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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

キリストの柔和さと優しさによる願い

コリント人への手紙シリーズ41

コリント人への第二の手紙10章1節~11節

(2026年8月9日)

キリストの柔和さと優しさに学び、悔い改めと霊的成長へ。パウロの訴えから、聖書によって考え方を整える大切さを具体的に学びます。

礼拝メッセージ音声

イントロダクション

厳しいことを言われると、私たちはつい「責められている」「否定されている」と感じてしまいます。しかし、本当に相手を大切に思うからこそ、あえて耳の痛いことを伝える場合もあります。パウロがコリント教会に向けて語った厳しい言葉も、怒りや仕返しから出たものではありません。その根底にあったのは、「キリストの柔和さと優しさ」でした。

神さまが私たちに悔い改めを求められるのも、罰することが目的ではなく、私たちを回復させ、さらに成長させるためです。では、今の私たちには、どのような成長が求められているのでしょうか。

1.反対者たちへのパウロの訴えかけ

処罰を避けたい思い

キリストの柔和さと優しさによる訴え
(1節)さて、あなたがたの間にいて顔を合わせているときはおとなしいのに、離れているとあなたがたに対して強気になる私パウロ自身が、キリストの柔和さと優しさをもってあなたがたにお願いします。

コリント教会には、偽使徒・偽教師たちが入り込んで、多くの人たちがその悪影響を受けていました。さらに、偽教師たちはパウロを非難し、教会員たちの心がパウロから離れるように仕向けていました。

そこで、コリント教会の人たちとパウロの関係はおかしくなっていましたが、涙の手紙と伝道者テトスの働きにより、多くの教会員が再びパウロを慕うようになっていました。

ところが、いまだに偽教師たちはコリント教会に居座ってパウロを非難し続けていましたし、少数ながら彼らを支持する教会員もいました。10章以降は、そのような反対者たちに関する訴えかけです。

1節に書かれている、「直接対面しているときはおとなしいのに、離れているときには強気になる」というのは、パウロについて反対者たちが実際に用いていた批判の言葉でしょう。10節でも、このような批判について触れられています。

そんな彼らに対して、パウロはキリストの柔和さと優しさを持って語りかけます。イエスさまが人々を教えるとき、「罪を悔い改めて私を信じなければ、地獄に落として永遠に苦しめるぞ」と脅したのではありません。むしろ、人の罪を赦してくださる神さまの愛と恵みを強調なさいました。

そんなイエスさまをモデルとして、パウロは反対する人たちに対して悔い改めるよう説得しようとしています。すなわち、脅しや威圧ではなく、愛によって訴えかけようとしているのです。
強気にふるまいたくない
(2節)私たちが肉に従って歩んでいると見なす人たちに対しては、大胆にふるまうべきだと私は考えていますが、そちらに行ったときに、その確信から強気にふるまわないですむように願います。

パウロは、このあと自分がコリントを訪問した際に、厳しい態度を取らなければならない事態を避けたいと願っています。しかし、反対者たちが今のうちに悔い改めないならば、イエスさまによって任命された使徒としての権威を用いて、厳しい態度を取らざるを得ないとも語っています。

反対者たちは、パウロや仲間の伝道者たちについて、「肉に従って歩んでいる」と見なしていました。この場合の「肉」とは、神さまに頼らず、人間的な価値観や方法によって行動する態度を表しています。

反対者たちは、パウロについて、人間的な野心によって行動しているとか、教会の人たちをイエスさまにではなく自分自身に従わせようとしているとか、金儲けを企んでいるとか言って批判していたのでしょう。

そんな彼らに対して、パウロは自分がそちらに行ったときに厳しい処分を下す必要がなくなるよう、今この時に悔い改めてほしいと訴えかけています。

批判への弁明

肉体を持っていても、肉によって戦わない
(3節)私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。

「肉に従って歩んでいる」という批判に対して、パウロは明確にそれを否定します。
要塞を打ち倒す力
(4節)私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。

パウロは、自分たちが肉に従って歩んでいないということを説明するために、自分たちの武器が要塞を打ち倒す力を持っていると語ります。この要塞が何を意味するかは、次の節で語られます。
打ち倒される要塞の意味
(5節)私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。

パウロが立ち向かう要塞とは、さまざまな議論、高ぶり、そしてはかりごとです。パウロたちまことの伝道者は、このようなものを取り押さえてイエスさまに服従させようとします。

これは、「クリスチャンは考えてはいけない。ただただリーダーに盲目的に従っていればいい」という意味ではありません。

イエスさまは、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」とおっしゃいました(マタイ22:37)。私たちは、ただ感情的にだけでなく、知性の面でも神さまを愛する必要があります。

すなわち、考えずに言われたことを機械的に行うのではなく、何が神さまの喜ばれる生き方なのか自分の頭で考えて選択することが求められているのです。

パウロが言わんとしていることは、自分の考えが神さまのみこころからはずれていないかチェックしようということです。そして、自分で考えたことが神さまのみこころと矛盾するなら、当然神さまのみこころの方を優先しなければなりません。

パウロは、教会の人たちがそのような態度を身につけられるよう、使徒として与えられた権威を用いるのだと語ろうとしています。彼に与えられている権威は、人を支配して自分の思い通りに動かすためではありません。

使徒としての権威と処罰

教会の従順が整った後の処置
(6節)また、あなたがたの従順が完全になったとき、あらゆる不従順を罰する用意ができています。

先ほど、パウロは使徒として教会に残っている反対者たちに厳しい処分を下したくはないと語りました。しかし、彼らがいつまでも悔い改めないならば、処分を下さざるを得ないとも考えています。

この場合の厳しい処分とは、反対する人たちを教会の交わりから断ち切ることだと考えられます。

イエスさまは、罪を悔い改めない信者がいたなら、まずは一対一で説得するよう教えています。それでも悔い改めないなら、今度は2、3人で説得します。それでもダメなら、教会が公式に説得します。ここまでしてなおも悔い改めないなら、異邦人か取税人か扱えとイエスさまはおっしゃいました(マタイ18:15-17)。これは、教会から除名せよという意味です。

パウロもこれを踏まえて、第一の手紙の5章で、近親相姦の罪を悔い改めない人について、教会が彼をクリスチャン同士の交わりから除外するよう求めています。

ただし、どれほどパウロが「使徒として命じる。この人たちは除名処分だ」と叫んでも、教会自体がそれを無視して従わなければ意味がありませんね。実際、コリント教会は近親相姦の罪を悔い改めない人に対して、除名処分をなかなか実行しませんでした。

しかし、涙の手紙とテトスの指導により、ついに教会はこの人を除名処分にしました。そこでパウロは、今度はその人を赦して再び交わりに戻すよう勧めています(第2コリント2:6-7)。

ですから、このあとパウロがコリント教会を訪問した際、もしパウロが反対者たちに対する除名処分を命じたらそれに従うことでしょう。

教会がイエスさまに対する従順さを取り戻したので、不従順な人たちを罰する用意も整った……これが6節で語られていることの意味です。
うわべだけで判断してはならない
(7節)あなたがたは、うわべのことだけを見ています。もし自分はキリストに属する者だと確信している人がいるなら、その人は、自分がキリストに属しているように、私たちもキリストに属しているということを、もう一度よく考えなさい。

コリント教会では、外面的な印象によってリーダーを評価する傾向がありました。反対者たちは、 見栄えの良さ、話し方、社会的な有力者からの推薦状などを重視していました。そこで、パウロはそのどれもが欠けているとして軽んじたわけです。

しかし、外見はどうであれ、大切なのはその人がキリストに属しているかどうか、すなわちイエスさまに従順に従っているかどうかです。
倒すためでなく建てるための権威
(8節)あなたがたを倒すためにではなく、建てるために主が私たちに与えてくださった権威について、私が多少誇り過ぎることがあっても、恥とはならないでしょう。

パウロには、世界中に広がる教会全体を指導する使徒としての権威が与えられています。そのことについて誇ったとしても恥にはならないだろうとパウロは言います。

しかし、パウロは自分は偉大な人間だと言って、自分自身を誇っているわけではありません。パウロを使徒として選び、権威を与えたのはイエスさまです。

そして、その権威は教会を倒すためではなく、建て上げられる目的で与えられました。パウロは、悔い改めようとしないクリスチャンに対して厳しい処分を下すことができますが、その最終的な目的は、その人の回復と成長です。
脅しているわけではない
(9節)私は、手紙であなたがたを脅しているかのように思われたくありません。

第一の手紙でも、涙の手紙でも、そしてこの第二の手紙でも、パウロは教会の中の問題点については、時に厳しい指導もしています。しかし、その目的は相手を脅して萎縮させることではありません。
反対者たちの批判の内容
(10節)「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない」と言う人たちがいるからです。

これは、コリント教会に入り込んだ偽教師たちや、その影響をいまだに受けている人たちが実際に口にした、パウロに対する批判の言葉です。
手紙と実態は同じである
(11節)そのような人は承知していなさい。私たちは、離れて書く手紙のことばどおりの者として、そちらに行ってもふるまいます。

「パウロは手紙で振る舞っているキャラクターと実態とが違う」と馬鹿にする反対者たちに対して、パウロは同じだと主張します。ただ、これまでコリント教会の人たちに会った際、厳しい権威者として振る舞わなかったのは、まだ教会の側の準備が整っていなかったからです。

しかし、今やコリント教会の大多数の人たちは、パウロの使徒職を認め、彼が語るイエスさまの教えに対して素直に耳を傾ける態度を取り戻しました。ですから、コリントをパウロが訪問したときには、まだ悔い改めようとしない人たちに対して厳しい処分、すなわち除名処分を宣告することになるでしょう。

ただし、そのような処分を下すのは、自分が馬鹿にされたり受け入れられなかったりすることへの、感情的な報復ではありません。パウロに与えられている使徒としての権威は、自分自身が偉そうにするためではなく、教会を成長させるために与えられました。

パウロは、自分が使徒として認められないことそのものに腹を立てているのではありません。パウロを使徒として認めないということは、彼がこれまで教えてきたことも軽んじることになります。すなわち、イエスさまの教えを軽んじることにつながります。

罪は神さまと私たちの関係をおかしくします。ですから、個人としても教会としても罪を放置してはならないのです。そして、悔い改めは、再び神さまとの親しい関係を回復させます。

パウロの厳しさの背後には、コリント教会への愛があります。彼らが、いつもイエスさまに従順であるように、たとえ罪を犯したとしてもすぐに悔い改めて神さまとの関係を回復するように、そしてますます神さまの子どもとして成長していけるように。パウロはそのことを一番に願っていました。

1節で語られた「キリストの柔和さと優しさをもってあなたがたにお願いします」という言葉が、そのことをよく表しています。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.キリストの柔和さと優しさを知って悔い改めよう

私たちの成長を願うキリストの思いを知ろう

コリント教会には、いまだにパウロのことを公然と批判したり、馬鹿にしたりする人たちがいました。その人たちに向かって、時にパウロは厳しい言葉を投げかけています。

ただ、パウロは、自分自身が拒絶されたり侮辱されたりしたことを怒っているわけではありません。もちろん、拒絶や侮辱はパウロを深く傷つけましたし、悲しませました。しかし、パウロは個人的な復讐のために反対者たちを攻撃しようとはしませんでした。

パウロが考えていたのは、コリント教会全体と、そこに集う一人ひとりのクリスチャンたちの霊的な成長です。人がイエスさまの恵みの福音を信じたとき、その人は神さまの子どもになりました。神さまの子どもとして、共同体としても個人としても成長してほしい。それがパウロの願いでした。

時に厳しい言葉をコリント教会に向かって投げかけたのも、鬱憤晴らしではなく、彼らの成長を願ってのことです。
イエス・キリストという模範
そして、その態度について、パウロは1節で「キリストの柔和さと優しさをもってお願いします」と表現しています。パウロがモデルにしていたのは、イエスさまの私たち人間に対する態度です。

聖書の神さまはこの宇宙の創造主であり、支配者です。ですから、ご自分に逆らって罪を犯す者がいれば、すぐにさばきを下して永遠の苦しみという罰を与えることもおできになります。しかし、そうはなさいませんでした。

神さまは、罪人であり、何度も裏切ってしまう私たちを愛してくださいました。そして、罪を赦し、神さまの子どもとして祝福しようと考えてくださいました。

それから、罪の赦しの根拠として、神の御子イエスさまが、私たちの身代わりとして罪の罰をすべて引き受けてくださいました。

イエスさまが私たちに向けておられるまなざしは、怒りとあきらめではなく愛と信頼です。イエスさまは私たちのことを、ご自分の命を捨てても惜しくないと思われるほどに愛してくださっており、神さまの子どもとして必ず成長してくれると信じてくださっています。

成長のポイントを探って実践しよう

ですから私たちは、罪の罰が恐ろしいからではなく、イエスさまの愛と信頼のまなざしに応えるために、神さまの子どもとしてふさわしい存在になろうと決意しましょう。

では、私たちのどこをどのように修正すれば神さまの子どもとして成長したと言えるのでしょうか。

それは一人ひとり違います。幼稚園年長さんの子どもと小学3年生の子どもとでは、成長のポイントが違うのと同じく、私たちクリスチャン一人ひとりも成長の度合いやスピードが異なります。

大切なのは、他の人がどうかではありません。今のこの自分にとって、神さまの子どもとして霊的に成長するということは、どのように考えまた行動することなのか知ること、そして実際にそこを目指して努力することです。
成長のポイントの例
  • Aさんは、聖書を読み祈る中で、不平不満をすぐに口にする点を聖霊さまに示されました。そして、代わりに意識して感謝の言葉を神さまと他の人に語るようにしました。
  • Bさんは、過去やってしまった失敗をいつまでも気に病み、罪責感に苦しみ続けました。しかし、自分の罪はすべて完全に赦されていることを再確認し、罪責感が湧き上がってくるたびに「私も私を赦す」と自分に向かって宣言するようになりました。
  • Cさんは、恥ずかしくて自分がクリスチャンになって洗礼を受けたということを、家族や友だちに黙っていました。しかし、あるとき思いきってさりげなく告白してみました。すると、思ったほどの否定的な反応がなく、むしろ興味を持って聞いてくれる人もいました。
あなたの成長のポイントは何ですか?

考え方を変えよう

5節の解説で触れたように、私たちは感情的にだけでなく、知性の面でも神さまを愛する必要があります。

およそ、罪は間違った考え方から生まれがちだということを、私たちは知らなければなりません。そして、考え違いを改めなければなりません。
Aさんの考え違い
先ほど紹介したAさんは、「いやなことがあったら、不平不満を垂れ流すのが当然」という考えを持っていました。

しかし、聖書は「すべてのことにおいて感謝しなさい」と命じています。そのことを知ったとき、考えを改めました。だから、感謝を口にするようになったのです。
Bさんの考え違い
Bさんは、心のどこかに、「イエスさまによる罪の赦しは不完全だから、自分が自分を責めて苦しむことで、その足りない分を補わなければならない」という間違った考えを持っていました。

しかし、実際にはイエスさまによる罪の赦しは完全です。そのことを知ったとき、すでに悔い改めた罪について、自分で自分を責めるのはもうやめようと決意しました。
Cさんの考え違い
Cさんは、「自分がクリスチャンだと告白したら、馬鹿にされたり迫害を受けたりするかもしれない」という考えを持っていました。これ自体は間違いではありません。イエスさまも、この世にあってあなた方には艱難があるとおっしゃっています。

Cさんの間違いは、「その苦しみに自分は耐えられないだろう」と考えていたことです。聖書は、私たちが迫害に遭うとき神さまが支えてくださると約束しています(マタイ10:19-20、第1コリント10:13など)。

それを知ったとき、Cさんは間違った考えを捨てて他の人に証しし始めました。
聖書が考え方の基準
AさんもBさんもCさんも、自分の考えが間違いだったと気づかされたきっかけ、そして正しい考え方についての情報は、聖書のみことばでした。

聖書が私たちの考え方の土台です。私たちが間違った考え方に捕らわれて、本来与えられるはずの自由や喜びを取りこぼさないように、いつも聖書の言葉に触れ続けていたいですね。

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