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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

義のための苦しみ

ペテロの手紙シリーズ8

ペテロの第一の手紙3章8節~17節

(2026年10月25日)

正しいことをしているのに、なぜ苦しむのでしょうか。第一ペテロ3章8~17節から、悪意に祝福で応え、苦しみの中でも希望を失わずに生きる秘訣を学びます。

礼拝メッセージ音声

イントロダクション

正しいことをしたはずなのに、批判されたり、嫌がらせを受けたりした経験はありませんか。そんなとき、私たちは腹を立て、相手に仕返ししたくなるかもしれません。また、「どうして神さまは助けてくださらないのか」と疑問を抱くこともあるでしょう。

理不尽な扱いを受けたとき、私たちはどう行動すればよいのでしょうか。苦しみの中でも希望を持ち続ける秘訣を、この箇所から教えていただきましょう。

1.悪意を向けられたときの対処法

教会のあり方

5つの勧め
(8節)最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。

ペテロは、迫害の中にある教会に対して、5つのことを勧めています。

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1つ目は、一つ思いになること。といっても、みんなが同じ考え、同じ感じ方、同じ価値観、同じ好みを持てということではありません。教会は、様々な人たちから構成されています。みんな違っていいし、違いを尊重し合わなければなりません。

しかし、父・子・聖霊なる神さまを愛し、神さまのみこころに従って生きていかねばならないという点においては一致していけるし、そうしなければならないということです。

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2つ目は、同情し合うこと。互いに他の人の思いを感じ取り、共有することです。

(ローマ12:15)喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。

人は、自分の気持ちを分かってもらえるだけで勇気づけられ、苦しみに耐えて前向きに生きていく力を得られます。

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3つ目は、兄弟愛を示すこと。ただ同情するだけでなく、より積極的に愛し合い、助け合い、支え合っていくとき、教会の交わりは一人ひとりのクリスチャンにとって大きな支えとなります。

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4つ目は、心の優しい人となること。誰かがさまざまな問題にぶつかって心が萎えてしまいそうになっているとき、その人の弱さややり方の未熟さを責めてしまっては、かえって相手から力を奪い取ってしまいます。

責めるのではなく、そっと優しく寄り添い、支える姿勢を示そうということです。

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5つ目は、謙遜になること。自分の考え方、感じ方、やり方、価値観、好みが絶対に正しくて、他の人が間違っているという高ぶった生き方をしないということです。

自分が一番だと思っている人は、他の人との違いや他の人の弱さを受け入れられず、攻撃的になったり馬鹿にするような態度を取ってしまったりするでしょう。それは教会を一致させず、かえってバラバラにしてしまいます。

逆に、前回も申し上げましたが、ことさらに自分はダメだと卑下するのも間違いです。

自分を過大評価も過小評価もせず、他の人の価値を尊重するとき、教会は居心地のいい交わりになっていきます。

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こうして教会が一つになるとき、外からやってくる迫害に対して、耐える力が一人ひとりに湧き上がってくるのです。

(伝道者4:12)一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。

正しい生き方

悪に対して祝福を返せ
(9節)悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。

ペテロは、悪に対して悪を返したり、侮辱に対して侮辱を返したりしてはならないと教えています。

もちろん、これは不正行為を黙認しろということではありません。クリスチャンは地の塩・世の光ですから、この世の悪を正し、神さまのみこころにかなう生き方を他の人に求めるのは正しいことです。

ただ、感情的になり、相手に復讐するために正義を語り、攻撃してはなりません。それどころか、相手を愛し、積極的に祝福しなさいとペテロは言います。

イエスさまもこうおっしゃっています。

(ルカ6:27-28)しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。

しかも、イエスさまはご自分でそれを実践なさいました。イエスさまは、ご自分を侮辱し、殺そうとする人たちに対して、天から火を下したり天使の軍勢を呼び寄せたりして滅ぼすことがおできになりました。

しかし、それをせず、かえって私たちの罪が赦されるように、身代わりとして十字架に付けられ、尊い命をささげてくださいました。私たちは、そんなイエスさまを信じ、神さまの子どもとされ、神の国の祝福を受け継ぐことになったのです。

だからこそ、私たちもまた、自分が受け取り、これから先も受け取り続ける神さまからの祝福を、他の人にもお裾分けしていきます。その対象は、自分に良くしてくれる人たちだけでなく、自分を攻撃したりバカにしたりする人も含みます。
詩篇の引用1
(10節)「いのちを愛し、幸せな日々を見ようと願う者は、舌に悪口を言わせず、唇に欺きを語らせるな。

10節から12節は、詩篇34:12-16からの引用です。

詩篇34篇の前書きには、「ダビデによる。ダビデがアビメレクの前で、頭がおかしくなったかのようにふるまい、彼に追われて去ったときに」とあります。第1サムエル21:10-15に書かれている出来事が背景です。
この詩篇34篇は、危険な状況から助け出してくださった神さまへの賛美の詩です。その中でダビデは、神さまを信じる者がどのように生きるべきかを教えています。そして、ペテロはその教えを、迫害の中にあるクリスチャンに適用しています。

この10節で取り上げられている生き方は、悪口や欺きを語らないということです。悪意のある言葉を投げかけられると、同じように悪意を込めて言い返したくなるかもしれません。しかし、聖書は、そのようなやり返しを避けるよう命じています。
詩篇の引用2
(11節)悪を離れて善を行い、平和を求め、それを追え。

ここでは、悪を避け、「平和になったらいいのに」と願うだけの消極的な態度にとどまらず、善を行い平和を実現するために自ら行動するという積極的な態度が求められています。

平和を追い求めると言っても、対立を恐れて何も主張しないのは消極的なやり方です。相手の主張が通ればこちらの負け、こちらの主張が通ればこちらの勝ちというふうに、物事を勝ち負けで判断してはなりません。

たとえ最終的に相手かこちらが主張したとおりになったとしても、どちらも負けない、すなわちよく話し合って、それぞれ納得して最終的な結論を受け入れられるといいですね。
詩篇の引用3
(12節)主の目は正しい人たちの上にあり、主の耳は彼らの叫びに傾けられる。しかし主の顔は、悪をなす者どもに敵対する。」

この節では、善を行う正しい人と悪を行う人に対する神さまの態度が対比されています。

ここでいう正しい人は、罪のない完全な人のことではありません。人間はみんな罪があり、不完全です。ここでは、そんな罪人を赦してくださる恵みに満ちた神さまを信頼し、神さまのみこころに従って生きようとしている人のことを指しています。

正しい人に対しては、神さまの目が注がれ、その祈りに耳が傾けられます。一方、悪を行う者に対しては、神さまは敵対なさいます。

ですから、私たちは自分に悪意を向けてくる人を、自分自身で復讐する必要がありません。愛と正義の神さまが最も良いようにしてくださいます。

むしろ、私たちは神さまがこの自分の痛み、苦しみをご存じであり、祈りに耳を傾けてくださっていることを意識して、慰めと希望をいただきましょう。そして、誠実に神さまのみこころを実践していきましょう。
正義に熱心なら害を受けない
(13節)もしあなたがたが良いことに対して熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。

ここでペテロは、善を行っていれば、通常は害を受けることはないという原則を示しています。クリスチャンは正しいことを積極的に行うことによって、周囲から信頼を得ることができ、結果として肯定的な扱いを受けることができます。

ただし、善を行っていれば絶対に迫害されたり馬鹿にされたりしないかというと、そんなことはありません。次の14節では、例外的に攻撃された場合の態度について語ります。
たとえ迫害されても幸いである
(14節)たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。

「義のために苦しむ」とは、神さまのみこころに従って、正しいことを行った結果として苦しみを受けることです。自分の不注意や罪によって生じた苦しみとは区別されます。

義のために苦しむ人は幸いであるとペテロは言いますが、イエスさまも同じことを山上の説教でおっしゃいました(マタイ5:10)。

イエスさまもペテロも、苦しみそのものが良いものだと教えているわけではありません。神さまに従った結果受ける苦しみは、神さまに見捨てられていることを意味しないということ、それどころか神さまに認められ、受け入れられ、祝福されていることを意味しています。

全知全能の神さまが共にいて祝福してくださるのですから、たとえ義のために苦しむとしても、恐れたり怯えたりする必要がありません。
キリストを聖なる方と認めよ
(15節前半)むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。

迫害を恐れる代わりに、キリストを主とし、聖なる方とせよとペテロは命じています。「聖なる方」というのは、他とは違う特別なお方という意味です。

私たちがイエスさまを単なる偉大な教師ではなく、この宇宙を創造し支配しておられる全知全能の神であると認め、その偉大さに圧倒されればされるほど、私たちは迫害を耐え忍ぶことができるようになります。

そして、義のために苦しみを受ける生き方、すなわちたとえ迫害されるとしても、イエスさまが望まれる生き方をしようという意欲が生まれます。

伝道の姿勢

弁明できる用意
(15節後半)あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。

「あなたがたのうちにある希望」とは、イエスさまの十字架と復活を信じたことによって、自分の罪が完全に赦されているということ、そして神さまの子どもとされ、今の世でも死んで復活した後も永遠に祝福され続けるという希望のことです。

私たち自身がイエスさまのくださった希望を抱き、苦しみの中でもその希望を失わず、むしろ喜び感謝しながら、正しい生き方を続けるとき、人々はその秘訣を知りたくなるでしょう。そんな人たちに対して、希望の内容を説明せよとペテロは言います。

私たち自身がイエスさまのことを主と仰ぎ、信頼するだけでは不十分です。私たちには、イエスさまがくださる希望を他の人にも伝える使命が与えられています。

ここで、「用意していなさい」と語られていることに注目しましょう。この点については、後半の解説で少し詳しく触れることにします。
良い生き方を伴う弁明
(16節)ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。

この節では、イエスさまがくださる希望について他の人に説明するときの態度について語られています。

まず柔和な心で。「神を信じないお前たちは愚か者である。賢い私が真実を教えてやろう」というような傲慢な態度、攻撃的な態度、責めるような態度で話しては、相手は心を閉ざしてしまいます。

そして、恐れつつ。これは相手の反応を気にして恐れるのではなく、神さまを恐れるということです。といっても、私たちの罪はイエスさまのおかげですべて許されています。私たちが罪のさばきを受けて永遠の滅びという罰を受けることは決してありません。

この神さまへの恐れは、畏怖の念、畏敬の念です。神さまのすばらしさを知って、恐ろしいと感じるほどに圧倒され、感動することです。

3つ目が、健全な良心をもって。良心とは、自分の行動について道徳的に判断する内面的な意識のことです。神さまへの正しい恐れは、神さまのみこころに忠実に従い、神さまが願われる行いをしようという意欲を生み出します。

すなわち、この節では、15節で語られている言葉による希望の説明に加えて、それを裏付けるような行動をすることを求めているということです。そうするならば、迫害者たちは、クリスチャンを非難する根拠を失います。

むしろ、自分たち自身のそれまでの生き方を恥じて、イエスさまを信じようという人たちも出てくるかもしれません。
結論
(17節)神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。

ペテロは、苦しみを受ける場合、その原因が悪い行いにあるのか、それとも善い行いにあるのかが重要だと教えています。

悪い行いによって苦しみを受けるなら、それは自業自得というものです。しかし、善を行った結果として苦しみを受けるなら、その苦しみは積極的な意味を持ちます。

ここで注目したいのは、「神のみこころなら」という言葉です。これは、神さまがすべての苦しみを直接引き起こしているという意味ではありません。神さまは、そのご計画の中で、私たちクリスチャンが苦しみを経験することを許される場合があります。

私たちは、自ら進んで苦しみを求める必要はありません。しかし、神さまに従うことによって苦しみが引き起こされる場合には、神さまが望まれる正しい生き方をしていきましょう。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.祝福を受け継ぐ者として行動しよう

人々に祝福をもたらす者となろう

私たちは、教会の内側はもちろん、外側でも愛を実践することが期待されています。たとえ悪意を向けてくる人に対しても、呪いではなく祝福をもたらす必要があります。

熱心なクリスチャンで、YMCA(キリスト教青年会)の世界的発展にも尽力したアンリ・デュナンは、1859年、誓願のためにイタリア統一戦争に介入していたナポレオン3世に会いに行きました。その際、北イタリアで起こったソルフェリーノの戦いに遭遇します。

この戦いでは、フランスとサルデーニャの連合軍、そしてそれに敵対するオーストリア軍、合わせて20万人が激突して、4万人もの死傷者が出ました。心を痛めたデュナンは、土地の女性たちと一緒に、敵味方関係なく傷ついた兵士たちの救護に当たりました。

この活動が、後の赤十字の設立につながります。どうして敵味方関係なく助けるのかと尋ねられたデュナンの、「人類はみな兄弟」という言葉は有名です。

今週も、相手を祝福するとはどういうことなのか、具体的に考えながら生活しましょう。

神のまなざしを意識して行動しよう

正しいことを行い、呪いの代わりに祝福を与える生き方をしたからといって、周りの人に評価され、良くしてもらえる保証はありません。しかし、神さまは私たちの行いをご覧になっています。そして、やがて実現する神の国で、必ず報いてくださいます。

人からの評価や反応を恐れて行動を左右されるのではなく、神さまが望まれる生き方を探り、実践していきましょう。

特に、苦しみを味わい、「神が愛なら、どうしてこの状況を放置するのか」と恨み、「もう従ってなんかやるもんか」と思えそうなときほど、私たちは意識して神さまに従う生き方を選び続けましょう。

キリストによる希望を証ししよう

私たちクリスチャンは、苦しみの中でも神さまが愛に満ちたお方であり、最善を成してくださることを信じて希望を抱いています。イエスさまを通して与えられたこの希望について、私たちはいつでも説明できるように、あらかじめ準備しておくようにとペテロは言いました。

といっても、神学者のような難しい内容の説明は不要です。自分の体験をそのまま話せばいいのです。これを「証し」と言います。

自分の体験とは、少なくとも以下の2つです。
  1. キリストを信じる前の自分の状態
  2. 信じた後の自分の状態
これに加えて、どのようにしてイエスさまを信じるようになったのかという経緯や、なぜ自分がこのように変化したのかという理由も話せれば十分です。

私たちの変化は、1つの側面だけではありません。過去の失敗への罪責感が軽くなった、病気がいやされた、家族との関係が改善したなど、さまざまな部分が変化したはずです。

ですから、証しも1パターンだけでなく、何パターンも用意しておくといいです。そして、相手に合わせてふさわしい内容を話します。

その際、嘘や誇張があってはいけません。相手を感動させたり泣かせたりするのが目的ではありません。「証し」とは、裁判の証言のことです。どんなに感動的な話であったとしても、嘘や誇張があると、証拠としての価値はありませんね。

また、私たちの言葉と行いが一致していることも大切です。「イエスさまのおかげで、毎日が平安と喜びでいっぱいです」と言いながら、実際には愚痴ばかりこぼしていたのでは、相手は私たちの言葉を信用してくれません。

私たちは祝福を受け継ぎました。そして、それを他の人にお裾分けするためにここに置かれています。言葉と行いによって、イエスさまがくださる祝福を他の人に伝えていきましょう。

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