本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

つまずきについての教え

イエス・キリストの生涯シリーズ63

ルカによる福音書17章1節〜10節

(2024年1月21日)

聖書が言う「つまずき」とは何でしょうか。そして人をつまずかせないために必要な態度は何でしょうか。

礼拝メッセージ音声

参考資料

6節の「からし種」はクロガラシの種のことで、大きさは1ミリほど。イスラエルの植物の種の中では特に小さく、小さなもののたとえに用いられています。

6節の「桑」は地中深くに根を張るため、人力で引き抜くのは至難の業です。

イントロダクション

あなたの属する家庭、職場、地域、そして教会は、参加者みんなにとって居心地のいい場所でしょうか。私たちの成長を助けてくれるような人たちがいる集まりもあれば、邪魔するような人たちがいる集まりもありますね。

今回の箇所で、イエスさまは弟子たちに向かって語っておられます。私たち自身が他の人の成長を助けられるような、居心地のいい存在になるための鍵は何でしょうか。弟子である私たちには、どんな生き方が求められているのでしょうか。

1.信仰のつまずきに関するイエスの教え

つまずきについて

つまずきについての戒め
(1-2節)イエスは弟子たちに言われた。「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。

イエスさまは「つまずき」について弟子たちに向かって語り始めました。

ここで「つまずき」と訳されている言葉は、ギリシア語で罠という意味のスカンダロンです。ですから動詞形の「つまずく」という言葉には、「罠にかけられる」というニュアンスがあります。ここから転じて、「進路を妨害される」とか「やろうとすることを邪魔される」という意味が生まれました。
特に聖書では、「正しい信仰を持ったり成長させたりするのを妨害される」という意味で使われることが多いです。

イエスさまは2つのことをおっしゃいました。
  • どうしても信仰のつまずきを経験する人が出てくることは避けられない。
  • しかし、他の人に信仰のつまずきを与えることは良くない。
つまりイエスさまは弟子たちに、「他の人が正しい信仰を持ったりそれを成長させたりするのを邪魔してはいけないよ」と教えていらっしゃるのです。
小さい者とは
では、イエスさまがおっしゃった「これらの小さい者たち」とは誰のことでしょうか。

この話は15章からの続きです。15:1-2を見ると、パリサイ人たちから「罪人」としてさげすまれていた人たちがイエスさまの話を聞きに集まってきました。イエスさまは彼らを喜んで迎え入れ、一緒に食事をとりました。するとパリサイ人たちは、「どうしてイエスという人は、あんなひどい連中を受け入れるのか」と非難しました。

それに対してイエスさまは、有名な放蕩息子のたとえを含む「捜し物三部作」を語ります。それらのたとえによって、「天の父なる神さまは罪人を捜し出し、彼らが悔い改めてご自分の元に帰ってくると喜んで受け入れてくださる恵みと愛と赦しの神だ」ということを、イエスさまはパリサイ人たちに向かってお示しになったのです。

ですから、今回の箇所で語られている「小さい者」とは、パリサイ人たちから「罪人」としてさげすまれていた人たちのことです。彼らはあの放蕩息子のように自分の罪を知り、神さまとの関係を回復しなければならないことを知っている人たちでした。

イエスさまは、そういう「小さい者」と神さまとの間を取り持ち、「小さい者」が安心して、堂々と神さまと交わることができるようになるために来られました。

もちろん、正義である神さまは、必ず罪を裁いて罰を与えなければなりません。そこで、イエスさまが罪人の身代わりに十字架にかかり、罪の罰として神さまののろいを受けてくださることによって、私たち罪人の罪はすべて完全に赦されました。ですから、「小さい者」は神さまに赦され、受け入れられ、圧倒的な祝福の中に生きることができます。

しかしパリサイ人たちはそれを邪魔しようとしていました。イエスさまはそういう言動のことを「つまずき」と呼んで、厳しく禁じておられます。
海に投げ込まれるとは
なお、「ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれる」という表現は、「他の人をつまずかせるようなクリスチャンは、救いを取り消されるとか罰として溺死させられるとかいうことを教えているわけではありません。それくらい、他の人の信仰を邪魔しないよう徹底的に注意しなさいということです。

では、他の人の信仰のつまずきとならないため、私たちは具体的にどのようなことを心がければいいのでしょうか。続けてイエスさまは次のような話をなさいます。

赦しについて

罪を犯した兄弟への態度
(3節)あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。

人をつまずかせないために必要な態度は、まず罪を犯した人に対して悔い改めるよう戒めることです。悔い改めれば神さまは赦してくださるのですから、その希望を語りながら罪を認めて悔い改め、悪い行ないから離れるよう勧めなければなりません。

そして、その人が悔い改めたら赦せとイエスさまはおっしゃいます。悔い改めれば神さまはその人を赦してくださいます。しかし、私たちがその人を赦さず過去の過ちを責め続けたとしたら、その人は自分が赦されているという確信を失ってしまうかもしれません。

それは神さまの赦しを信じる信仰を邪魔すること、すなわちつまずきを与えることです。ですから悔い改めた人を赦しなさいとイエスさまはおっしゃっているのです。

ではその人が同じ過ちを何度も繰り返す場合、何回まで赦すのでしょうか。
どれくらい赦すか
(4節)一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。」

以前、イエスさまがやはり罪を犯した人に対する態度について教えておられたとき、ペテロが質問しました。(マタイ18:21)そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」

それに対するイエスさまの答えは、(マタイ18:22)イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです」でした。これは490回という意味ではなく、「限りなく赦しなさい」という意味だということは、昨年8月27日のメッセージでお話ししました。

7という数字は、ユダヤでは完全さを表すとされています。ですから今回の箇所で7回赦せというのも「限りなく赦しなさい」という意味です。
信仰を増し加えてください
(5節)使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増し加えてください。」

弟子たちがこんなお願いをしたのは、何度でも赦すようにというイエスさまの教えを聞いて、「自分にはとても実行できない」と思ったからでしょうね。

それに対してイエスさまはなんとお答えになったでしょうか。
からし種ほどの信仰で充分
(6節)すると主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなたがたに従います。

桑の木は地中深くに根を張るため、引き抜くのは容易ではありません。そんな桑の木でさえ信仰があれば引き抜かれて海の中に移動します。しかもそのために必要な信仰は、からし種のような小さなもので十分だとイエスさまはおっしゃいます。
弟子たちの「信仰を増し加えてください」という願いは、要するに「相手を赦したいという気持ちにさせて欲しい」ということです。

しかし、イエスさまは「そんな気持ちになるのを待つ必要はない。あなた方自身が赦すと決めて実行するかどうかが問われている。これは感情の問題ではなく意思の問題だ。あなた方が正しいことをしようと決めて実行したなら、

すなわちここでは人を赦そうと決めて実行するなら、神さまはそうすることができるよう助けてくださる」。そうイエスさまはおっしゃっているのです。

謙遜なしもべのように

しもべと主人の関係
(7-9節)あなたがたのだれかのところに、畑を耕すか羊を飼うしもべがいて、そのしもべが野から帰って来たら、『さあ、こちらに来て、食事をしなさい』と言うでしょうか。むしろ、『私の夕食の用意をし、私が食べたり飲んだりする間、帯を締めて給仕しなさい。おまえはその後で食べたり飲んだりしなさい』と言うのではないでしょうか。しもべが命じられたことをしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか。

確かに古代の奴隷と主人との関係はこのようなものでした。
しもべたちに学べ
(10節)同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」

これをさらっと読むと、神さまは私たちがどんな努力をしたとしても、全くほめてくれないしねぎらってもくれないという意味かと思ってしまいます。もしそうなら、ちょっと寂しいですね。

しかし、ここはそういうことを教えている箇所ではありません。私たちの言動にかかわらず、とにかく神さまは私たちを愛しておられるし、祝福しようと決めておられます。

イエスさまが7-10節でおっしゃりたかったことは、神さまの愛は出来高制ではないということです。神さまとの愛に満ちた親密な関係は、私たちの良い行ないに対するごほうびとして与えられるものではなく、一方的に与えられるものです。これを「恵み」と言います。

自分自身が神さまの恵み深さを味わい、一方的に赦される喜びを知った人は、他の人にも恵みの原則で接したいと思うようになります。すなわち、罪を認めて悔い改めた人を責め続けるのではなく、その人が赦されていること、そして自分もその人を赦し受け入れいていることを伝えるでしょう。

また自分が恵みを体験した人は、まだ罪を認めていない人に対しても、上から目線で責めることはしません。神さまに赦される道があることを伝えて、正しい生き方をするよう愛情深く勧めることでしょう。

つまり恵みを体験した人は、他の人の信仰のつまずきになるような言動をしないはずです。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.他の人の信仰を育てる存在になろう

神の赦しを伝えよう

祝福の源である神さまと関係回復して、本来人間のために神さまが用意してくださっている祝福を味わえるようになるためには、まず自分が神さまに対して罪を犯していたことを認め、悔い改める必要があります。

私たちは他の人が罪を犯しているとき、それを見過ごすのではなく、3節でイエスさまがおっしゃったように悔い改めるよう勧めなければなりません。

しかしその際、罪に対する神さまのさばきを前面に押し出して脅すような真似をしてはいけません。異端やカルトの教会は神さまのさばきで脅して信者を獲得しようとします。イエス・キリストによる罪の赦しを信じた私たちは、彼らと同じやり方をしてはなりません。

あくまでも神さまは罪を赦してくださるお方だということをベースにしながら、罪と悔い改めについて語る必要があります。神の怒り、神の呪いではなく、赦しや祝福を語り、だからもう一度やり直そうと勧め、必ずできるようになると励ますのです。

他の人の罪を指摘する場合でもそうでない場合でも、私たちは周りの人たちに対して神さまは罪を赦してくださるお方だということを伝え続けましょう。それが他の人の信仰のつまずきにならず、それどころか他の人の信仰を育てる態度です。

神の恵みを体験しよう

そのような、ぬくもりに満ちた関わり方ができるようになるためには、私たち自身が神さまの恵みを大いに体験する必要があります。
借金と赦しについてのたとえ
マタイ18:21-35で、イエスさまはやはり赦しについてのたとえ話を語っておられます。このたとえの中で、王に1万タラント(日当5千円として計算すると3千億円)の借金をしている人が、それを帳消しにしてもらったのに、友の100デナリ(50万円)の借金を赦しませんでした。そして、それを知った王から叱責されてしまいます。
50万円は決して小さな額ではありませんが、3千億円に比べれば微々たるものです。要するに、自分がどれだけ赦され、愛されているかを知っている人は、他の人の過ちを責め立てたりせず、赦すことができるとイエスさまはおっしゃっているのです。
からし種ほどの信仰とは
イエスさまが6節で「からし種ほどの信仰があれば」とおっしゃった信仰とは、「この私は神さまに赦されなければならない。そして、事実、イエスさまの十字架と復活によって、父なる神さまは私を赦し、愛し、祝福してくださっている」という信仰のことです。

他の人の罪を指摘する際、「私の魂は健康、あなたは魂の病人」という見下げるような態度で戒めてもなかなか聞き入れてもらえません。自分を馬鹿にするような人の話なんか、誰も聞きたくありませんからね。

しかし、私たち自身がいつも神さまの赦しを体験し、赦しをもたらしてくださったイエスさまに対する感謝に満ちあふれていたらどうでしょうか。他の人に対して「私も自分の中にある罪の性質と戦っています。あなたも戦っています。私とあなたは戦友です」という思いで語りかけるでしょう。

それが他の人の信仰のつまずきにならず、それどころか他の人の信仰を育てる態度です。

神の命令を実践しよう

では、どうしたら神さまの恵みを私たち自身が充分に体験できるでしょうか。それは「自分は神さまの命令を完璧に実行できない不完全な人間だ」という体験を積み重ねることです。その上で、そんな自分が赦され、愛され、子どもとして祝福されているという事実を確認し続けることです。

この話をお読みください。
「砂上の楼閣」とは、「見た目は立派なのに基礎がしっかりしていないため、長続きしない物事」を指す言葉です。楼閣というのは高くて立派な建物のことですね。この言葉も聖書が由来です。

いわゆる「山上の説教」(山上の垂訓)の最後に、イエス・キリストは次のような話をしました。(マタイによる福音書7:26-27)また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。

以前ビジネスの勉強をしたとき、「どんなふうにすればいいか知っていてもそれを実行しなければ、知らないのと同じだ」と教わったことがあります。神さまの命令も同じです。知っているだけで実践しなければ意味がありません。

そして、実践して初めて私たちは「自分は不十分だ」ということを思い知らされ、ますますイエスさまによる赦しと聖霊なる神さまによる助けを求めるようになります。

「人はみんな罪人であり、赦しを必要としている」という聖書の教えについて、今ひとつピンとこないという方がいらっしゃいますか? それなら新約聖書の中にある命令のどれか一つでも、徹底的に守ってみてください。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
そうして、「自分は不完全だな」と思い知らされたなら、イエスさまの十字架の愛を思い起こし、感謝と喜びに満たされましょう。それが他の人の信仰のつまずきにならず、それどころか他の人の信仰を育てる態度です。

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com