(2026年8月16日)
パウロの言葉から、本当の自尊心について解説します。人との比較や自己推薦ではなく、神に与えられた使命を忠実に果たすことこそ本当のプライドです。
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仕事で学校に出入りしていると、子どもたちの自己肯定感が低いという話をよく聞きます。健全なプライド、自尊心が乏しいと、さまざまな問題行動につながります。
たとえば、失敗を恐れてチャレンジしない、勉強しない、すぐ言い訳して反省しない、ちょっとしたことでヘコんでやる気を無くす、あるいは傲慢に人を見下す、弱い者いじめをする、ルールを守らない、などなど……。そして、それは大人も同じです。
プライドを保つことは大切です。しかし、パウロは人と比較して自尊心を保つのは愚かだと主張します。では、聖書が教える健全なプライドとはどういうものでしょうか。
1.パウロの自尊心の種
自己評価の愚かさ
私たちは比較しない
(12節)私たちは、自分自身を推薦している人たちの中のだれかと、自分を同列に置いたり比較したりしようとは思いません。彼らは自分たちの間で自分自身を量ったり、互いを比較し合ったりしていますが、愚かなことです。
パウロは、コリント教会に入り込んで混乱をもたらした偽使徒・偽教師たちと自分たちを対比させています。
まず、パウロは偽教師たちを「自分自身を推薦している人たち」と呼んでいます。彼らは人と人とを比較して、誰が優れているかと主張し合っていました。すなわち、優劣の基準が神さまの評価ではなく、人間の評価だということです。
これまでもお話ししてきましたが、偽教師たちが誇りの種にしていたのは、雄弁さ、哲学的な知恵の深さ、見た目の華やかさ、社会的有力者からの推薦状といったものです。パウロにはそれらが欠けているといって、偽教師たちはパウロのことを偽使徒呼ばわりしていました。
また、そんな彼らの評価に惑わされて、コリント教会の人たちもパウロから心が離れかけていました。一時は、パウロが涙ながらに手紙を送らなければならないほど、関係が冷え切っていたのです。
人間は皆、何かしら良いところもあれば、欠けている部分もあります。比較対象を都合良く選べば、私たちはいくらでも自分の方が優れていると主張できるでしょう。しかし、パウロはそのような人間同士の比較を愚かなことだと切り捨てます。
パウロの誇り
神が割り当ててくださった限度
(13節)私たちは限度を超えて誇りません。神が私たちに割り当ててくださった限度の内で、あなたがたのところにまで行ったことについて、私たちは誇るのです。
パウロは、自分たちは限度を超えて誇らないと言います。その「限度」は、神さまが割り当ててくださったものです。
パウロがここで言おうとしているのは、自分たちは勝手に使徒を名乗り、コリント教会で偉そうに支配者面をしているわけではないということです。パウロたちは、神さまが割り当ててくださった範囲の中で伝道活動をしています。
そして、その範囲の中には、コリントに行って初めて福音を伝え、教会を建て上げた開拓伝道の働きも含まれます。パウロはそのことを誇ると語っています。
ただし、その意味は、自分がコリント教会を開拓した牧師なのだから偉いのだということではありません。彼が誇っているのは、自分が神さまにゆだねられた働きを忠実に行っているということです。
コリント教会の開拓者
(14節)私たちは、あなたがたのところに行かなかったかのようにして、無理に手を伸ばしているのではありません。事実、私たちは他の人たちに先んじて、あなたがたのところにキリストの福音を携えて行ったのです。
「無理に手を伸ばす」という表現は、パウロたちが本当はそのような資格がないのに、コリント教会に対して指導者としての権威を主張しているという意味です。まさに偽教師たちや彼らの悪影響を受けた反対者たちは、パウロの権威を認めず、その指導に対して素直に従おうとしませんでした。
しかし、コリントに誰よりも早く福音を携えていき、コリント教会を建て上げたのはパウロです。偽教師たちは、パウロが建て上げた教会に後から入り込んで活動しながら、パウロの権威を否定しています。
ここには大きな矛盾があります。パウロが伝道者・指導者として失格なのであれば、コリント教会もまた誕生していなかったはずですから。
働きの拡大という望み
(15節)私たちは、自分の限度を超えてほかの人の労苦を誇ることはしません。ただ、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間で私たちの働きが、定められた範囲の内で拡大し、あふれるほどになることを望んでいます。
パウロは、ほかの人の労苦を自分の功績であるかのように誇らないと言います。ここには、偽教師たちへの痛烈な皮肉が含まれています。
偽教師たちは、パウロが開拓した教会に入り込んで、まるで自分たちが教会を生み出したかのように振る舞い、人々を支配しようとしていました。そのような姿勢をパウロは批判します。
しかしながら、パウロが意図しているのは、誰がコリント教会の支配者になるかという権力闘争ではありません。パウロの願いは、コリント教会が健全に成長することでした。
他の地域への宣教のため
(16節)それは、あなたがたより向こうの地域にまで福音を宣べ伝えるためであって、決して、ほかの人の領域ですでになされた働きを誇るためではありません。
コリント教会が成長すれば、そこを拠点として福音宣教がさらに拡大していくことでしょう。「向こうの地域」とは、まだ福音が伝えられていない場所のことです。
それが具体的にどこを指しているのかは言及されていませんが、このあとパウロがコリントを訪問したときに書かれたと考えられているローマ人への手紙には、彼がイスパニア(スペイン)に行きたいと思っていたことが記されています。
(ローマ15:23-24)しかし今は、もうこの地方に私が働くべき場所はありません。また、イスパニアに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを長年切望してきたので、旅の途中であなたがたを訪問し、しばらくの間あなたがたとともにいて、まず心を満たされてから、あなたがたに送られてイスパニアに行きたいと願っています。
パウロは、偽教師たちと違い、他の人の働きの成果を自分のものにして誇りたいとは思っていませんでした。同じローマ人への手紙でも、次のように述べています。
(ローマ15:20)このように、ほかの人が据えた土台の上に建てないように、キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです。
パウロが目指していたのは、まだ福音が語られていない場所で人を救いに導き、そこに新しく教会を建て上げること、すなわち開拓伝道でした。
ただ、これは開拓伝道をしない伝道者は二流以下だという意味ではありません。二代目、三代目の牧師は、教会を始めた初代の牧師より劣っているという意味でもありません。
13節以降、パウロは何度も「限度」という言葉を使っています。それは神さまが割り当てられた使命です。パウロには開拓伝道という使命が与えられました。別の人には、その働きを引き継いで教会を成長させる使命が与えられています。
たとえば、パウロのあとにコリントを訪問して教会成長を助けたアポロについて、パウロは自分と同列の立場に置いてその働きを認めています。
(第1コリント3:6)私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
また、問題を抱えたコリント教会を指導するために派遣したテトスについても、パウロは高く評価しています。
パウロが問題にしているのは、開拓者かどうかではありません。他の人の成果を自分のもののように誇り、他の人たちを見下す偽教師たちの姿勢です。
最終的な評価基準
主を誇れ
(17節)「誇る者は主を誇れ。」
パウロは、自分が神さまに割り当てられた使命を忠実に果たそうとしていることを誇りにしていました。しかし、ここではさらに一歩議論を進めます。
人間が自分の働きについて何を語り、何を評価するかよりももっと大切なことがあります。それは、イエスさまはすばらしいお方だということです。
人が自分の能力や成果、奉仕の実績を誇るなら、人間の栄光(すばらしさ)が現されます。しかし、「これをさせてくださったのはイエスさまです」と神さまをほめたたえ感謝を示すなら、栄光は神さまのものになります。
聖書を一貫しているテーマの一つは、神さまの栄光です。神さまは、ご自身の栄光が明らかになることを目的として行動しておられます。宇宙の歴史は、過去も現在も未来も、神さまの栄光を現す方向に進んでいます。
私たち人間が創造され、今こうして生かされている目的も、神さまのすばらしさをさらに明らかにするためです。
(イザヤ43:7)わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。これを形造り、また、これを造った。
ですから、次のように命ぜられています。
(第1コリント10:31)こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
大切なのは、「神さまが私をどれほど用いてくださっているか」ではなく、「私を用いてくださっている神さまがどれほど素晴らしいか」です。
主に推薦される人
(18節)自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です。
今回の箇所の結論です。
「自分で自分を推薦する人」、すなわち人間同士の比較の中で優劣を決めようとするのは意味がありません。本当に優れている人は、イエスさまが認め推薦なさる人です。
そして、イエスさまが認めてくださるかどうかは、雄弁さや外見や他の人の推薦状によるのではないし、能力や成果によるのでもありません。それぞれ神さまに割り当てられた使命を忠実に果たすかどうかに掛かっています。
パウロはそのことをコリント教会の人たちに訴えようとしています。
パウロの涙の手紙とテトスの指導によって、かつてパウロの権威を認めずパウロの指導を拒否していた多くのコリント教会員は、パウロを再び指導者として受け入れました。
しかし、まだ偽教師たちの間違った誇り方に影響を受け続け、パウロへの反抗をやめない人たちもいました。そんな彼らに対して、パウロは人ではなく神さまからの評価を土台にして生きることの大切さを訴えています。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.本当のプライドを持とう
人との比較をやめよう
偽教師たちや、彼らの影響を受けた一部のコリント教会員たちは、自分と他人を比較して自分を優れた存在だと感じようとしていました。
しかし、他の人と比較して手に入るプライドは、自分より優れた人が現れると途端にしおれてしまいます。
ある若者は、自分が東京大学に入学したことを大変誇りに思い、他の大学の就活生を内心見下していたそうです。
ところが、卒業後に就職して配属された部署には、スタンフォード、オックスフォード、ハーバードといった、世界ランキングがより上位の大学出身者がたくさんいました。学歴以外に何が誇れるだろうかと思った彼は、しばらく落ち込むことになりました。
しかし、私たちの価値を決めるのは、私たちの学歴でも、仕事の成果でも、能力でも、外見でもありません。この全宇宙を作り支配していらっしゃる神さまです。神さまが「あなたはすばらしい」とおっしゃるなら、人が何と言おうと、私たちはすばらしい存在なのです。
瞳のように守ってくださる神
出エジプトの奇跡の後、それでも罪を犯して逆らい続けるイスラエルに対して、神さまはモーセを通して次のように語られました。
(申命記32:10)主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。
アブラハム・イサク・ヤコブとの契約のゆえに、神さまは彼らの子孫であるイスラエルを無条件で愛し、守ってくださいました。今もそうですし、これからもそうです。
同じように、イエスさまの恵みの福音を信じたとき、私たちは過去・現在・未来のあらゆる罪を赦されました。そればかりか、神さまの子どもとされ、永遠の祝福を受け継ぐものとされました。私たちは神さまにとって滅ぼすべき敵ではなく、「愛する我が子」です。
他の人の優れた点を認め、それを目標として努力することはすばらしいことです。しかし、人と比較して一喜一憂するのはやめましょう。私たちの自尊心の種は、神さまが私たちを子どもとして愛し、大切に思ってくださっているという事実です。
自分の使命を全うしよう
大切なことは、他の人と比較して優劣を決めることではありません。神さまがこの自分にどんな行動をしてほしいと願っていらっしゃるかを知り、それを忠実に行うことです。
イエスさまのタラントのたとえで、5タラント儲けたしもべも2タラント儲けたしもべも、主人は同じ言葉でほめました。主人が評価したのはしもべが主人の期待を受け止め、忠実に自分の使命を果たそうとしたその姿勢です。
同じように、神さまが求めておられるのも、私たちの働きの成果そのものではありません。もちろん、良い結果を出すに越したことはありませんし、良い結果が出るように私たちは計画し、努力すべきです。しかし、最終的に問われるのは、私たちの忠実さなのです。
人と比較して、鼻を高くしたり落ち込んだりしてはなりません。他の人を見下したり、誰かを偶像化してあがめ奉るのもよくありません。自分にイエスさまが求めておられる行動は何だろうか。それを考えましょう。そして、それをひたむきに行わせていただきましょう。
今、あなたにイエスさまが与えておられる使命は何ですか?
神の栄光を求めよう
そして聖書は、私たちが自分の自尊心のことさえ手放して、神さまのすばらしさを知り、神さまのすばらしさを周りの人に明らかにすることに集中するよう求めています。
ああうれし我が身も
私たちが父なる神さま、イエスさま、聖霊さまのすばらしさを知れば知るほど、私たちの心は平安になり、将来に希望を抱くことができるようになります。
あんなにもすばらしい神さまが、この自分を子どもとして愛してくださっていると知れば、何があっても大丈夫だし、何がなくても大丈夫だからです。
盲目の詩人ファニー・クロスビーが書いた、賛美歌529番「ああうれし我が身も」の3番に、次のような歌詞があります。
胸の波収まり 心いと静けし
我もなく世もなく ただ主のみいませり
これは人間やこの世が消滅するという意味ではありません。原語の歌詞を直訳すると、「完全な明け渡し。すべては安らぎの中。主の恵みに満たされ、主の愛に包まれて」です。
主の恵みと愛にすべてをゆだねると、自分やこの世への執着が取り払われて、心に深い平安がやってくるという真理を歌っているのです。
神の栄光を現そう
神さまのすばらしさを知ったなら、それを周りの人にも伝えていきましょう。他の人と一緒に、父なる神さま、イエスさま、聖霊さまのすばらしさに感動し合うとき、それによってもたらされる平安や希望は増幅します。
他の人は、比較の対象、どちらがよりすばらしいかを巡って争うライバルではありません。神さまのすばらしさを知って喜び、感動し合う仲間です。
私たちの小さな頭で、神さまのすばらしさのすべてを理解することはできません。ですから、聖書を通し、このような集会を通し、また他のクリスチャンとの交わりを通して、少しずつ神さまのすばらしさを学ばせていただきましょう。そして、そのたびに感動し、平安や希望を味わいましょう。