(2023年2月5日)
礼拝メッセージ音声
参考資料
18節の「ヨハネ」は、バプテスマのヨハネのこと。この時、ヨハネはヘロデ・アンティパス王を批判したために捕らえられ、投獄されていました。
18節の「パリサイ人」は、ユダヤ教の一派であるパリサイ派に属する人。バビロン捕囚から解放された後、モーセの律法を研究し、忠実に守ろうとした人々の流れを汲みます。イエスさま時代のパリサイ人は、モーセの律法以外に大量の細かい規則(口伝律法、ミシュナ)を作り出し、それを守ったり民衆に守るよう命じたりしていました。彼らの口伝律法によれば、週に2度(月曜と木曜)は断食をすることになっていました。
18節の「断食」は、宗教的な理由で一定期間(短ければ1食、長ければ40日間)食を絶つこと。ただし、水は飲みます。
イントロダクション
順番的には、中風の人をいやしていただくために、4人の友だちがイエスさまのいた家の屋根をはがして病人をつり下ろした話、さらにマタイが弟子に加わった話が来ます。しかし、それぞれ昨年の
7月17日と
7月24日に取り上げていますので、今回はスキップします。
今回取り上げるのは、バプテスマのヨハネの弟子とパリサイ人たちがやってきて、イエスさまの弟子たちが断食せず、自由に飲み食いしていることを批判したという話です。彼らの批判を言い換えると、「あなたの弟子は信仰者のくせに断食しないのか。なんて奴らだ」ということです。
「クリスチャンのくせに」という言葉を聞いたことのない人はいらっしゃいますか? 不思議なことに、「無神論者のくせに」という言葉はあまり聞きません。信仰を持っている人は、普通とは違った行動を期待されているようです。
ただ、この「くせに」という言葉を軽く聞き流せればいいのですが、結構心にグサッとくることがあります。まして、自分で自分に向かって心の中で「くせに」を語り始めると、大変つらい精神状態に陥ることになります。あなたはそんなふうにつらい思いをしたことがありますか?
「あなたの弟子たちは、断食しないダメダメ信仰者だ」と言われたイエスさま。さて、どうお答えになったのでしょうか。
1.断食しない理由
伝統的宗教家による批判
「さて、ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは、断食をしていた。そこで、人々はイエスのもとに来て言った。『ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか』」(18節)。
口伝律法(言い伝え)
パリサイ人たちは、自分たちのグループが作り出した膨大な数の規則を守り、また民衆にも守るよう教えていました。モーセの律法そのものより、これらの規則の方が重要だとさえ教えていたほどです。この規則のことを口伝律法といい、福音書では「言い伝え」と呼んでいます。
バプテスマのヨハネはパリサイ人たちを「マムシの子孫」と呼んで批判しました。それは彼らがモーセの律法を重んじていると言い、表面上は信仰的な生き方をしているように見せながら、実生活では律法を無視して生きていたからです。
しかし、ヨハネの弟子たちは、他のユダヤ人たちと同じように口伝律法を重んじて、それらを守って生活していました。
モーセの律法と断食
モーセの律法で断食が命じられているのは、「贖罪の日」(新改訳では「宥めの日」)という祭りの時だけです(レビ23:27の「自らを戒め」)。贖罪の日には、すべてのユダヤ人が自分の1年間の罪を告白して神さまの前に悔い改めます。
- 実はこの祭りは、世の終わりにやってくる大患難時代を予表していると言われています。
口伝律法と断食
しかし、口伝律法では、週に2度、月曜日と木曜日に断食することが決められていました。そのようなわけで、 当時のユダヤ人は頻繁に断食を行なっていました。
しかし、イエスさまの弟子たちは、そのような規則を無視して、自由に飲み食いしていました。それを知ったパリサイ人たちは、バプテスマのヨハネの弟子たちと一緒にやってきてイエスさまを非難しました。弟子たちをしっかり指導していないと責めたのです。
では、その批判に対して、イエスさまはどのようにお答えになったでしょうか。イエスさまは直接回答する代わりに、3つのたとえ話をなさいました。まず1つ目のたとえから見ていきましょう。
1つ目のたとえ
花婿の友人のたとえ
「イエスは彼らに言われた。『花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、断食できるでしょうか。花婿が一緒にいる間は、断食できないのです。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。その日には断食をします」(19-20節)。
結婚披露宴に呼ばれた花婿の友人たちは、披露宴の間断食なんかしないとイエスさまはおっしゃいました。
披露宴の食事は単におなかを満たすだけのものではありません。披露宴の参列者は、食事を共にすることによって新郎新婦と結婚の喜びを共有します。披露宴なのに断食なんかすれば、かえって新婚夫婦やそれぞれの家族に対して失礼になります。
では、その花婿が死んでしまったらどうでしょうか。友人たちは悲しみを表すために断食をすることでしょう。
断食自体の否定ではない
ここで、イエスさまは断食そのものを否定しているのではありません。
- いわゆる山上の説教で、イエスさまは断食の際の心構えについて教えておられます(マタイ6:16-18)。
- イエスさまご自身も、バプテスマのヨハネから洗礼を受けた後荒野に退き、40日間に及ぶ断食をなさっています(マタイ4:2など)。
ここでイエスさまがおっしゃっているのは、理由もなく、ただ決まりだからというだけで断食なんかしなくてよいということです。
断食する理由
人はさまざまな理由で断食します。
- 悲しみの表現として。
- 罪の悔い改めの表現として。
- 祈りに専念したいとき(食を絶つことで多くの時間を祈りに費やせます。また霊的感受性も向上します)。
- いやしや悪霊追い出しなど、強い願いがあるとき。
- 健康のため。
パリサイ人たちや、彼らの教えを守ろうとする多くのユダヤ人たちは、そうすることが決まりだから断食しました。
弟子たちが断食しない理由
しかし、この時の弟子たちには断食しなければならない理由はありません。
彼らは、ユダヤ人たちがずっと待ち望んできた救い主がいよいよ現れたということを知りました。しかも、そのお方と24時間ずっと一緒に生活し、そのお働きの手伝いを許されています。ています。そして、さまざまな驚くような奇跡を目撃し、力強くて恵みに満ちたメッセージをいつも聞くことができます。
彼らの心は喜びや期待感でいっぱいでした。それはちょうど、結婚披露宴に招かれた花婿の友だちのような精神状態です。そんな彼らが理由もなく断食するはずがないじゃないか。イエスさまはそんなふうにパリサイ人やヨハネの弟子たちにおっしゃいました。
理由があれば断食する
しかし、もしも断食する理由が生じたときには、弟子たちは断食するでしょう。それは、救い主だと信じてきたイエスさまが亡くなったときです。
救い主は、全人類の罪の罰を身代わりとして追うために、十字架にかかり、血を流し、命をささげます。それを目の当たりにした弟子たちは、悲しみの表現として断食するでしょう。あるいは、突然リーダーを失ってこれからどのように進んでいったらいいか迷う彼らは、神さまに導きを求めて祈るため断食するでしょう。
理由があれば断食する。理由がなければ断食しない。これがわたしの弟子たちの生き方だと、イエスさまはおっしゃっているのです。
残る2つのたとえ
後の2つのたとえは、同じことを伝えています。まずはそれぞれのたとえの、表面的な意味を確認します。
継ぎ当てのたとえ
「だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんなことをすれば、継ぎ切れが衣を、新しいものが古いものを引き裂き、破れはもっとひどくなります」(21節)。
今の布は織製や縫製の技術が向上していて、洗濯してもほとんど縮むことがありません。しかし、昔の布は洗うとかなり縮みました。特にまだ一度も洗濯したことがない真新しい布は収縮の度合いが大きく、一方何度も水をくぐった古い布はほとんど収縮しません。
そこで、古い衣に空いた穴を塞ごうとして、新しい布きれで継ぎ当てをするとどうなるでしょうか。新しい布きれだけが縮むため、縫い合わされている下の古い衣を引き裂いてしまい、かえってダメージが大きくなってしまいます。
新しい布きれで古い衣の継ぎ当てをしないというのは、当時の常識でした。
ぶどう酒と皮袋のたとえ
「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです』」(22節)。
ぶどう酒は、ぶどうジュースが発酵してできあがります。発酵の過程でぶどうジュースの糖分がアルコールに変わり、同時に二酸化炭素が発生します。新しいぶどう酒は十分に発酵し切っていませんから、まだ二酸化炭素が出続けています。
そんな新しいぶどう酒を皮袋に新しい皮袋を入れるとどうなるでしょうか。発生する二酸化炭素で、皮袋は風船のように徐々に膨らんでいきます。
しかし、古い皮袋の場合、皮が固くなって柔軟性を失っていますから十分膨らむことができず、やがて内側の圧力に耐えられなくなって破裂してしまうでしょう。そうなるとぶどう酒も皮袋もダメになってしまいます。
新しいぶどう酒を入れたいなら、柔軟性のある新しい皮袋に入れなければならないというのも、これまた当時の常識でした。
古いものと新しいものの意味
これらのたとえ話で、古い衣や古い皮袋にたとえられているのは、パリサイ人を初めとする当時の宗教的指導者たちが教えていた、信仰者としてのライフスタイルのことです。一方、新しい布きれや新しいぶどう酒というのは、イエスさまの教えのことです。
イエスさまの教えは、パリサイ人たちの教えのほころびを見つけて、その穴をちょっと塞ぐようなものではありません。信じる人の生き方、考え方、感じ方をほんの少しだけ変えるのではなく、根本からまるっきり作り変えてしまうような、エネルギーに満ちたものです。
マタイの例
今回の話の直前、取税人だったマタイが救われてイエスさまに従うようになりました。
それまでのマタイは、お金儲けの欲望に囚われていました。そして、ローマ帝国に納めるための決められた額以上に税金を徴収して、差額を懐に入れていました。
彼はそんなやり方が正しくないことは分かっていましたし、罪責感すら覚えていました。また、他のユダヤ人たちからローマの犬として、また盗人として忌み嫌われているのも分かっていました。
しかし、それでもいまさら豊かな生活を捨てる勇気がありません。自分の力ではどうすることもできず、ただ漫然と古い生き方を続けていたのでした。
そんなマタイの前に、突然イエスさまが現れました。そして、なんと自分に向かって「私に付いてきなさい」と言うではありませんか。つまり、弟子になれということです。こんな罪深い取税人に向かって!
マタイはイエスさまが約束の救い主だということ、そしてこの方が自分の過去の悪い行ないがすべて赦し、それどころかこの自分を愛してくださっていることを知りました。
ペテロたち漁師と違って、取税人はいったん辞めてしまったらもう後戻りできません。それでもマタイは、すぐに立ち上がってイエスさまについて行きました。
その後マタイは、イエスさまや他の弟子たちを自宅に招いて宴会を催しました。他に集められた客は、取税人が友だちづきあいを許されていた人々、すなわち他の取税人や遊女たちでした。町の中で鼻つまみ者だった仲間たちにも、イエスさまを紹介したい。彼らにも人生が根底から作り変えられるような体験をしてほしい。マタイはそんなふうに考えたのでしょう。
新しいライフスタイル
このように、イエスさまと出会い、イエスさまを信じた人は、生き方も、考え方も、感じ方もまるっきり作り変えられます。 イエスさまによって救いを体験した人たちはエネルギーに満ち満ちています。
ですから、パリサイ人たちが教えていたような「決まりなんだから、理由があろうがなかろうがとにかくやりなさい」という、古くて硬直したライフスタイルには収まりきれません。
イエスさまの弟子たちが聖書に書かれている教えを守るのも、「決まりだからそうする」のではないし、「そうしないと罰を受けるから」でもありません。「そうしないではいられないからそうする」のです。
自分を赦し、愛し、永遠に祝福すると約束してくださった父なる神さま、イエスさま、聖霊さまを悲しませたくない、むしろ喜んでいただきたいという思いから命令を守ります。
「私の弟子たちは、そんな新しいライフスタイルで生きているのだ」とイエスさまは宣言し、週に2度断食するのが決まりなんだからそうしろというパリサイ人やヨハネの弟子たちを退けました。
ではここから、私たちは何を学ぶことができるでしょうか?
2.図々しく生きよう
一部修正では不十分だと確認しよう
断食は良いことです。同様に、礼拝式に出席すること、聖書を読むこと、祈ること、献金すること、賛美すること、様々な奉仕をすること、善行をすることも良いことです。
しかし、古い着物の破れを、そこだけ新しい布で継ぎをしようとしても、かえって全体をダメにしてしまいます。同じように、私たちの生活は、一部だけ修正して良いことをするというやり方では不十分なのだと、イエスさまはおっしゃいます。
パリサイ人たちは、断食、ほどこし、祈り、献金など、良いことのリストを並べて、それを行なうことで、自分の全体が良くなると考えていました。しかし、神さまの絶対的な正義の基準の前には、とても追いつきません。
多くのパリサイ人たちは、自分の良心を麻痺させて、自分たちは悔い改めの必要もないくらいきよい存在だと思うことで、精神的な安定を確保していました。しかし、パウロ、ニコデモ、アリマタヤのヨセフのような、ごく一部のパリサイ人たちは、良いことをしようとすればするほど、自分の不十分さをいやと言うほど思い知らされて苦しんだのです。
結局、どこまで行っても不十分な、罪人としての私たちの存在そのものが、根底から造り変えられない限り、いわゆる「信仰的な行ない」をちょいちょいと行なって、それでOKという訳にはいきません。
私たちはそのことをいつも覚えていなければなりません。ちょっとつらく感じるときがあるかもしれませんが、そうして初めて救いの喜びが実感できるのです。
新しく生まれたことを知ろう
そして、イエスさまは罪人であり神さまの敵であった私たちを一度殺し、神の愛を一身に浴びる神の子どもとして、新しく生まれさせてくださいました。
「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです」(ローマ6:4)。
もしかしたらあなたは、クリスチャン「的」な生き方を取り入れようと、一生懸命努力してこられませんでしたか? その結果、とてつもなく高い基準に絶望して、自分はダメなクリスチャンだと責めてこられなかったでしょうか。
イエスさまは「クリスチャン的」な人を求めておられるのではありません。「クリスチャン」を求めておられます。
クリスチャンとはイエスさまの十字架と復活を信じる人のことです。すなわち、自分の力や信仰深さによってではなく、ただただイエスさまの一方的な恵みによって神さまに愛される者となったと信じる、図々しい人のことです。
一方的に救われ、祝福されるだなんて、何と都合のいい話でしょう。そんなことを信じるなんて、何と図々しい態度でしょう。
それより、一生懸命努力して、神の子と呼ばれるのにふさわしい人格を身につけようと努力する人の方が、何万倍も立派に見えます。しかし、イエスさまは、そういう図々しい人をクリスチャンと呼ばれるのです。
信仰とは図々しいことです。精一杯の図々しさを働かせましょう。図々しくてOKなのだとしたら、あなたはどんなことを神さまに期待しますか?
プラスの感情を原動力としよう
安倍晋三元首相襲撃事件によって、今再び統一教会(今の名称は、世界平和統一家庭連合)が注目されています。カルトは、信者の恐怖心や罪責感、義務感などマイナスの感情を巧みに刺激して洗脳し、教団の思い通りに動かそうとします。
正統的なキリスト教会であっても、マイナスの感情を刺激して行動を促すなら、カルトのやり方と変わりません。
確かに、私たちクリスチャンには、神さまの命令を守る「義務」があります。しかし、私たちがその義務を守る原動力は、恐怖心・罪責感・義務感などのマイナスの感情ではありません。救われ、愛され、守り導かれていることへの感謝、喜び、感動、希望、安心感といったプラスの感情でなければならないはずです。
新しいいのちを与えられ、新しいライフスタイルに生きることを許されている私たちは、自分が神さまに愛されていることにもっともっと注目しましょう。それが生き生きとした、エネルギーに満ちた人生を私たちにもたらします。
この話をお読みください。
あなたは愛されています。そのままの姿で愛されています。
まとめ
恐怖心ではなく、罪責感でも義務感でもなく、救われた喜びを原動力として、図々しく生きていきましょう。