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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

みことばの乳

ペテロの手紙シリーズ4

ペテロの第一の手紙2章1節~10節

(2026年9月27日)

第一ペテロ2章1~10節から「みことばの乳」の意味を解説。聖書によって成長し、生ける石として神に仕え、その恵みを伝える生き方を学びます。

礼拝メッセージ音声

参考資料

6節は、イザヤ28:16からの引用です。

6節の「要石」とは、建物の土台の角に最初に据えられ、そこから二方向に伸びる壁全体の位置と方向を決める基準となる石です。
7節は、詩篇118:22からの引用です。

10節は、ホセア書が背景になっています。
  • 北王国イスラエルの預言者ホセアは、ゴメルという女性を妻とし、3人の子をもうけました。子どもたちの名前は神さまが命名しましたが、それぞれ預言的な意味があります。
  • 長男イズレエルの名は「神が種をまく」という良い意味のほか、かつてエフー将軍がクーデターを起こして虐殺を行った平原の名でもあります。そして、長女ロ・ルハマは「あわれまない」、次男ロ・ルハマは「私の民ではない」という意味です。これらの名が示すとおり、偶像礼拝を行って悔い改めない北王国はさばきによって滅ぼされます。
  • しかし、その後神さまは、イスラエルをアンミ(私の民)、またルハマ(あわれまれる)と呼ばれました。世の終わりにイスラエルは国家的な回心をし、あわれみによって罪を赦され、神さまを信じる民となります。
  • ペテロは、このホセア書の預言を、神の民と呼ばれていなかった異邦人に適用しています。イエス・キリストの恵みの福音を信じた異邦人は、すべての罪を赦されて神さまの子どもとされます。

イントロダクション

ペテロは、1章で私たちが新しく生まれた存在だと語りました。新しく生まれた私たちには、どんな生き方が求められているのでしょうか。そして、どんな祝福が約束されているのでしょうか。

1.新しく生まれた者の生き方

みことばによって成長する

古い生き方を捨てる
(1節)ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、

「ですから」は、1章の内容を指しています。ペテロは前の箇所で次のように読者に語りかけました。

(1:22-23)あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。

新しく生まれた存在として、きよい心で互いに熱く愛し合うために、ペテロは5つのものを捨て去るよう勧めます。悪意・偽り・偽善・ねたみ・悪口です。
  • 「悪意」は他人に良い影響ではなく、悪い影響を与えようとする動機
  • 「偽り」は他人をだまして害を与えること
  • 「偽善」は実際とは違う自分を演じて、他人から良く思われようとすること
  • 「ねたみ」は他人の幸せを喜べない心
  • 「悪口」は他人をおとしめる発言
これらは、熱く愛し合う態度とは真逆の行動です。そして、クリスチャンがこのような行動を取っていると、教会の一致が破壊されてしまいます。そこで、ペテロは新しく生まれたあなたがたはこのような行動から離れるようにと命じているのです。
乳飲み子のように
(2節)生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

私たちの家に長女が生まれて間もなく、長女と一緒に風呂に入りました。体を洗ってやっていると、ちょうどおなかをすかせたのでしょう。フガフガ言いながら体と顔を動かしておっぱいを探し求めます。そして、あろうことか私の胸にかぶりついてきました。

そのような熱心さ、必死さで、純粋な、霊の乳を慕い求めよとペテロは言います。

この「純粋な、霊の乳」とは、前の章からの流れから考えると、特に神さまのみことばによって与えられる、霊的な成長の糧、すなわち神さまからの教えを指していると考えられます。

今の時代の私たちは、神さまからの教えを、もっぱら旧新約聖書を通して知ることができます。赤ちゃんが熱心におっぱいを慕い求めるように、私たちも熱心に、必死に、聖書の言葉を読んでいきたいですね。

すると、私たちは成長し、救いを得られるとペテロは言います。一方、1:9でペテロは「あなたがたが苦しみの中でも喜んでいるのは、魂の救いを得ているからだ」と語っていますが、これは矛盾ではありません。

聖書が教える救いには、3つのステップがあります。過去形の救い、現在進行形の救い、そして未来形の救いです。

イエス・キリストの恵みの福音を信じたとき、私たちは救われました。すなわち、罪が完全に赦され、罪の罰から解放されました。それは過去の出来事です。しかし、神さまが私たちに用意してくださっている救いの祝福を、私たちはまだすべて体験しているわけではありません。

私たちは日々罪の力から解放されつつあります。そして、少しずつ神さまのみこころにかなう生き方ができるように成長していきます。これが現在進行形の救い、きよめと呼ばれるプロセスです。

さらに、将来復活して、罪が赦されているという状態から、罪そのものから解放されて人として完成するときがやってきます。これは未来の出来事です。
主の愛を体験したあなたがた
(3節)あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。

ペテロは、神さまの愛をあなたがたは確かに体験したと語ります。過去形の救い、すなわち罪の罰からの解放を、すでに読者である小アジアのクリスチャンたちは体験しました。

2節でペテロは、「聖書を読まないと救いが取り消されるぞ」と脅しているわけではありません。この手紙の読者も、そして私たちも、福音を信じてすでに救われています。

それは私たちが神さまに愛されているからです。この神さまの愛は今この瞬間も私たちに注がれています。この愛は、決して私たちから取り除かれることはありません。私たちはすでに救われ、日々きよめられ、やがて新しい復活の体が与えられて完成します。

むしろ、神さまの愛を体験し、感謝・感動しているからこそ、私たちは聖書に記されている神さまの教えを喜んで聞こうとするのです。その結果、1節で語られているような悪い態度からも離れることができ、代わりに他の人を熱く愛することができるようになっていきます。

生ける石である主のもとに来る

尊い生ける石である主イエス
(4節)主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。

主イエスさまは、人に捨てられました。多くの人々はイエスさまが救い主だとは信じず、かえって殺意を抱いて十字架にかけて殺してしまいました。

しかし、人が捨てたイエスさまを、父なる神さまは最も重要な存在として選んでおられました。人を罪から救う救い主、地上に神の国を建設して世界を治める王としてです。

十字架で死なれたイエスさまは、生ける石です。イエスさまは3日目に復活し、今も生きておられます。そして、今も私たちを救いの完成へと導いてくださっています。

この捨てられた生ける石というテーマは、6~8節でさらに深められます。

そんな生ける石であるイエスさまのもとに来なさいとペテロは言います。

「来なさい」という言葉は、「近づきなさい」「側に寄りなさい」という意味です。しかも、ギリシア語の文法では、継続的にというニュアンスを持つ表現になっています。

私たちは、一度イエスさまを救い主と信じたことで救われたのですが、それで十分というわけではありません。その後もイエスさまに近づき、交わり続けることが求められているということです。

2節で勧められているように聖書を読み、また祈ったり、こうして集会に参加したりすることもまた、イエスさまとの交わりを継続し、さらに深めるために必要なことです。
生ける石であるクリスチャン
(5節)あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。

イエスさまが生ける石であるだけでなく、クリスチャンもまた生ける石です。

「霊の家に築き上げられなさい」という表現によって、イスラエルの神殿のイメージが教会に当てはめられています。ただし、教会の建物が神殿にたとえられているのではなく、「あなたがた」すなわちクリスチャンの共同体です。

さらにクリスチャンは、「聖なる祭司」にもたとえられています。つまり教会は、 神殿であると同時に、そこで仕える祭司でもあるということです。

そして、教会の存在目的は、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげることです。ささげられるいけにえは、旧約時代の動物犠牲ではありません。祈り、賛美、慈善活動、教会の中や外での奉仕、その他良い行いなど、私たちの生活全体です。

パウロも、ローマ人への手紙の中で次のように語っています。

(ローマ12:1)ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

いわば、私たちの存在そのもの、そして一挙手一投足が神さまのために用いられるべきものだということです。私たちはそれを意識しながら、日々の生活を送らなければなりませんね。
イエスに信頼する者は失望させられない
(6節)聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」

私たちが、全存在・全生活・全行動を神さまにささげ、神さまのために用いるのは、そうしないと滅ぼすぞと脅されたからではありません。救い主イエスさまに信頼する者は決して失望させられない、それどころか将来に対する確かな希望をいただいたからです。

そのことを、ペテロはイザヤ28:16を引用することで語っています。

そして、この希望は、単にこの世で成功するとか、健康になるとか、お金が儲かるとかいうものではなく、終末論的なものです。

この手紙の読者は、ネロ帝の迫害によって物理的な苦しみを味わっていました。まさに捨てられた石のような状態だったのです。

しかし、イエスさまはクリスチャンを放っておかれません。仮にイエスさまと同じように命を取られることがあったとしても、必ず復活して千年王国という理想的な世界に導いていただけます。

そんな希望と、それに伴う喜びによって、私たちに神さまにすべてをささげてお仕えしたいという動機を与えています。
信じていない人にとってのキリスト
(7-8節)したがってこの石は、信じているあなたがたには尊いものですが、信じていない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」のであり、それは「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。

イエスさまは、私たちクリスチャンにとっては尊いお方であり、喜びや希望、そして正しい行動の源でいらっしゃいます。

しかし、イエスさまを信じようとしない人にとって、イエスさまは価値のない不要な存在です。それどころか、救いに至る道に置かれて通行を邪魔する妨げの石にすらなります。

コリント人へのシリーズでも何度も触れましたが、哲学的な知恵を求めたギリシア人にとって、人となって肉体をまとった神、そして死んで復活したお方であるキリストなどという教えは、愚かにも程があるものでした。

また、力を求めたローマ人にとって、十字架で殺された方を主として信じるなどバカバカしいことです。

そして、多くの日本人にとって、神はわずかな賽銭で御利益をくれる便利な自動販売機と同じです。唯一まことの神であり、仕える責任を求める主であるキリストは、邪魔な存在でしかありません。

にもかかわらず、私たちはこうしてイエスさまを救い主として信じました。これは奇跡です。ペテロがここで語っているように、救われない人はそのように神さまによって定められていますが、逆に救われる人もそのように定められているのです。

といっても、私たち人間には、誰が救いに定められているかそうでないか分かりません。人間の目には、とてもじゃないが救われそうにないと思える人でも、ある日あるとき信じて救いを受け取る場合があります。たとえば、パウロがそうですね。

ですから、私たちは勝手にあきらめたりしないで、福音を語り続け、イエスさまを紹介し続けていかなければなりません。

新しい身分を自覚して生きる

4つの新しい呼び名とその目的
(9節)しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

誰が滅びに定められているかは分かりません。しかし、イエス・キリストの福音を信じた人は、救いの完成が待っているということははっきりしています。

私たちクリスチャンは、ここで4つの称号で呼ばれています。これらは、元々イスラエルに与えられた呼び名です。

しかし、その目的は偉ぶって得意になり、教会の外の人たちを見下すためではありません。私たちを闇の中から光の中へと召し出してくださった、すなわち救いをもたらしてくださったお方、父・子・聖霊なる三位一体の神さまのすばらしさを他の人に伝えるためです。

イスラエルが選ばれたのが、異邦人にまことの神さまとその救いを伝えるためであったのと同じです。
あわれみによる身分の変化
(10節)あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。

この手紙の宛先である小アジアの教会には、多くの異邦人信者がいました。彼らは元々は神の民ではありませんでした。しかし、救われたことによって、9節で語られているとおりユダヤ人と同じように神の民と呼ばれるようになりました。

その立場、身分の変化は、神さまからのあわれみ、すなわち恵みによります。

私たちが救われて神の民に加えられたのは、私たちの努力や才能によるものではありません。神さまの方から「この者を救って永遠に祝福したい」と願ってくださり、救われるメンバーとして選んでくださり、罪を一方的に赦して神さまの子どもにしてくださいました。

それゆえに、私たちは神さまの恵み深さに感動し、それを他の人たちに伝えるのです。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。それは、私たちクリスチャンが何者なのかということです。すなわち、どんな行動が期待されている存在なのかということです。

2.自分が何者かを意識しながら生活しよう

神の言葉によって成長する

赤ちゃんが必死に乳を求めるように、みことばの乳を慕い求めようと聖書は勧めます。聖書を読むことによって、私たちは神さまの教え、ご計画、戒め、警告、約束を知ることができます。それらを受け取ることで、私たちは慰められ、励まされ、間違いを正され、力を受けます。
食べないと力が出ないように
この話をお読みください。
あるところに、とても働き者で腕のいい家具職人がいました。朝早く家を出て、工房で夜遅くまで働きます。彼の腕を見込んで、仕事は次から次へとやってきます。ある時、「食事をしている時間がもったいない」と思った職人は、その日から食事を抜くようになりました。

一日くらいなら平気です。二日目も何とか仕事ができました。ところが、三日目になると、だんだん力が出なくなってきました。頭もぼんやりして、簡単なことで間違えるようになります。

職人は不思議に思いました。「こんなにがんばっているのに、どうして力が出ないのだろう?」

私たちの心も、これとよく似ています。仕事、家事、人間関係、将来への心配。毎日の生活には、力を必要とすることがたくさんあります。それなのに、「忙しいから」と言って、心に必要なものを受け取る時間を後回しにしてしまうことがないでしょうか?

イエス・キリストは、旧約聖書のことばを引用して、こうおっしゃいました。

(マタイ4:4)『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。

忙しいからこそ食事が必要なように、忙しいからこそ、静かに聖書の言葉を読み、祈りながら神さまからの語りかけを聞く時間が必要なのかもしれません。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
毎日聖書の言葉に触れ続けましょう。

しかも、好き嫌いがあると栄養が偏って、健康を損ねてしまう恐れがあります。聖書も好きなところをつまみ食いするのではなく、最初から順番に連続して読んでいく通読をおすすめします。

全存在・全生活・全行動を用いて神に仕える

当時の建築では、角の要石がおかれると、それを基準として他の石が積み上げられて家になっていきます。私たちクリスチャンも、イエスさまを信じ、イエスさまとの交わりを深めていくと、教会を構成する生ける石として建て上げられていきます。

生ける石となった私たちは、祭司としても働くことになります。祭司として私たちがささげるものは、私たちの存在そのもの、そして私たちの一挙手一投足です。

私たちは皆、幸せを求めています。しかし、自分の利益ばかり考えていては、私たちは本当の幸せを見出すことができません。私たちは、神さまが望まれる生き方をするとき、本当の幸せを味わえるように作られているからです。

みことばの乳によって養われ、成長し続けている私たちは、みことばが教える神さまのみこころに従って行動しましょう。
固い食べ物
ペテロは「乳」という言葉を、神さまの教え全体を表すたとえに用いました。一方、パウロは固い食べ物と対比するもの、すなわち初歩の教えのたとえとして用いました。

(第1コリント3:2)私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

ここで乳にたとえられているのは、読みやすい初歩の教え、たとえば神さまの愛とか祝福とかいったことが強調されている箇所です。一方、固い食べ物は受け取りにくい教えです。実行するのに犠牲が伴うような教えですね。

たとえば、意地悪ばかりする憎たらしい人がいるとき、その人を一方的に赦し、祝福を祈れなどという教えは、非常に受け入れがたいですね。

他にも、こんなことをすれば偽善者だと思われて批判されないだろうかとか、恥ずかしいとか、時間が掛かって面倒だとか、そういった犠牲が伴う教えは固い食べ物です。そういったことが書かれている聖書の箇所も積極的に読みましょう。そしてしんどいけれども実行しましょう。

もちろん、乳のような教えは基本であり、大切です。神さまの愛や恵みを忘れて、義務ばかり強調してしまうとつらくなってしまいます。私たちは、神さまに一方的に愛され、祝福されていることを知っているからこそ、喜んで固い食べ物にも手を出せるのです。

あなたが今日示されている固い食べ物は何ですか? 具体的に何をするよう、イエスさまは願っていらっしゃると思いますか?

神のすばらしさを他の人たちに伝える

特に私たちに求められている行動は、神さまのすばらしさを他の人に伝えることです。

といっても、難しい神学の話をすることが求められているわけではありません。また、他の人を無理に感動させようとする必要もありません。

自分に対して三位一体の神さまがどんなすばらしいことをしてくださったか、自分が毎日を生活している中で、神さまのどんなすばらしさに触れて感動したか、それをそのまま証言すればよいのです。

心の目を開いてみると、生活のあちこちに神さまの祝福、感動の種が満ちあふれています。
うれしいことだけの日記帳
この話をお読みください。
私の友人が、そのまた友人から勧められて日記を付けることにしました。でも、その日記というのが、嬉しいことだけ、よかったことだけを書く日記帳なんです。

最初は、「これはおもしろそうだ」というだけで始めた日記ですが、しかし、毎日毎日書いているうちに、今まで気がつかなかったようなことにも喜べるようになったといいます。

今まで何気なく歩いていた道に、きれいな花が咲いていた。見知らぬおばあさんが、にこにこしながら歩いていた。リンゴの皮がきれいにむけた……身の回りに、祝福が満ちあふれていたんだということに気がつきました。そして、最近では、日記に書くための喜びの種を探して歩くようになったそうです。

実はこの友人は、色々と生活の中で悩みや痛みがあります。その状況が変ったわけではありません。しかし、心に余裕と喜びが生まれてきたと言いました。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
今週も、たくさん神さまの祝福探しをしましょう。そして、それを他の人に伝えるチャンスが与えられるよう祈りましょう。

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福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

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