動を心がけなければなりません。

ではここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.知識と愛に基づいて行動しよう

正しい知識に基づいているか

パウロは、知識を否定しているわけではありません。むしろ、私たちは常に正しい知識を持つよう努めなければなりません。それが私たちを、「すべし、すべからず」という間違った重荷を勝手に負って苦しむというような状態から解放し、自由にしてくれます。

(ヨハネ8:32)真理はあなたがたを自由にします。
私たちの知識は、神さまのくださったメッセージ集である聖書から読み取らなければなりません。この世の常識も大切だし、私たちの気持ちや考えも大切です。しかし、いつも聖書に帰り、聖書が何を教えているかということを判断の材料にしましょう。

兄弟愛に基づいているか

表面的にどんな行動をするかも大切ですが、それよりもその行動が愛の心に基づき、さらに愛の結果を生み出しているかということが問われています。

私の行動や言葉は、愛に基づいているでしょうか。私の行動や言葉は、人を励まし、成長させ、その人をより神さまに近づけるでしょうか。それとも何にも考えないでしゃべったり行動したりしていないでしょうか。もしくは、人を意気消沈させ、罪に追いやり、神さまから引き離すでしょうか。

私たちは、自分の言動が他の人からどう見られているかを気にする必要があります。それは、自分が他の人に非難されることを恐れるからではなく、自分の言動が他の人の信仰をつまずかせることを恐れるからです。

神さまへの愛に基づいているか

そして、最終的には、神さまへの愛が問われます。肉を食べるにしても食べないにしても、冠婚葬祭でどのように振る舞うにしても、どんな文化を楽しむにしても、神さまへの愛の故に、堂々と喜んで、自分が決めたとおりにすることが大切です。

私がビジネスの勉強をしたとき、講師一人がこういうことを教えてくれました。「あなたの愛する奥さんや子どもたちに、『これが私のやっている仕事だよ。これが私の売っている商品だよ』と堂々と紹介できないようなビジネスをしてはいけないよ」と。

神さまに堂々と報告できないようなことをしてはいけません(隠しても、どうせお見通しなんですが)。むしろ、神さまへの感謝にあふれながら、いろいろなことを決断し、実行しましょう。

なぜなら、神さまはあなたのことを一方的に愛し、ただで救ってくださり、考えられないような祝福を用意してくださっているのですから。そして、イエスさまは、あなたの罪が赦され、神さまの子どもになれるよう、自分からすすんで身代わりとなり、十字架についてくださったのですから。
(ローマ14:1-8)信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。
他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。
ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。


私たちは、聖書に基づく知識に基づき、同時に神さまや他の人への愛を意識しながら生活しましょう。

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