(2026年10月4日)
第一ペテロ2章11~17節から「寄留者としての生き方」を解説。天に国籍を持つクリスチャンが、この社会で誠実に生きるための原則を学びます。
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イントロダクション
10節でペテロは、私たちが以前は神の民ではなかったのに神の民とされたと言いました。11節以降は、神の民としての具体的な生き方について語り始めます。その具体例は、当時の社会を背景としていますが、今の私たちにも通じるものです。
私たちがこの社会を生きていく上での、行動の原則を教えていただきましょう。
1.社会における行動原則
旅人・寄留者としての立場
肉欲を避けよ
(11節前半)愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、
ペテロは、読者である私たちのことを愛する者と呼び、さらに旅人・寄留者と呼んでいます。私たちはこの地上に住み、日本という国の中で暮らしています。しかし、聖書は言います。
(ピリピ3:20)しかし、私たちの国籍は天にあります。
私が外国を旅行しているとします。当然、その国の法令やマナーを尊重した行動をしなければなりませんが、同時に日本人としての立ち居振る舞いは忘れないようにするでしょう。
先日、英国バッキンガム宮殿の門を守る近衛隊の動画を見ました。観光客たちが馬に乗った近衛兵と記念写真を撮ることができるのですが、馬に近づきすぎないようラインが引いてあります。
外国から来た観光客によっては、その線を平気でまたいで馬に近づいたり、馬に触ろうとしたり、大きな声を出して馬を驚かせたりしてしまう人たちもいます。そうすると、近衛兵は毅然と注意しますし、馬もそんな無礼者に噛みついたり頭突きを食らわせたりして追い払ってしまいます。
ところが、多くの日本人観光客は、近衛兵と馬にお辞儀をして近づき、おとなしく写真撮影したあと、再びお辞儀をして離れていきます。イギリスにいても日本人っぽい行動をするのですね。
そのように、私たちはこの地上、この日本に生きていながら、天国人として振る舞おうと聖書は言います。
肉の欲を避けよ
(11節後半)たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
天国人としての生き方として、特にペテロは「たましいに戦いを挑む肉の欲」を避けるよう勧めます。
「肉」とは、ここでは神さまに逆らう人間の罪深い性質を指しています。ねたみ、復讐心、名誉欲、貪欲、不健全な性的欲望、傲慢などです。
「戦いを挑む」は、文字通り戦争を仕掛けるという意味です。罪の誘惑は、霊的な戦争なのです。甘く考えるべきではないし、必死に対応しなければなりません。
この世に生きていると、私たちは「みんなやってるんだから、これくらいやっても平気だよ」という誘惑に、常にさらされます。しかし、私たちは神さまが自分に何を求めておられるか、神の言葉である聖書が自分に何を命じているか、それを基準に行動していきましょう。
立派に振る舞え
(12節)異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。
聖書が禁じている罪を犯さないというだけでは不十分です。積極的に、正しいことを行うようペテロは勧めます。
「彼らがあなたがたを悪人呼ばわれしていても」と書かれていましたが、実際に当時のクリスチャンたちは、ローマ帝国の人たちから誤解され、非難されていました。
- クリスチャンはギリシア・ローマ神話の神々の存在を否定していましたし、目に見える神殿や偶像を持ちませんでした。そのため、無神論者だと思われていました。
- 聖餐式も、人の肉を食べ血をすするおぞましい儀式だと誤解されてもいました。
- 互いを兄弟姉妹と呼び、あいさつとして聖なる口づけを交わし、主に夜に秘密の集まりを持ったため、近親相姦を行っていると批判されたりもしました。
そんな誤解と、それに基づく非難に対して、ペテロは言葉ではなく行動で正しさを示すよう命じました。そうすることで、この世の人々からの批判を封じることができます。
さらに、「キリストを信じる生き方は、なんと素晴らしいことか」と感じた人々が、自分たちも福音を信じて救われたいと願うようになるかもしれません。
そうして福音を信じるようになれば、その人たちはこの世の終わりのさばきの日が来ても、滅びに定められて嘆く代わりに、救ってくださった神さまをほめたたえるようになるでしょう。
社会制度への態度
すべての社会制度に従え
(13節前半)人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。
ここから、社会生活に関する具体的な適用が始まります。
まずペテロは、社会的な制度のすべてに従うよう命じます。当時のローマ帝国は、皇帝を頂点とし、各地を王たちや総督たちが治める身分社会でした。皇帝・王・総督たちの政治的な権威に、手紙の読者たちが従順に従うようペテロは求めています。
パウロも同様のことを命じています。
(ローマ13:1)人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。
一方、この日本は国民主権の国ですが、さまざまな法律があり、またそれぞれが属しているグループにもルールやマナーがあります。ペテロが今の日本に住んでいたとしたら、それらのルールやマナーを守るよう私たちに命じるでしょう。
重要なのは、政治的な権威、あるいはルールやマナーを守る理由です。そのグループの一員だからでもないし、リーダーが立派だからでもありません。「主のゆえに」
です。
社会的権威に従うようここで命じているペテロは、公然と権威に逆らうことをしたことがあります。教会が誕生したばかりの頃、ユダヤの指導者たちがペテロたち使徒を捕らえて、キリストの名によって教えてはならないと厳しく命じました。
ところがペテロたちは平然と答えました。
(使徒5:29)人に従うより、神に従うべきです。
権威者の命令、あるいはグループのルールやマナーが、明らかに神さまのみこころに反しているなら、私たちは神さまのみこころの方を優先させます。しかし、そうでない限りは、この世のルールに積極的に従うのです。
王や総督への従順
(13節後半-14節)それが主権者である王であっても、あるいは、悪を行う者を罰して善を行う者をほめるために、王から遣わされた総督であっても、従いなさい。
ペテロは、国家権力は悪を抑制して善を伸ばすために存在すると語ります。実際の政府がこの機能を果たしている限り、国家権力はクリスチャンの敵ではありません。むしろ、積極的に従うべきものです。
私たちは国に無条件に従うわけではないし、逆に国を敵と見なして自分たちだけの国を作ろうとするわけでもありません。
社会制度に従う理由
(15節)善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることは、神のみこころだからです。
ペテロは、私たちクリスチャンが正しい生活を送ることが、批判に対する最大の反論だと語ります。もちろん、ことばで説明してはいけないわけではありませんし、機会があればそうすべきです。
(3:15)あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。
ただ、信仰についてどれほど正しい説明ができても、実際の生活がそれと逆であれば説得力は失われます。
たとえば、クリスチャンは平和を求めていると言いながら、自分と意見を異にする人たちのことを批判・非難ばかりしていたり、物理的な攻撃を加えたりしていれば信用されないでしょう。
逆に、 クリスチャンは反社会的だと非難されても、 誠実に働き、社会的責任を果たし、隣人に親切にし、法律を尊重しているなら、その非難そのものが説得力を失います。
イエスさまも、自分を批判する者たちに対して、次のように主張なさいました。
(ヨハネ8:46)あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか。
このような、正しい生き方を示すような反論の仕方こそ、神さまが望まれるやり方であるとペテロは言います。
与えられた自由の使い方
神のしもべとして
(16節)自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。
ここでペテロは3つのことを言います。
まず私たちは自由な者だということです。イエスさまが十字架にかけられ、私たちの罪の問題を解決してくださったことにより、モーセの律法はその役割を終えました。私たちは、モーセの律法が命じているさまざまな規定を守る責任から解放されています。
律法の束縛から解放されて自由となった私たちは、たとえ罪を犯したとしても、それでさばきを受け、永遠に続く苦しみという罰を受けることはなくなりました。
ただし、第二に、その自由を悪の言い訳にするなとペテロは言います。自由だからといって、自分の好き勝手に生きていいわけではありません。どんな罪も赦されるからといって、神さまが悲しまれる行い、すなわち罪を犯していいわけではありません。
私たちが赦されるために、イエスさまがどんな犠牲を払ってくださったかを考えてみましょう。イエスさまは、私たちの身代わりとして罪の罰を受け、十字架にかけられていのちを投げ出されました。
それは単なる肉体的な苦しみにとどまらず、永遠の昔から共におられた父なる神さまから罪人として呪われ、切り捨てられるという激しい霊的な痛みを伴う犠牲でした。私たちが赦されるためには、それほどまでの犠牲が必要だったのです。
ですから、私たちは神さまが嫌われる罪を避けなければなりません。むしろ、第三に、神さまのしもべとして、積極的に神さまに従う生き方をせよとペテロは命じます。私たちに与えられている自由を、神さまに従う生き方を選ぶために使おうということです。
まとめ
(17節)すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。
ペテロは、4つの命令でこの段落を締めくくります。
この世の寄留者、神の国から来た旅人である私たちは、この地上でどのような生き方をすればいいでしょうか。これについては、後半詳しく見ていきましょう。
2.4つの生き方
(1) すべての人を敬え
すべての人間は神さまのかたちに造られた者であり、イエスさまが命がけで救おうとなさったほどに尊い存在です。ですから、どんな人も敬意を持って接する必要があります。
もちろん、その思想や言動すべてに賛成せよと言っているわけではありません。ただ、たとえ相手の思想や行動を批判するとしても、人格を否定するような攻撃のしかたをすべきではありません。
暴力を振るわないことはもちろん、誰かのことを侮辱したり、悪魔呼ばわりしたり、写真を焼くなどの政治パフォーマンスをしたりするのも避けるべきでしょう。
むしろ、相手の人としての尊厳を守るために、私たちはこの口を用い、この手足を用いていかなければなりません。具体的にどう行動どうすればいいか、考えながら生活しましょう。
一人で起きてもいいんだよ
この話をお読みください。
Aくんは、小学校入学を控えていました。Aくんは朝なかなか起きることができず、いつもお母さんに起こしてもらっていました。もう小学生になるのだから、自分で起きられるようになってほしいと考えたお父さんは、入学祝いに目覚まし時計をプレゼントすることにしました。
入学式の前の日、お父さんはAくんに目覚まし時計を渡して言いました。「これからは、もうお母さんに起こしてもらうようじゃダメだぞ。小学生になるんだから、自分で起きられるようにならなきゃ」……ではありません。
実際にはこう言ったのでした。「これまでは幼稚園だったからお母さんに起こしてもらわなきゃならなかったけれど、明日からは自分で起きてもいいんだよ」。
Aくんは、翌朝から目覚まし時計を使って自分一人で起きられるようになりました。そればかりか、勉強や運動にも一生懸命取り組む小学生になったのでした。
聖書は言います。
(エペソ4:29)悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。
どんな言い方をすれば、相手が勇気づけられ、自信ややる気や根気を引き出され、人として成長できるか……それを考えながら言葉を発したいものですね。
(2) 兄弟たちを愛せ
すべての人は尊重されなければなりませんが、特に教会のクリスチャン同士は愛し合うことが求められています。
教会の内で深く愛し合い、支え合うことによって、その愛情は外にこぼれ出て行きます。
できたばかりのエルサレム教会では、貧しいメンバーの生活を支えるために積極的にささげものをしていました。それを見た、教会の外の人たちは驚き、自分たちもこのような生活がしたいと願って仲間に加わるようになっていきました。
家族もそうですが、近い存在の相手に対してはついつい甘えが出てしまいがちです。そのため、態度がぞんざいになってしまうこともあります。近い相手ほど、私たちは意識して敬意を払い、愛情を持って接するべきです。
(3) 神を恐れよ
神さまを恐れるとは、罰を怖がってビクビクしながら生活することではありません。この恐れは畏怖の念、畏敬の念です。神さまの圧倒的な力や知恵、そして愛の深さに触れて、恐ろしいと思うほどに感動することです。
その正しい恐れが、神さまに従いたい。神さまを悲しませる言動をやめて、むしろ神さまが喜ばれる言動を選びたいという動機を生み出します。
神さまがいかにすばらしいお方なのか、聖書を通し、祈りを通し、教会の交わりを通し、さまざまな書籍やネット記事を通していつも触れ続け、感動し続けましょう。
礼拝のメッセージを聞く際も、自分がどうすべきかという義務だけでなく、父なる神さま・イエスさま・聖霊さまのどんなすばらしさを知ることができたか振り返りましょう。
(4) 王に従え
今回の箇所でペテロが繰り返しているのは、地上の権威には従おうということです。もちろん、国や所属しているグループ、そして教会を神さまの地位にまで引き上げてはなりません。しかし、神さまのみこころに反しない限り、積極的に従うことが求められています。
私たちの国籍は天にありますが、地上でも最高の社会人でありたいと思います。
ディオグネトスへの手紙
この話をお読みください。
2世紀末か3世紀初めに書かれたと見られる手紙が発見されました。「ディオグネトスへの手紙」と呼ばれるこの手紙は、ローマ帝国の中でクリスチャンへの迫害や誤解が広まっている現状に対して、クリスチャンの立場からその信仰と実践を紹介するために書かれたものです。
そして、この手紙の中に、クリスチャンの社会生活について次のような文章が載せられています。
キリスト者は、国籍、言語、習慣などが、他の人と違うわけではない。自分たちだけの町に住むわけではないし、奇妙な言語を用いるわけでもないし、特殊な生活様式を持つわけでもない。(中略)
彼らは、機会があればギリシアや外国の諸都市に住んだ。衣服、食べ物、その他の生活面でその土地の習慣に従った。しかし、同時に彼らは、彼らの素晴らしい、また独特の国籍をも我々に示している。
自分の生まれた国に住む場合でも、異国人のように生活した。国民としてすべてのことを他人と分かち合ったが、異国人としてすべてを忍んだ。外国も彼らにとっては生まれ故郷であり、生まれ故郷はまた外国だった。
他の人々と同様に結婚し、子どもを産んだが、いらない子を殺すようなことはしなかった。食卓は他人と共にしたが、寝床までも共にしようとはしなかった。この世では「肉に」あったが、「肉に従って」生きようとはしなかった。この世では旅人であり、国籍は天にあった。法律には従ったが、それぞれの生活は法律を超越したものだった。
内村鑑三は、「私は二つのJを愛する」と言いました。それはJesus(イエス)とJapan(日本)です。クリスチャンは二重国籍を持っています。よき天国市民であると同時に、よき日本国民でありたいものです。