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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

神のみこころに添った悲しみと悔い改め

コリント人への手紙シリーズ39

コリント人への第二の手紙7章5節~16節

(2026年7月26日)

罪を悲しむだけで終わらず、赦しを受け取り、行動を変える――神さまのみこころに添った真の悔い改めについて学びます。

礼拝メッセージ音声

参考資料

今回の箇所にまつわる歴史的な流れ
  1. コリント教会には様々な問題がありました(分派分裂、近親相姦、異端、差別、礼拝の混乱などなど)。コリント教会の混乱を知ったパウロは、エペソで第一の手紙を書きました。
  2. それでも罪(内容不明)を悔い改めない人がいて、教会もその人に対して何の指導も処分も行わなかったため、パウロは直接コリントを訪問しました。ところが、これも効果がなく、むしろパウロに反発する人たちもいました。
  3. エペソに戻ったパウロは、涙ながらに手紙(8節の「あの手紙」。非現存)を書きます。そして、それをテトスに託してコリントに向かわせました。
  4. エペソでの伝道を終えたパウロは、トロアス(今のトルコの北西部にあった港町)に向かい、そこで伝道しながらテトスを待ちましたが、会えなかったのでマケドニアに渡りました。そして、ようやくテトスと会えて、パウロの「涙の手紙」とテトスの指導によって、罪を悔い改めない人を教会が除名処分にしたということを聞きました(2章参照)。

イントロダクション

東京の教会で奉仕していたとき、英会話教室を手伝ってくれる宣教師として、アメリカの大学生たちが来日してくれていました。彼らがよく口にしていたのが「悔い改めっていい!」という言葉です。しかも、彼らは心からの笑顔でその言葉を語ったのです。

罪の悔い改めというと、あまり肯定的なイメージを持てない人もいらっしゃるかもしれません。しかし、聖書が語る悔い改めは、私たちに喜びや平安をもたらします。今回は、私たちを幸せに導く、聖書が教える悔い改めについて教えていただきましょう。

1.コリント教会の悲しみと悔い改め

神がくださった慰め

マケドニアに着いたときのパウロの状況
(5節)マケドニアに着いたとき、私たちの身には全く安らぎがなく、あらゆることで苦しんでいました。外には戦いが、内には恐れがありました。

この節は、内容的には2章12節と13節の続きです。

(2:12-13)私がキリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いておられましたが、私は、兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがありませんでした。それで人々に別れを告げて、マケドニアに向けて出発しました。

<地図をクリックすると拡大します>

伝道者テトスは、小アジアのエペソでパウロと共に働いていました。そして、コリント教会の中の問題を解決するために、パウロより先にコリントに向かいました。その後、パウロはエペソで暴動に巻き込まれ、それを機にエペソを離れます。

もともとテトスはコリントでの指導を終えたら、北上してマケドニアに行き、それから海を渡ってトロアスに向かうというルートを取ることになっていたようです。

ところが、トロアスでテトスと再会できなかったパウロは、コリント教会の人たちがテトスの指導にも従わず、そのためにテトスはコリント教会を離れられなくなっているのではないかと心配しました。

そこで、パウロはトロアスでの活動を早々に切り上げて、よりコリントに近いマケドニアに渡り、そこでテトスを待つことにしました。そのようなわけで、パウロは外側ではエペソで迫害に遭い、内面ではコリント教会とテトスに関する心配で平安を失った状態だったのです。
慰めてくださる神
(6節)しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことで私たちを慰めてくださいました。

パウロは先ほど申し上げたような不安を抱えていましたが、それは間もなく解消されます。待ちに待ったテトスがマケドニアに到着したのです。

神さまは私たちが気落ちしたときに、さまざまな方法で慰めや励ましを与えてくださいます。
パウロを慰めたもう一つのこと
(7節)テトスが来たことだけでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められました。私を慕うあなたがたの思い、あなたがたの深い悲しみ、私に対する熱意を知らされて、私はますます喜びにあふれました。

テトスと再会できたことのほかにも、パウロたちを慰め、それどころか大いに喜ばせることがありました。それは、テトスも味わった慰めです。

テトスの報告によれば、コリント教会の人たちは、全員がパウロを拒否しているのではなく、多くの人たちは心からパウロのことを愛していました。そして、彼らが深い悲しみを味わったということもテトスは報告しました。

多くの教会員がパウロを愛してくれているという報告が、パウロを慰め喜ばせたのは分かります。しかし、なぜコリント教会の人たちの悲しみがパウロを慰め、喜ばせたのでしょうか。もちろん、「他人の不幸は蜜の味」というような不純な理由ではありません。

悲しみと悔い改め

悲しんで悔い改めたから
(8-9節)あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。あの手紙が一時的にでも、あなたがたを悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。

コリント教会の人々を悲しませた原因は、パウロが送ったある手紙でした。これは、第一の手紙と第二の手紙の間の時期に書かれたものです。この手紙は、2:4で「涙ながらに書いた」と言われているため、一般に「涙の手紙」と呼ばれます。

コリント教会はすばらしい教会でしたが、さまざまな問題に満ちてもいました。分派分裂、教会員同士の訴訟問題、自由をはき違えたことによる不道徳な行い、近親相姦の罪を悔い改めない人に対する教会の不作為、礼拝の混乱、聖餐式の乱れ、霊的な傲慢、死者の復活の否定などです。

当時エペソで伝道していたパウロは、第一の手紙でそれらの問題について指導しました。ところが、解決するどころかますます状況が悪化していきます。

そこで、パウロはコリント教会を短期間訪問して直接指導しましたが、それでも解決せず、それどころか偽教師たちの影響を受けてパウロに公然と反抗する人たちも現れました。

エペソに戻ったパウロは、涙の手紙をコリント教会に送ります。その内容は、かなり厳しい調子でコリント教会の人々の罪を責めて悔い改めを迫るものだったようです。

その結果、コリント教会の人たちは深い悲しみを覚えました。それは、単にパウロから厳しく責められたからではなく、自分たちが罪を犯していたことを自覚したからです。そして、その悲しみは、悔い改めにつながりました。

パウロが慰められ、喜んだ理由は、コリント教会の人たちが悲しんだことそのものではありません。彼らが悔い改めて罪から離れ、イエスさまが望まれる生き方へと方向転換したからです。
2つの悲しみの対比
(10節)神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

ここでパウロは、神さまのみこころに添った悲しみと、この世の悲しみを対比しています。

この世の悲しみ、すなわち神さまを抜きにした悲しみは、ただ自分がやったことが人にバレて恥ずかしい思いをしたり、ペナルティが与えられたり、利益を失ったりすることに対する悲しみです。

それは神さま抜きの悲しみです。したがって、自分の罪を認めて悲しむわけではありませんし、当然、罪から離れて神さまのみこころに従う方向へ転換することもありません。最終的には、罪の赦しを受け取り損ねて、永遠の死、すなわち神さまから完全に切り離されて苦しむという未来を刈り取ることになります。

しかし、神さまのみこころに添った悲しみには、自分の罪深さを思い知らされる痛みが伴いますが、そこから悔い改めが生まれ、罪が赦され、神さまとの親しい交わりが回復するという祝福を刈り取ります。

そのような人は、最後の審判の時に「あの時悔い改めておけばよかった」という後悔を味わうことがありません。
悔い改めの内容
(11節)見なさい。神のみこころに添って悲しむこと、そのことが、あなたがたに、どれほどの熱心をもたらしたことでしょう。そればかりか、どれほどの弁明、憤り、恐れ、慕う思い、熱意、処罰をもたらしたことでしょう。あの問題について、あなたがたは、自分たちがすべての点で潔白であることを証明しました。

コリント教会の人たちが悲しみ、そして悔い改めた内容は何だったのでしょうか。聖書にははっきり書かれていませんが、伝統的には第一の手紙の5章で取り上げられている問題と関係していると考えられてきました。
  • 最近では、「あの問題」とは、パウロに対して公然と反対をした人のことだという説も有力視されていますが、まだどの説が正しいか確定していません。ここでは伝統的な解釈に基づいて解説します。
(第1コリント5:1-2)現に聞くところによれば、あなたがたの間には淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどの淫らな行いで、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか。

パウロが特に問題視しているのは、ある人が不品行を犯して悔い改めないことそのものもさることながら、それに対して教会がまったく対処していないということでした。

本来なら、間違った行動をやめるよう、教会がその人を戒めるべきでしたし、もしいつまでも指導に従わず悔い改めないなら、イエスさまが命ぜられたように除名処分にすべきでした。

しかし、パウロの涙の手紙とテトスの指導により、ついにコリント教会は変わりました。罪を悔い改めない人を除名処分にしたのです。

さらにその結果、罪を犯していた人も悔い改めました。そこで、第2の手紙の2章で、パウロは除名処分の目的が達成されたのだから、再びその人を仲間として教会の交わりに迎え入れなさいと勧めています。
涙の手紙がもたらしたもの
(12節)ですから、私はあなたがたに手紙を書きましたが、それは不正を行った人のためでも、その被害者のためでもなく、私たちに対するあなたがたの熱心が、あなたがたのために神の御前に明らかにされるためだったのです。

パウロが厳しい手紙を書いた中心的な目的は、加害者と被害者の問題を処理することだけではありません。 より大きな目的は、コリント教会の人々がパウロに対する熱心な愛を明らかにすることでした。

これまでコリント教会の人たちは、あの罪の問題に対処しようとしませんでした。パウロが何度も何度も指導してきたにもかかわらずです。その態度は、たとえ公然とパウロを非難したりバカにしたりしなくても、「パウロはイエスさまが選ばれた使徒である」という事実を、実質的に否定するものです。

しかし、コリント教会の人たちが、これまでパウロが命じてきたとおりに処分を断行したことで、神さまはコリント教会の人たちがパウロを熱心に愛し、彼が使徒であると認めていると評価してくださっています。

もたらされた喜び

テトスの喜び
(13節)こういうわけで、私たちは慰めを受けました。この慰めの上にテトスの喜びが加わって、私たちはなおいっそう喜びました。テトスの心が、あなたがたすべてによって安らいでいたからです。

テトスから、コリント教会の悔い改めについて聞いたパウロたちは慰められ、喜びました。また、報告をもたらしたテトスが喜んでいたことも、パウロたちをいっそう喜ばせました。

コリント入りするとき、テトスは緊張を覚えていたことでしょう。何しろ彼は、これまでパウロがコリント教会に対する指導で苦労してきたことを知っています。「自分もコリント教会で激しい拒否に遭うかもしれない」と考えたことでしょう。

テトスが恐れていたのは、自分自身が拒否されたり侮辱されたりすることではありません。コリント教会が悔い改めなければ、彼らはいつまでも神さまとの正しい関係を取り戻せず、用意されている祝福を味わい損ねてしまうでしょう。彼はそれを心配したのです。

しかし、コリント教会の人たちはテトスを受け入れ、その指導に従ってくれました。その結果、テトスの心は喜びと平安に満たされました。
テトスの前で誇ったこと
(14節)私はテトスに、あなたがたのことを少しばかり誇りましたが、そのことで恥をかかずにすみました。むしろ、私たちがあなたがたに語ったことがすべて真実であったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。

テトスがコリントに遣わされる前、パウロはテトスにコリント教会のことを誇りました。すなわち、彼らの良いところを挙げたと言います。

コリント教会にはさまざまな問題がありましたが、第一の手紙を読むと、パウロが彼らの救いを疑ってはいなかったことが分かります。パウロは、ゼロか百かで判断するといった極端な考えをしません。問題点があるからといって、その人のすべてを否定するような真似はしませんでした。

むしろパウロは、コリント教会の人たちがすばらしい存在であることを認め、それゆえに必ず涙の手紙やテトスの指導に応じて変わってくれると信じていたのです。
テトスの愛情
(15節)テトスは、あなたがたがみな従順で、どのように恐れおののきながら自分を迎えてくれたかを思い起こし、あなたがたへの愛情をますます深めています。

テトスは、コリント教会の人たちが自分を迎え入れてくれたことを思い出して、彼らへの愛情を深めました。

ここで言う「従順」とは、テトス個人への盲目的な服従とは異なります。テトスやパウロを指導者として召し出されたのはキリスト(救い主)であるイエスさまです。そのイエスさまの権威に対する自発的な服従です。

「恐れおののきながら」というのは、テトスが「このままでは、お前たちは地獄で永遠の苦しみを味わうことになるぞ」と脅したということではありません。自分たちの行動がいかに問題だったかということを理解して、真剣にその罪に向き合い対処しようとしたということです。

私たちクリスチャンは、罰が怖いからイエスさまの命令に従うのではありません。三位一体の聖書の神さまが、いかに偉大であり、そして愛と恵みに満ちあふれていらっしゃるかを知って、恐ろしいと思うほどに圧倒的な感動を覚えることによって、自発的に従うのです。
さらなる信頼
(16節)私はすべてのことにおいて、あなたがたに信頼を寄せることができることを喜んでいます。

パウロは、コリント教会の人たちの問題によって悩まされ、彼らのことを心配してきました。その一方で、テトスに語ったように、彼らのことを信頼し、必ず変わってくれると信じていました。

その信頼通りにコリント教会の人たちが悔い改め、行動を変えたことにより、パウロの彼らに対する信頼感はますます大きくなりました。パウロはそのことを喜んでいます。

もちろん、コリント教会が完璧になったということではありません。コリント教会の中には偽使徒・偽教師がいて、教会員に悪い影響を与え続けています。その結果、引き続きパウロを軽蔑したり悪く言ったりする人たちがいました。

第二の手紙のこれまでの箇所で、パウロはその問題について触れてきましたし、10章以降でも取り上げています。それでもパウロはコリント教会を良い教会だと評価し、一人ひとりの存在を喜んでいます。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.聖書的な悔い改めを経験しよう

ここにいる私たちは皆、福音を信じることによってクリスチャンとなりました。その過程で、自分が神さまの前に罪人だったことを認め、悔い改める経験をしています。

しかし、救われた後も罪を犯してしまうことがあります。すると、神さまとの関係がおかしくなってしまいますが、悔い改めて罪を神さまに告白することによって、いつでも関係が回復します。

では、神さまのみこころに添った悔い改め、聖書が教えている真の悔い改めとはどのようなものでしょうか。悔い改めのステップを再確認します。

(1) 罪を認めて悲しむ

悔い改めと訳される語
新約聖書で「悔い改め」と訳されている代表的なギリシア語は、メタノイアです。もともとの意味には、「考えを改める」というニュアンスがあります。

コリント教会でパウロの涙の手紙が読まれ、テトスによる指導がなされるまで、コリント教会の人たちは自分たちが間違った行いをしているということ、あるいは正しい行いをしていないということを認めていませんでした。しかし、それが間違いだったというふうに、認識を改めました。
罪と訳される語
聖書で「罪」と訳される代表的な言葉は、ヘブル語の「ヘート」とギリシア語の「ハマルティア」です。どちらも「的を外す」という意味があります。弓矢や透析で狙った的を外すとか、正しい道から逸れて目的地に到達できないとかいったニュアンスです。

そこから転じて、神さまが定めた正しい目的、道、基準からはずれることを意味する言葉になりました。ですから、罪を悔い改めるとは、「神さまが定めた基準こそ、自分が従うべき基準である」というふうに、考えを改めることからスタートします。

救われる前の私たちは、神さまではなく自分自身が善悪の判断の基準でした。私たちは、自分がしたいことをしたいときにしたいように行ってきましたし、別にそれが悪いことだとは思っていませんでした。

しかし、今やその考えを改めて、神さまのみこころが最も正しいということを知っています。
考えを改めて悲しむ
クリスチャンになってからも、私たちは誰が最終的に善悪を判断するのかという戦いを経験します。私たちはすべての罪を赦されていますが、まだ地上で生きている間は罪の性質を抱えたままです。

そこで、「自分の好き勝手に生きていきたい」という衝動がよく湧き上がってきます。その結果、その衝動のままに行動して、聖書が罪だと教えていることをやってしまったり、聖書が正しいことだと教えていることを行わなかったりするのです。

そんな自分の姿に気づいたら、自分の考え方が間違っていたこと、すなわち神さまの基準より自分の考えとか欲望とか世間の常識とかの方が正しいと思っていたことが間違いだったと認めましょう。

私たちが罪を犯した結果、他の人を傷つけてしまうことがあるでしょう。しかし、一番の被害者は神さまです。罪は神さまの存在を無視し、神さまの尊厳を傷つけることだからです。

ですから、自分が神さまの基準を無視した生き方をしていたことに気づいたら、自分を創造し、今も生かし、愛し、本当の幸せへと導こうとしてくださっている神さまに対して、自分がひどいことをしてしまったことを悲しみましょう。

これが悔い改めの第一ステップです。

(2) 赦しを受け取る

神さまのみこころにかなう悔い改めには、自分の間違いを認めて悲しむことが必要です。しかし、単に自分のふがいなさを悲しんで責め続けるだけでは、聖書的な悔い改めとは言えません。

悔い改めの第二ステップは、神さまの赦しを受け取ることです。御子イエスさまが十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさったのは、私たちの罪の罰を身代わりに負ってくださるためでした。

イエスさまが罰を引き受けてくださったので、私たちは今このままの姿で罪を赦されました。それどころか、イエスさまが私たちの身代わりとして復活なさったことにより、私たちは単に赦されただけでなく、神さまの愛する子どもとして新しく生まれ変わりました。

私たちはそれを信じてクリスチャンになったはずです。クリスチャンになった後に罪を犯してしまったときも、私たちはイエスさまのおかげでその罪が赦されていること、それどころか神さまの子どもとして深く愛されていることを再確認しましょう。
赦されているから罪を認められる
むしろ、赦されていることを知っているからこそ、私たちは安心して罪を犯したことを認めることができます。

いつまでも罪責感を抱えたまま悲しみ続けてはいけません。イエスさまのおかげで赦されており、神さまに愛されていることを思い出して喜びましょう。そして、そのことを感謝しましょう。これが第二ステップです。

(3) 行動を変える

さて、先ほど罪という言葉の語源は「考えを改める」という意味であると申し上げました。しかし、聖書的な悔い改めは考えを改めることだけではありません。自分の行動を、神さまの基準に沿ったものに改めることも含みます。

また、自分の間違いを認めて悲しむだけでも悔い改めとは言えません。自分の行動を神さまのみこころにかなうものに、行動を具体的に変えていく必要があります。つまり、正しくない行動をやめて、正しい行動を始めるということです。

たとえば、私が浮気をしたとします。それを家内が知れば激しく傷つき、悲しむことでしょう。その様子を見た私は反省します。「私を深く愛してくれている妻をこんなに悲しませるなんて、私は何というひどいことをしたことか。よし、次からはバレないようにうまくやろう」……。

これでは悔い改めとは言えませんね。もしも家内が赦してくれたのなら、私は二度と別の女性にうつつを抜かしてはならないはずです。
求められる行動の変化の例
間違いを認めたなら、正しい行ないが何かを知り、それを実践する必要があります。たとえば、
  • 盗みが罪だと認めたら、もう盗まないようにし、損害を謝罪して償う必要があります(神さまに赦されていることと、法的な責任を負ったり損害を賠償したりすることとは別です)。
  • 怠惰が罪だと認めたら、努力して働いたり勉強したりし始めなければなりません。
  • 陰口が罪だと認めたら、もう陰口をたたかないようにしなければなりません。それどころか、その人に対する肯定的な評価を口にするようにできればさらに良しです。
  • 貪欲が罪だと認めたら、今与えられているものを感謝し、それを精一杯用いるようにしなければなりません。
聖霊の助け
このような行動の変化は、私たちの決意と努力だけではなかなか実現できません。しかし、聖霊なる神さまが私たちの内に住んでくださり、私たちを助けてくださると聖書は教えています。

(エゼキエル36:26-27)あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。

私たちが罪を犯したとき、それに気づかせてくださるのも聖霊さまのお働きです。そして、イエスさまによる罪の赦しを思い出させてくださるのも聖霊さまです。

今日も、明日も、聖霊さまが私たちに、神さまのみこころに添った悲しみと悔い改めをもたらしてくださいますように。そして、一歩一歩きよめられて、イエスさまに似た者に変えられていきますように。そのような祈りを積み重ねていきましょう。

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