(2026年9月6日)
苦しみの中でも、なぜクリスチャンは喜ぶことができるのでしょうか。ペテロの第一の手紙1章1~9節から、試練を希望へ変える神の約束について学びます。
礼拝メッセージ音声
イントロダクション
苦しみの中にいるとき、私たちは「神さまは本当に私を愛しておられるのだろうか」と疑いたくなることがあります。ところがペテロは、迫害やさまざまな試練に苦しむクリスチャンたちに、「大いに喜んでいます」と語りました。
それは、苦しみが軽かったからではありません。神に選ばれ、守られ、永遠の祝福が約束されていることを知っていたからです。ペテロの第一の手紙の冒頭の箇所から、苦しみのただ中でも失われない喜びの理由を学びます。
1.苦しみを体験している人たちへの励ましの言葉
あいさつ
小アジア各地に散って寄留している人たちへ
(1節)イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、すなわち、
この手紙の送り主は使徒ペテロです。当時の手紙は、多くの場合口述筆記で書かれました。この手紙の書記役を務めたのは、シルワノという弟子だったと考えられています。
(5:12)忠実な兄弟として私が信頼しているシルワノによって、私は簡潔に書き送り、勧めをし、これが神のまことの恵みであることを証ししました。
宛先は、「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち」です。
ここに出てくる5つの地域は、小アジア(今のトルコ)の南部を除く地域です。

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(画像引用:聖書 新改訳2017)
「散って寄留している」という箇所の「散って」という表現は、ギリシア語で「ディアスポラ」、すなわち外国に住むユダヤ人を指します。
しかし、ここではユダヤ人クリスチャンだけでなく、異邦人クリスチャンも含む教会全体を指しています。というのも、異邦人でクリスチャンになった人たちを対象とした表現も、この手紙の中に見られるからです。
ですから、「散って寄留している」という表現は、「この世を本国としない」というニュアンスを表していて、宛先はユダヤ人も異邦人もいる小アジアの諸教会だと考えるのが自然です。
私たちクリスチャンは、この世に住んではいますが、ただ寄留しているだけで所属は神の国です。
なお、この手紙全体のテーマは、苦しみに遭っているクリスチャンたちへの励ましです。
紀元64年7月にローマ市街の3分の2を焼く大火事が発生しました。時のローマ皇帝ネロは、この火事がクリスチャンたちによるテロ事件だと決めつけて、帝国中で激しい弾圧を始めます。ペテロの第一の手紙は、ネロによる迫害開始の頃に、ローマで書かれたと考えられています。
三位一体の神に選ばれた人たちへの祝祷
(2節)父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。
1節で、宛先のクリスチャンたちのことを、ペテロは「選ばれた人たち」と呼んでいます。クリスチャンを選び、救いに導かれたのは神さまです。そして、この救いは、三位一体の神さまのお働きによって私たちにもたらされました。
ペテロは、まず「父なる神の予知のままに」と語ります。聖書の神さまは時間さえも超越しておられます。ですから、将来救われる人のことも、永遠の昔からすでに知っておられます。
そして、ユダヤの文化で「知っている」という言葉は単に情報を持っていると言うだけでなく、体験的な知識や人格的な交流を指しています。ですから、救われる人を父なる神さまがあらかじめ知っておられるというのは、単に情報があるというだけでなく、確実に救われるよう父なる神さまがあらゆる事を計画し、守り、導いてくださるということを表します。
私たちの救いは、私たちの気の迷いでもたらされたのではなく、神さまのご計画に基づいていたものであり、誰も取り除くことができない確実なものだということです。
それからペテロは、「御霊による聖別」を挙げています。ここでの聖別は、何かを神さまのものとして特別に取り分ける働きを指しています。聖霊なる神さまは、罪人を神さまのものとして取り分け、福音を信じる者へと導かれるのです。
その目的は、イエスさまへの従順と、イエスさまの血の注ぎかけを受けることです。私たちは、イエスさまが私たちの身代わりとして罪の罰を受け、十字架で血を流して亡くなったおかげで、自分は何の償いもしていないのに、そのままの姿で赦され、神さまの子どもにしていただきました。
そんなクリスチャンたちに対して、神さまからの恵みと祝福があるようにペテロは祈りました。その祈りは必ず聞かれます。なぜなら、クリスチャンは神さまによって選ばれ、確実に救われているからです。
神がくださった救い
神による新生
(3節)私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。
私たちクリスチャンが救われた根拠は、人間の側の努力ではなく、「神の豊かなあわれみ」のおかげです。そして神さまは、イエス・キリストの死人の中からの復活によって、私たちを「新しく生まれさせて、生ける望み」を持たせてくださいました。
「生ける望み」という表現は、単なる楽観主義ではありません。「きっと人生はうまくいくだろう」という根拠のない願望に基づく希望ではなく、復活したイエスさまに根拠を持つ希望です。
イエスさまが本当に死者の中からよみがえられたのであれば、キリストに属する私たちにも、復活と永遠のいのちが保証されます。
天に蓄えられている資産
(4節)また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。
死んでも復活するという約束を与えられている私たちクリスチャンは、朽ちたり汚れたり消えたりしない永遠に続く資産を受け取ることができます。
今私たちクリスチャンが死ぬと、それまで一つだった肉体と魂が分離します。肉体は朽ち果てますが、魂は天のパラダイス、いわゆる天国に引き上げられます。そこでしばらくの間安らぎに満ちた状態で休息します。
それから、定められたときに私たちは復活し、栄光に満ちた新しい体が与えられます。そして、地上にイエスさまが実現する神の国、千年王国で考えられないような喜びと感動と平安を味わうことができます。
また、その千年が終わると、神さまは私たちを新しく創造された世界、新しい天と新しい地に住まわせてくださり、千年王国よりもさらにすばらしい祝福を味わわせてくださるのです。
この地上には苦しみがあります。この手紙の宛先の諸教会がある地域でも、ローマ帝国による迫害がありました。それ以前からも、教会はたびたび迫害に遭って苦しめられてきました。しかし、クリスチャンには喜びに満ちた未来が待っています。その希望が、苦しみのある今を堂々と生きる原動力になります。
信仰と神の力による守り
(5節)あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。
天に蓄えられている資産が守られるだけでなく、その所有者である私たち自身も守られます。「守られている」と訳されている言葉は、都市に軍隊が駐屯して敵の攻撃で滅ぼされないよう守っている状態を表しています。
イエス・キリストの恵みの福音を信じる信仰によって、私たちは罪の罰から救われました。そればかりでなく、私たちは全知全能の神さま、全宇宙を支配しておられる力強い神さまのお力によって守られています。
その結果、将来与えられると約束されている救い、すなわち千年王国や新天新地に招かれて大いに祝福されるという未来の救いも確実に体験できるのです。
苦しみは、神さまに愛されていない証拠ではありません。苦しみがあるから、死んだ後の祝福が取り除かれたということにもなりません。苦しみがあろうがなかろうが、私たちは神さまに愛されており、永遠に続く祝福、先に行けば行くほど大きくなっていく祝福の宛先に選ばれています。
試練の中の喜び
読者が味わっている喜び
(6節)そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、
ペテロが指摘するまでもなく、小アジアの諸教会の人たちは、自分たちが神さまに選ばれ、守られ、たとえ死んでも祝福され続けることを信じていました。そして、それゆえに苦しみの中でも大いに喜んでいました。
ただし、だからといって現実の苦しみが弱まるわけではありません。苦しみは私たちに心身の痛みを与え、深い悲しみを味わわせます。信仰があるのだから、苦しみの中でも悲しんではいけないなどと聖書は命じません。つらいものはつらいし、悲しいものは悲しいのです。
試練の効果
(7節)試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。
しかし、その苦しみもまた、神さまの祝福の一部です。
ペテロは、私たちを貴金属の金にたとえています。採掘されたばかりの金には不純物が含まれていますが、高温で熱することで不純物が取り除かれて純度が高められ、当然価値も上がっていきます。
私たちの人生に起こる苦しみは、サタン(悪魔)が私たちを意気消沈させ、神さまを恨ませて、その関係を破壊するために用いようとしてもたらしたものでしょう。しかし、神さまはそんな苦しみを用いて、私たちを練り鍛え、信仰をより強いものに育ててくださいます。
ですから、クリスチャンは苦しみのことを「試練」と呼びます。
ペテロ以外の使徒たちも、苦しみが試練であって、私たちの信仰を練り鍛えるということについて次のように述べています。
(ヤコブ1:3)私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。
(ローマ5:3-4)それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
私たちが苦しみを「試練」と呼ぶとき、すでに私たちは苦しみに積極的な価値を見出し、自分の人生が悪い方向ではなく良い方向に進んでいることを告白しています。
見えないキリストへの愛と信頼
(8節)あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
ペテロ自身は地上のイエスさまを実際に見ました。しかしこの手紙の読者の多くは、イエスさまを直接見たことがありませんでした。それでも、 「見たことはないけれども愛している」
「今見てはいないけれども信じている」とペテロは言います。私たちもそうですね。
イエスさまは、使徒トマスに「見ないで信じる人たちは幸いです」(ヨハネ20:29)とおっしゃいました。
キリスト教の信仰は、目に見える神との物理的な接触によって成立するものではありません。神さまが遣わした預言者や使徒たちが証言した内容、すなわち聖書のことばを通して信じるのです。そして、その信仰から「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜び」が生まれます。
この喜びは、今起こっている出来事に左右されるものではありません。迫害を味わっているクリスチャンは、迫害がなくなったから喜んでいるのではなく、キリストを知り、キリストに属し、そのために考えられない祝福を味わっているし、これからも味わい続けることが決まっているから喜んでいるのです。
信仰の結果である救い
(9節)あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。
現在、私たちはキリストを見ていません。 現在、私たちは試練を経験します。 しかし、私たちは信仰によってすでに救われ、すでに神さまの子どもとされ、すでに永遠に続く祝福の途上にあります。
この認識によって、小アジアの諸教会の人たちは苦しみの中でも喜びを忘れないでいられました。そして、ペテロは改めてこのことを書き送ることで、受け取ったクリスチャンたちがますます励まされ、喜びを新たにしようとしています。
そして、今この手紙を読む私たちも慰められ、励まされ、苦しみの中にあっても喜ぶことさえできるようになります。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.私たちは苦しみの中でも喜ぶことができる
そのために、私たちが心がけるべきことは?
苦しみを神に見捨てられた証拠としない
ペテロは6節で、「今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならない」と語っているように、苦しみは私たちに悲しみをもたらします。
聖書は、私たちが地上で味わう悩み苦しみを、決して軽く扱っているわけではありません。考え方を変えれば、苦しみは苦しみでなくなるなどと単純化しているわけでもありません。苦しみの中で涙し、神さまに助けを叫び求めるのは人として当然なのです。
しかし、ここで忘れてはならないことがあります。それは、今自分が悩み苦しんでいることと、神さまが私たちを愛しておられるかどうかを結びつけて考えないということです。
ペテロは、苦しみのまっただ中にある小アジアのクリスチャンたちに向かって、私たちはすでに神さまによって選ばれ、守られているのだと宣言しました。私たちは神さまに愛されており、これからも愛され続けるのです。
ですから、苦しい目にあい、それがなかなか取り除かれないからといって、「自分は神さまにそれほど大切にされていないんじゃないだろうか」「それどころか憎まれているから罰を受けているのではないだろうか」。そんなふうに考えてはいけません。
むしろ、自分が神さまに選ばれ、愛されていることをいつも思い起こしましょう。そして、自分自身に向かって「私はそれでも愛されている」と宣言しましょう。そして、感謝しましょう。
苦しみの先にある祝福を思い描く
地上にはさまざまな悩み苦しみの種があります。しかし、今のこの人生だけが私たちの人生ではありません。天のパラダイス、千年王国、そして新天新地と、先に行くほどグレードアップしていく祝福が私たちを待っています。
素敵な家具や洋服を注文したとき、それが届くまでの間も待ち遠しくて気持ちが高揚しませんか? 家を新しく建てるとして、その引き渡し前にはワクワクしませんか? 聖書時代のクリスチャンたちが、迫害その他の苦しみの中でも、死後の未来を思い描くときに感じた喜びは、それ以上のものです。
これは現に起こっている苦しみを無視して、ファンタジーの世界に逃げ込む現実逃避ではありません。イエス・キリストの恵みの福音を信じた人に、確実に訪れる未来です。
苦しみに遭うとき、この苦しみは永遠に続くものではないこと、自分にはすばらしい未来が待っていることを思い起こしましょう。
苦しみの良い効果を数え上げる
苦しみは試練です。つらいものではありますが、同時に私たちの信仰や人格を練り鍛え、より良いものに造り変えてくれます。
では、具体的にどのように造り変えてくれているでしょうか。
学生時代の増田
私は東京の私立大学に通っていました。仕送りはほぼ学費に消え、ゼミの課題が大変だったためあまりアルバイトも入れられず、カツカツの生活でした。今でこそこんなに福々しい体をしていますが、当時はカロリー不足で体重が59キロしかありませんでした。
ですから祈りました。「神さま、明日の食べ物を備えてください」。毎晩寝る前にそう祈ったものです。すると、不思議なことに、知り合いからお裾分けをもらったり、教会の人に昼食や夕食に誘われたりして、何とか餓死しないで生き延びることができたのです。
クリスチャンになりたての時期に、「イエスさまに頼らなければ生きていけない」という体験をさせていただいたのは、私の信仰生活にとって非常に良いレッスンだったと思います。
ダミアン神父
ハワイでハンセン病の人たちのケアを熱心に行っていたダミアン神父は、やがて自分もハンセン病にかかってしまい、49歳の若さで亡くなります。ところが、ダミアン神父は自分の病気を知ったとき、こう祈ったそうです。
「神さま、感謝します。今まで私が患者さんたちに説教するとき、『あなた方ハンセン病患者は……』と、語りかけていました。しかし、今や『私たち患者は……』と語りかけることができます」。
ダミアン神父は、自分が病気になったことで、病気の人たちに対する共感能力が育ったと感じたのです。
苦しみがもたらす祝福を思い起こそう
もちろん、だからといって「七難八苦を与えたまえ」と祈る必要はありません。苦しみを避けたいのは当然です。
しかし、それでも苦しみにあったときには、この苦しみが自分をどんなふうに変えてくれるか考えてみましょう。今の苦しみで思いつかなければ、過去体験した苦しみについて考えてみましょう。
苦しみの中でも、輝いた顔を上げて生きられる。そんな祝福を味わいたいですね。そして、そんな私たちの姿が、他の苦しんでいる人たちの希望になれたらうれしいですね。