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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

キリストと共に生きる

2022年イースター礼拝

ローマ人への手紙6章4節〜11節

(2022年4月17日)

イエス・キリスト復活は、3つのことを私たちに保証しています。

礼拝メッセージ音声

参考資料

パウロはローマ人への手紙1〜5章で、私たちは行ないによらず、ただ神さまからの一方的な恵みによって救われると書いてきました。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」(5:1)。
これに対して、「どうせ一方的に赦されるのなら、気にしないで好き勝手に生きよう」と主張する人がいたのかも知れません。パウロは、本当に恵みを知って救われたのなら、そんな生き方ができるはずがないということを、この第6章で語っています。

3節の「バプテスマ」とは、洗礼のことです。キリスト教では入信の儀式として執り行われ、水に全身を沈めたり、頭に水を振りかけたりします。これは、イエス・キリストを信じた人が、すべての罪を赦され、神の子として新しく生まれ、神さまに従う者となったことを表しています。

イントロダクション

今日は、イエスさまが復活なさったことを記念するイースターです。イエスさまが十字架にかかられたのは、私たちの身代わりとして罪の罰を受け、私たちが神さまから赦されるためでした。では、イエスさまの復活は、私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。

イエスさまの復活は、次の3つのことを保証しています。

1.私たちが生まれ変わったこと

変えられた弟子たち

イエスさまの生前、弟子たちはイエスさまの教えをちっとも理解しませんでした。それどころか、やがて神の国が地上に実現したら、弟子たちの中で最も高い地位に就けていただけるのは誰だろうなどと、序列を争う姿勢を見せていました。そのために、何度もイエスさまを嘆かせています。

そして、「イエスさまのためなら、たとえ火の中、水の中」と誇らしげに語っていたのに、いざイエスさまが捕らえられると、みんなイエスさまを見捨てて逃げ出してしまいました。

それからイエスさまが十字架にかかって亡くなられると、弟子たちはみんな深い悲しみに沈みました。と同時に、自分たちもユダヤの指導者たちによって逮捕され、イエスさまと同じように殺されるのではないかと恐れて震えていました。そして、彼らは隠れ家に身を潜めていました。

弟子たちはみんな、不信仰で臆病で愚かだったのです。
弟子たちの変化
ところが、3日目、すなわち日曜日になると、朝から夕方にかけて、次々と驚くようなニュースが飛び込んできます。
  • 最初は、イエスさまの遺体を納めたはずの墓が空っぽになっていたというニュースでした。
  • それから、外出していた数名の女性たちが戻ってきて、それぞれ復活したイエスさまにお会いしたと口々に言いました。
  • 続けて、彼女たちと別行動をしていたマグダラのマリアも、戻ってくるなり復活のイエスさまに会ったと主張します。
  • また、ペテロまでもが復活したイエスさまに会ったと言います。
  • さらに夕方になると、エルサレムを離れたはずの2人の弟子たちも戻ってきて、イエスさまと一緒にエマオに行ったと証言しました。
そして、なんと弟子たちの隠れ家に、イエスさま本人が現れたではありませんか。

この日から7週間後、堂々と人々の前に姿を現した弟子たちは、全く別人のようでした。迫害を恐れず大胆に神さまの愛を語りました。ただ単に愛について語っただけではなく、傷ついている人、悲しんでいる人、病気の人、孤独な人、貧しい人たちを、具体的に助け、支えました。
パウロ
今回、皆さんと一緒に交読したローマ人への手紙を書いたパウロも同様でした。彼は、生前のイエスさまと直接の面識はなかったようですが、イエスさまとその教えを激しく憎み、クリスチャンたちを捕らえて投獄する、迫害の急先鋒でした。

ところが、迫害のためにダマスコ市に向かう途中、激しい光に打たれ、そこで復活したイエスさまの声を聞くのです。パウロは、自分の過ちを知り、今度はイエスさまの教えを宣べ伝える宣教師として、アジア、ギリシア、ローマなどでイエスさまの教えを説きました。彼もまた、人生が180度変えられました。
このように、復活したイエスさまと出会った弟子たちは、生き方が以前とはガラッと変わってしまいました。これは、元の生き方がどうであれ、イエスさまによって人は変わることができるという強力な実例です。

キリストとつながることによって

では、なぜイエスさまが復活したことで、弟子たちはみんな人が変わったように生き方が変えられたのでしょうか。それを知るために、今回の箇所の一部をもう一度読みましょう。

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです」(4-5節)。

ここでパウロは、私たちがイエスさまと一つになったと語っています。イエスさまを救い主と信じたとき、私たちはイエスさまとつながって一つになりました。イエスさまと一つになると、どんなことが起こるのでしょうか。

私たちは、イエスさまとつながって一つとなったなら、イエスさまの経験が私たちの経験となります。

イエスさまが十字架にかかって死なれたとき、イエスさまと一つとなった私たちも死んだと見なされました。イエスさまは罪がありませんでしたが、十字架にかかって罪の罰を受けて死なれたので、私たちも死んだ、すなわち罪の罰を受けたことにされたのです。イエスさまの経験は、私たちの経験だからです。

その結果、実際には罪の罰を受けてはいませんが、もうすでに受けたと見なされて、この先決して罪のために神さまから罰せられ、永遠の滅びを招くことはありません。こうして、私たちの罪はすべて赦されて、きよい者とされました。

同様に、私たちと一つであるイエスさまが復活したことは、私たちの経験となりました。イエスさまが死んで復活なさったように、古い私たちも死んで、新しく生まれました。

あなたも生まれ変わった

イエスさまが自分の罪のために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活したと信じたとき、イエスさまが復活したように、あなたも新しい存在として復活しました。以前のあなたは死に、あなたは新しく生まれたのです。以前と、姿形は同じかもしれません。しかし、神の子どもとして、あなたは生まれ変わりました。
そして、生まれた赤ちゃんが、日々成長していくように、新しく生まれた私たちも少しずつ変えられていきます。

この話をお読みください。
仲が悪い夫婦がいました。妻は、近所に住む友人の誘いで教会に行くようになりました。そして、教会の静かな雰囲気や、教会員の優しさに触れ、すっかり教会が気に入りました。教会の建物の中にいる間は、むしゃくしゃした気分から解放されるのでした。

しかし、家庭での生活は相変わらずでした。妻は夫に対して、がみがみと小言とグチばかりぶつけていたのです。ある日、妻はこんなことを口にしました。「あんたのような男こそ、教会に行って、牧師さんの話を聞いて、悔い改めるべきよ!」

もちろん、夫は妻がそう言いたくなるようなことをしていました。しかし、こんなことを言われて面白いはずがありません。日曜日になると、夫は毎週のように釣りやゴルフに出かけるようになりました。もちろん教会の礼拝に出かける妻への当てつけです。そういうわけで、ますます二人の仲は険悪なものになっていき、離婚するのも時間の問題という状態になってしまいました。

ある日、教会で伝道集会が開かれました。説教者は、単純明快にキリストの十字架のメッセージを語りました。そして、「悔い改めて、罪の赦しを信じなさい。そして、キリストを主とし、心の王座に座っていただきなさい」。説教者はそう結びました。

妻は、ハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けました。今まで、自分は夫を責めるばかりで、夫こそ悔い改めなければならないと思っていた。そして、自分のことは、正しい人間だと思っていた。しかし、夫がではなく、まず自分自身が悔い改めなければならなかったのだ。まず自分こそがキリストの赦しをいただかなければならなかったのだ……。妻は、その日、イエス・キリストを救い主として受け入れました。心いっぱいに、神さまの愛が満ちあふれてきました。喜びと平安が心を支配していきました。

その日を境に、妻の態度は一変しました。不平やグチの代わりに感謝が、小言の代わりにねぎらいの言葉が、彼女の口から流れ出てきます。いつもしわの寄っていた眉間が広がり、いつも笑顔がこぼれるようになりました。そして、台所仕事をするときには、いつも賛美歌を口ずさんでいます。

すると、やがて夫も教会に出席するようになり、間もなくイエス・キリストを受け入れてクリスチャンとなりました。洗礼準備会のとき、夫は牧師に語りました。「私が救われたのは、先生の説教はもちろん、我が家の台所で、イエスさまが輝いた顔をして、いつも歩いていたからです」。

そうです。あの人が祝福されるための鍵は、あなたが握っています。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
あなたは変われますか? はい、変われます。いや、もうすでに変わったし、今も変わりつつあります。 イエスさまの復活は、それを保証しています。

2.私たちが神に愛されていること

もはや死ぬことはない

パウロは言いました。「私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています」(8節)。先程確認したように、私たちとイエスさまが一つになったからです。

そして、復活したイエスさまは、もはや死ぬことはないとも語っています。「私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです」(9節)。

ということは、イエスさまと一つになった私たちもまた、死ぬことがないということです。でも、クリスチャンも死にますよね? これはいったいどういう意味でしょう。

死とは

今回読みませんでしたが、6章の最後でパウロは次のように語っています。「罪の報酬は死です」(23節)。

ここでパウロが語っている「死」とは、私たちが普通に考える肉体の死ではなく、霊的な死のことを指しています。

ヘブライ語で死という言葉には、元々離れるという意味があるそうです。肉体から霊が離れると肉体が死にます。同様に、私たちの霊が神さまから切り離されると、たとえ体は生きていても、霊的には死んでしまうのです。すべての祝福の源である神さまから切り離されること、これが罪の罰として与えられる死です。それはあらゆる良いものから切り離されるということですから、なんと恐ろしいことでしょうか。
しかし、イエスさまと一つになって、イエスさまの復活によって新しく生まれた私たちは、もう神さまから完全に切り離される霊的な死を恐れる必要はありません。

赦されただけでなく

しかも、私たちはただ罪を赦されて、罪の罰を受けなくなったというだけではありません。新しく生まれた私たちは、神さまの子どもにしていただいて、天のお父さまである神さまから祝福され続けます。その神さまの愛は永遠に続きます。何があっても、そして私たちがどんな失敗をやらかしたとしても、それでも決して決して取り除かれることがありません。

あの放蕩息子のたとえ話を思い出しましょう。あの息子は、お父さんがまだ生きているのに遺産を求め、それを手に入れると家を出て外国に行ってしまいました。当時のユダヤでは、そのようなことをした息子は死んだ者と扱われ、実際葬式を挙げられたりお墓を作られたりすることもあったそうです。

しかし、放蕩三昧の果て、財産を使い果たして困窮した息子は、図々しくも父の家に戻ってきました。そんな息子を父親は駆け寄って抱きしめ、着替えさせ、宴会を開いて歓迎しました。
あなたは神さまに愛されています。永遠に祝福されています。イエスさまの復活は、そのことの保証です。

3.私たちが真の自由を獲得したこと

罪の奴隷状態

それから、パウロは次のようにも語っています。「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです」(6-7節)。

この話の大前提は、元々私たちは罪の奴隷状態だったということです。奴隷は主人に逆らうことができません。主人が命じるとおりに行動しなければなりません。それと同じように、私たちが罪の奴隷だったときには、私たちはどうしても正しくない行動をやめることができず、代わりにしてはならないことを行なってしまっていました。

しかし、イエスさまと一つになった私たちは、イエスさまが十字架にかけられたとき、一緒に死にました。死んだ奴隷は、もはや主人の言うことを聞く必要がありません。ただ、死んでしまっては、新しい生き方をすることもできませんね。

ところが、私たちは復活したイエスさまと共に新しく生まれました。もはや罪の奴隷ではない自由人として生まれ変わったのです。

完全な自由はない

ただ、私たち人間は有限な存在で、神さまのように完全な自由を持っていません。あの神さまに逆らう存在、悪魔(サタン)でさえも、神さまの許可が無ければ何もすることができません(ヨブ2:6参照)。

イエスさまが語られたたとえ話の中に、悪霊の引っ越しのたとえがあります(ルカ11:21-26)。悪霊が出て行っても、そこが空っぽだったために、その悪霊は他の7つの悪霊を連れて戻ってきたというたとえ話です。

このたとえ話は、せっかくバプテスマのヨハネが罪を悔い改めることを教えたのに、その後イエスさまを救い主だと認めなかったイスラエルの国は、ローマ帝国によって滅ぼされるというさばきを受けるということを預言しています。

しかし、それを今回の話に適用すれば、ただ罪の奴隷から解放されただけだと、いつの間にか元の木阿弥に戻ってしまうことを表しているようです。私たちに必要なのは、罪の奴隷状態から解放された後、新しい誠実で優しい主人、すなわちイエスさまに仕えることです。

新しい主人

パウロも次のように語っています。「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい」(11節)。

さらに、今回の箇所の後には、より明確にそのことを書いてあります。「神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となりました。あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい」(17-19節)。

「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです」(22節)。
結局誰かの奴隷
私たちが神さまの奴隷、復活して今も生きておられるイエスさまの奴隷、しもべであるということを忘れてしまうと、いつの間にか古い主人である罪がやってきて、私たちを良くない行ないの方向に引っ張っていこうとします。

ですから、私たちは、自分がイエスさまの奴隷、しもべになったのだということを、いつも意識していなければなりません

そして、もしも罪の方向に引っ張られていることに気づいたなら、自分はもはや罪、悪魔に仕える者ではなく、イエスさまに仕えるしもべなのだということを改めて意識し、自分自身に向かって語り続けましょう。

そうすると、新しい現在の主人であるイエスさまが、私たちを罪の方向に引き戻そうとする悪魔を退けてくださいます。そして、正しい生き方ができるようにしてくださいます。

この話をお読みください。
ある大工さんが教会に通い始め、洗礼まで受けたという話を聞いた仕事仲間たちが、その真偽を確かめました。クリスチャンの大工さんは本当だと答え、新約聖書を手渡して、是非読んでみてくれと言いました。

ヨハネの福音書の最初の方にざっと目を通した仲間の一人が、「水が酒になったなんて話、信じられるけぇ!」と言いました。すると、クリスチャンの大工さんはこう答えました。「俺は信じられるよ。だって、イエスさまは俺の酒をタンスに変えてくれたんだもの」。

この大工さん、かつては仕事や人間関係でおもしろくないことがあると、ついつい酒に逃げていました。やがてアルコール依存症となり、ろくに働きもしないで飲んでばかりいるようになります.当然収入は激減し、反対に酒代は鰻登り。やがて奥さんの嫁入り道具まで質に入れてしまいました。

さすがにこれではいけないと感じた大工さん、助けを求めて教会に足を運びます。そして、イエス・キリストを救い主と信じたのでした。すると、心の内側に不思議な平安や喜びがやってきました。

教会では別に禁酒を命じられたわけではありませんが、おもしろくないことが起こっても、もう酒に逃げなくてすむようになりました。気分もすっきりして、仕事も以前にも増してバリバリこなすようになり、収入も増えていきました。そして、奥さんのためにすてきなタンスを買ってあげることができたのでした。イエス・キリストは「酒をタンスに変えてくれた」のです。

キリストを信じると、神の聖霊があなたのうちに住み、あなたを内側から造り変えてくださいます。そして、生活全体に神さまの奇跡が満ちあふれるようになります。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
私たちは罪の奴隷状態から解放されて、新しい、正しい生き方をすることができます。イエスさまの復活は、そのことの保証です。

まとめ

イエスさまは、十字架にかかって死んだ後、3日目に復活なさいました。そして、イエスさまの復活は、
  1. 古い私たちが死んで、新しく生まれ変わったことの保証です。
  2. 神さまに永遠に愛されており、決して見捨てられることがないことの保証です。
  3. 私たちが罪の奴隷状態から解放されて、本当の自由を獲得したことの保証です。
信じましょう。そして、これらの約束が今週どのように実現するか大いに期待しましょう。

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