(2026年8月2日)
献金は義務や強制ではなく、自分が繁栄するための投資でもなく、神の恵みに感動した心から生まれる愛のわざです。第二コリント8章から、自分に与えられたもので恵みを分かち合う生き方を学びます。
礼拝メッセージ音声
参考資料
エルサレム教会が貧しかった事情
8~9章は、エルサレム教会の貧しい聖徒たちへの献金がテーマです。エルサレム教会では多くの兄弟たちが貧困に苦しんでいました。その事情は……
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①激しい迫害
エルサレムはユダヤ教の総本山であり、教会に対する迫害も激しい場所でした。職を失ったクリスチャンたちもたくさんいたことでしょう。
②共産制モデルの崩壊
誕生したばかりのエルサレム教会では、信徒たちがそれぞれ自分の財産を売って持ち寄り、必要に応じて皆で分配していました。いわば自発的な共産制です。
ただ、ある人が土地を売ると、その時は多くのお金を生活困窮者のためにささげられますが、その後はその土地から得られたはずの収入が途絶えてしまいます。
この支え合いのモデルは、教会に加わる人が順調に伸びている間は機能します。ところが、迫害によって成長のスピードが鈍化したり、多くの信徒がエルサレムから他の地域に逃げ出さなければならない事態になったりしたことで、十分機能しなくなってしまったと考えられます。
③飢饉
さらに、ユダヤ地方ではたびたび飢饉が起こり、それがエルサレム教会の人々を苦しめました。直接的にはこれがエルサレム教会困窮の最大の原因だったと考えられます。
使徒11:27-30では、ユダヤで起こる飢饉をアガボの預言によって知ったアンティオキア教会が、エルサレム教会のために献金を集めて送ったことが記されています。
イントロダクション
パウロは、エルサレム教会のクリスチャンたちを支援するための献金について語り始めます。しかし、今回の話は献金にとどまりません。私たちクリスチャンの愛の実践全般についての話です。なぜ私たちは愛を実践するのでしょうか。そして、その原動力はどこにあるのでしょうか。
私たちがますます愛の人となり、自分だけでなくみんなで幸せになるために、今日の箇所から大切なことを教えていただきましょう。
1.エルサレム教会への献金について
献金の模範
マケドニアの諸教会に与えられた神の恵み
(1節)さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。
8章と9章には、エルサレム教会への献金について書かれています。参考資料に書いたように、迫害や飢饉が重なり、エルサレム教会の人々は貧しさの中で苦しんでいました。
そんな彼らを援助するために、シリア、ガラテヤ、ギリシアなどあちこちの教会が献金を集め、義援金としてエルサレム教会に送ったり、送るための準備を始めたりしていました。
ここでパウロは、コリント教会の人たちに向かって、マケドニアの諸教会の献金について語ろうとしています。マケドニア地方には、少なくともピリピ、テサロニケ、そしてベレアという町に教会が存在していました。

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この箇所で重要なのは、マケドニア教会の人たちがエルサレム教会のための献金について、パウロが「神の恵み」と表現している点です。パウロは、献金を単なる慈善活動や財政的な協力としてではなく、神の恵みが現れた結果だと捉えていました。
喜びと貧しさ
(2節)彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。
経済的・精神的に余裕があれば、他の人を援助しようと考えるのが普通でしょう。
ところが、マケドニアの信徒たちは、「苦しみによる激しい試練」を経験しており、しかも「極度の貧しさ」を味わっていました。それにもかかわらずさらに苦しんでいるエルサレム教会のために惜しみなくささげものをしたのです。
その原動力は、彼らが味わっている満ちあふれる喜びであるとパウロは説明します。
そして、その喜びは、自分たちがイエスさまの恵みの福音を信じて罪を赦され、それどころか神さまの子どもにしていただいて、親しく交わることができ、さらに永遠に祝福され続けるという信仰からもたらされていました。
熱意と懇願によって始まった献金
(3-4節) 私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。
夏のボーナス時期やクリスマスシーズンになると、いろいろな伝道団体や施設から、献金をお願いしますというDMが教会に届きます。このように、献金を求めている側がお願いするのが普通です。
ところが、マケドニアのクリスチャンたちは、自分たちの方から「献金させてください」とパウロに熱心に願いました。
そして、実際にその願いを行動に移します。彼らは力に応じてささげ、それどころか力以上にささげました。
カルトの教会はこのような箇所が大好きです。そして、信徒たちに「ほら、ここに書いてある。自分の生活が成り立たなくなるのではないかなどと心配しないで、力以上にささげなさい。全財産を売って教会に持ってきなさい」と命じるのです。
ここでのポイントは、生活が成り立たなくなるほどささげなさいということではありません。この点については、11-12節で取り上げられています。この箇所のポイントは、彼らがパウロに命ぜられたから献金を集めたわけではなく、自発的にエルサレム教会を支えたいと願って実行したということです。
そして、ここでも献金を集めるという行動が、「恵み」という言葉で表現されています。
マケドニア人たちの献身
(5節)そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。
パウロは、マケドニアのクリスチャンたちが、自分たちの期待以上のことをしてくれたと語ります。それは、献金の額が多かったという意味ではありません。彼らが、お金をささげる前に自分たち自身を神さまにささげた、すなわち献身したということです。
「献身」という言葉は、キリスト教会では「牧師や宣教師など、フルタイムの伝道者になること」を意味することが多いです。しかし、ここではもっと広い意味で用います。広い意味での献身について、聖書は次のように教えています。
(ローマ12:1)ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
私たちは、自分の存在すべてを神さまにささげなければなりません。命も能力も過去の経験も財産も、すべて神さまのために用いる。これが献身です。
私たちが自分自身の存在すべてをささげる理由について、次のように書かれています。
(第1コリント6:20)あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。
私たちは、イエスさまのいのちと引き換えに罪を赦されました。これは、私たちがイエスさまの命という代価によって、神さまに買い取られ、神さまのものとなったということです。ですから、私たちは私たちの全存在を使って神さまの栄光、神さまのすばらしさを表そうとします。
そんな献身の一環として、私たちは献金を行います。
献金の動機
テトスへの勧め
(6節)それで私たちは、テトスがこの恵みのわざをあなたがたの間で始めたからには、それを成し遂げるようにと、彼に勧めました。
残念ながら、コリント教会においては、エルサレム教会への献金がまだ完了していませんでした。そこで、パウロはこの働きを始めたテトスに、完了のために尽力するよう勧めました。
といっても、エルサレム教会への献金は、テトスが最初にコリント教会の人たちに指導したことではありません。コリント教会はすでにこの献金を始めていました。第一の手紙の16章で、パウロは週の初めの日ごとに各自が蓄えておくよう指示しています。
しかし、何らかの理由で献金計画が完了していなかったようです。もしかしたら、コリント教会とパウロの関係が悪化していたために、中断されていたのかもしれません。
しかし、涙の手紙とテトスの指導によって、教会とパウロの関係は改善しました。そこでテトスは、再び献金を集め始めるよう指示したのでしょう。
ところが、肝心の献金はまだ十分集まっていなかったものと思われます。そこでパウロは、テトスに対して、再びコリントを訪問して問題なく献金が集められるよう指導してほしいと要請しました。
恵みのわざにもあふれるようになってほしい
(7節)あなたがたはすべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちからあなたがたが受けた愛にもあふれています。そのように、この恵みのわざにもあふれるようになってください。
コリント教会について、パウロはさまざまな面で豊かであると評価しています。彼らは、信仰の知識の面でも、熱心さの面でも豊かでした。コリント教会の人たちには、いやしや異言など奇跡的な賜物が豊かに与えられていました。
だからこそ、他の人を助ける恵みのわざ、この場合はエルサレム教会への献金の面でも豊かになってほしいといいます。
クリスチャンの霊的な成熟度は、知識や賜物の豊かさだけでは測れません。聖書知識に富み、奉仕活動が盛んであっても、他の人の必要に対して心が閉ざされているなら、福音の恵みが生活の中に現れているとは言えないのです。
第一の手紙の13章で、愛がなければあらゆる事に意味がないとパウロが語っていることと通じます。
命令ではない
(8節)私は命令として言っているのではありません。ただ、他の人々の熱心さを伝えることで、あなたがたの愛が本物であることを確かめようとしているのです。
パウロは、献金は命令ではないと言いました。パウロは使徒ですから、献金するように強く命じることもできます。しかし、そうしませんでした。
強制によってお金を集めることはできても、愛そのものを生み出すことはできません。そのためパウロは、マケドニアのクリスチャンたちを模範として示すことによって、コリント教会の人々に自発的な行動を求めています。
キリストという模範
(9節)あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。
パウロは、マケドニア諸教会の人たちとは別の模範も示します。それはイエスさまです。
イエスさまは富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられました。これは、イエスさまは三位一体の第二位格、子なる神でいらっしゃったのに、被造物である人間となって地上に来られたことを示しています。
そればかりか、イエスさまは私たちの罪が赦されるように、身代わりとして十字架にかかって命をささげてさえくださいました。そのおかげで、私たちは霊的に富んだ者になったのです。
といっても、これは「献金すれば、物質的に繁栄する」という約束ではありません。ここで言う「富」とは、救い、義、永遠のいのち、神との和解、御国の相続という霊的な祝福のことを指します。
私たちは、イエスさまの恵みによって救われ、これらの祝福を手に入れました。パウロはそのことを思い出させることによって、コリント教会の人たちに喜びや感謝の思いを引き起こし、それを原動力として他の人への愛のわざを引き出そうとしています。
献金の原則
昨年から始まった働き
(10節) この献金のことについて、私の意見を述べましょう。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは献金を実行することだけでなく、その志を持つことも、昨年から始めて他に先んじていました。
コリント教会では、昨年からエルサレムへの献金の計画が始まっていました。実際の行動だけでなく、献金したいという願いを持ったのも、他に先んじていたとパウロは言います。これは、コリントの町があるアカイア属州の中で、コリント教会が最初に献金しようと声を上げたことを示しているのでしょう。
持っているものでやり遂げなさい
(11-12節)ですから今、それをやり遂げなさい。喜んでしようと思ったとおりに、持っているものでやり遂げてください。喜んでする思いがあるなら、持っていないものに応じてではなく、持っているものに応じて受け入れられるのです。
コリント教会は、エルサレムの貧しい信徒たちを助けたいと志を立てました。問題は、その志を完遂できていないという点でした。
パウロは、「持っていないものまでささげろ」とは言わないと語りかけます。献金のために生活そのものが破綻したり、教会が心理的な圧力をかけてお金を引き出そうとすることは、神さまのみこころではないのです。
逆にパウロは、「自分は裕福ではないから」「わずかしか持っていないから」と、他の人を助ける働きを躊躇することがないようにという意味でも、この語りかけをしています。
持っていないものに目を留めて「できない」と判断して何もしないのではなく、今自分が持っているものでできることをすればよいのだということです。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.私たちも恵みのわざに加わろう
恵みのわざに加わるとはどういうことでしょうか。
神の恵みに感動すること
今回の箇所で、エルサレム教会のクリスチャンたちを援助するための献金のことを、パウロは恵みのわざと呼んでいます。
それは、この献金が単なる生活困窮者のための義援金という枠組みを超えているからです。
「恩送り」という言葉があります。「恩返し」は、良いことをしてくれた本人にお返しをすることですが、恩送りはその人とは別の人に良いことをします。英語の「Pay
it forward」に当たります。
私たちは、イエスさまから返しきれないほどの恩を受けました。神さまをずっと無視してきた罪人の私たちを、神さまはさばいて滅ぼすのではなく、罪を赦してくださいました。それどころか、子どもにしてくださいました。そして、永遠に続く本当の幸せへと導き続けてくださっています。
そのことを思うとき、私たちの心には感動が満ちあふれます。感謝が、喜びが、もったいないという思いが満ちあふれます。その感動が、恩送りの原動力となるのです。すなわち、自分が神さまに愛されたように、私も他の人を愛したいという思いがわき上がってくるということです。
聖書は愛の実践を大切なこととして説いています。しかし、その原動力は義務感でも、祝福を失う不安でも、さばきを恐れての恐怖心でもありません。イエスさまを通して与えられた、神さまのあふれる恵みに対する感謝です。
聖書を読み、祈りながら、神さまの愛について黙想しましょう。日常生活の些細な出来事や、当たり前にそこにあると思っていたものの背後に、神さまの恵みを見つけ出しましょう。そのようにして、自分がどれほど神さまに愛されているか、いつも思い起こしましょう。そして、感動を新たにしましょう。
神の恵みを実際に伝えること
コリント教会の人たちは、神さまの恵みに感動して、エルサレム教会への愛を実践したいと志を立てました。すなわち献金の計画を立てたのです。しかし、残念ながらなかなか実行できないでいました。私たちは、よい志を立てたなら、それを具体的な行動に表しましょう。
献金だけが恵みのわざ、すなわち愛の行いではありません。一体自分が誰に対してどんな言動をすることが、恵みのわざ、愛の行いを実践することになるのでしょうか。それを考え、実際に行動しましょう。
さまざまな事情で、なかなか行動に移せないこともあるでしょう。しかし、聖霊さまがその壁を乗り越える知恵や力を与えてくださるよう祈りましょう。
そして、ペテロが嵐の湖に一歩足を踏み出したように、私たちも最初の一歩を踏み出していきましょう。そうすれば、二歩目、三歩目と前に進んでいくことができます。あなたに今求められている最初の一歩は何ですか?
神の恵みを自分にできる方法で伝えること
パウロは、「持っているものでやり遂げなさい」と言いました。
自分が持っていないものにばかり目を留めていては、良いことを何もできなくなってしまいます。他の人と同じことをする必要はありません。自分にできることを見つけてそれを行いましょう。
東京の教会で奉仕していたとき、あるおばあさんからこんなことを言われました。「私はもう年を取って、他の人のように掃除や受付などの奉仕はできません。でも、先生のためにいつも祈らせていただいています」。
その後、その方が老衰で天に召されたとき、私の心には大きな喪失感がありました。その方の祈りがどれほど自分を支えてくれていたか実感したのです。
持っていないものを数え上げれば数限りなく出てきます。しかし、私たちがすでに持っているものはたくさんあります。それをどのように使えば、今よりももっと他の人の助けになれるでしょうか。どのように使えば、他の人に神さまの栄光、すなわちすばらしさが伝わるでしょうか。