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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ラザロの蘇生

イエス・キリストの生涯シリーズ64

ヨハネによる福音書11章1節〜11節

(2024年1月28日)

ベタニアのラザロは、病死して4日経っていたのにイエス・キリストの奇跡によってよみがえりました。

礼拝メッセージ音声

参考資料

1節の「ベタニア」は、エルサレムの南東約3キロの所にあった村です。

11節の「眠ってしまった」は、死んだという意味(13節)。

イントロダクション

皆さんは、自分の思い通りに物事が進んでいかないとか、祈っても祈っても問題が解決していかないとかいう状況になったことがありますか?

そんなとき「どうして問題が解決しないの?」「こんなに祈っているのにかなえられないのはどうして?」という思いが心をむしばんでしまうかもしれません。果ては「私は神さまに愛されたいないのかも」「もしかして見捨てられた?」などと思って、ますますつらくなったりして……。

今日はイエスさまが死んだラザロをよみがえらせたというエピソードから、「問題が祈ったとおりに解決しない問題」について考えます。ラザロが蘇生した場面そのものについては、聖書の女性シリーズ26「マルタ」の回で触れました。
そこで今回は、その前の出来事を中心に見てていきましょう。

1.ラザロ危篤の知らせとイエスの行動

ラザロ危篤の知らせ

ラザロの病気
(1節)さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。

ベタニア村のラザロが病気にかかってしまいました。ラザロには2人の姉妹がいて、マルタとマリアです。
マリアについての解説
(2節)このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。

ラザロの姉妹であるマリアが、イエスさまに香油を塗り髪の毛で足をぬぐったエピソードについては、聖書の女性シリーズ28「ベタニアのマリア」の回で取り上げています。このエピソードは、時系列的には今回より後の話です(ヨハネ12章)。

マリアが香油を塗って髪の毛でぬぐったエピソードは、ヨハネによる福音書が書かれた当時は教会内でかなり有名だったため、ここで触れられているのでしょう。
姉妹たちからの使い
(3節)姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

「あなたが愛しておられる者」とはラザロのことです。マルタとマリアはイエスさまの元に使いを遣わして、ラザロが病気にかかったことを知らせました。もちろん、このような言葉を使いに託したのは、それを聞いたイエスさまにベタニアまでご足労願い、ラザロを癒やしてもらいたいという願いを持っていたためです。

動こうとしないイエス

神と神の子の栄光
(4節)これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」

使いからの伝言を聞いたイエスさまは、「この病気は死で終わるものではない」とおっしゃいました。それを聞いた使いの人は、イエスさまが「ラザロは死なない」と保証してくださったと感じたことでしょう。

さらにイエスさまは、「ラザロが病気になったのは神の栄光のためだ」とおっしゃり、「それによって神の子、すなわち救い主が栄光を受けることになる」とおっしゃいました。それを聞いた使いの人はどう考えたでしょうか。

きっと「イエスさまがまた奇跡を行なってラザロの病気をいやしてくださり、それによって天の父なる神さまと救い主であるご自分のすばらしさを明らかになさるのだ」と考えたことでしょう。

使いの人は期待に胸を膨らませながら、ベタニア村に戻っていったに違いありません。
ラザロたちへのイエスの愛
(5節)イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。

イエスさまはマルタ、マリア、そしてラザロのきょうだいのことを愛していたと聖書は言います。マルタとマリアも、3節でラザロのことを「あなたが愛しておられる者」と呼んでいます。

ベタニア村はエルサレムの南東3キロほどのところにあります。イエスさまはエルサレムに来られたとき、よくベタニア村のラザロたちの家に泊まって拠点になさいました。ですから、「愛しておられる者」というのは実際その通りで、イエスさまとラザロたちは大変親密な関係を築いていたのです。

であれば、イエスさまはすぐにベタニアに向かって移動を開始したはずだ。私たちはそう考えます。では実際にはどうだったのでしょうか。
動かないイエス
(6節)しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。

何とイエスさまはその場所に留まり続け、ベタニアに向かおうとなさいませんでした。

イエスさまがこの頃おられたのは、ベタニアの近くではなくヨルダン川の東側、ペレヤと呼ばれていた地域です。
紀元29年の年末、イエスさまは宮きよめの祭り(ハヌカー)を祝うためにエルサレムにおられました。その際、自分は神であると宣言したため、ユダヤ人の指導者たちから石を投げられて殺されそうになります。そこでイエスさまは、ヨルダン川の東側の地域であるペレヤ地方に避難なさいました(詳しくは昨年12月3日のメッセージをご覧ください)。

その後、エルサレムに向かって移動しながら救いについてお教えを語っておられましたが(ルカ13:22)、まだペレヤ地方にいらっしゃいます(なぜそれが分かるかは7節のところで解説します)。

そこは、ベタニアからは徒歩で1日はかかるほど離れたところです。ですからすぐにでもベタニアに向かわなければ手遅れになってしまうかもしれません。ところが、イエスさまは2日間もグズグズと動こうとしませんでした。

イエスさまがラザロの罪深さにあきれ果てていて、彼のことを大切に思っていなかったというのなら話は分かります。しかし、5節の「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」という言葉の後に「2日間留まった」と記されているのは、違和感しかありませんね。

ようやく移動を開始するイエス

弟子たちへの呼びかけ
(7節)それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。

使者が来てから2日が経ち、イエスさまはようやくベタニアに向かうと弟子たちに宣言なさいました。

ここで「ユダヤに行こう」とおっしゃっていますね。ということは、イエスさまはユダヤ地方以外の場所にいらっしゃったということです。考えられるのはペレヤ地方か、ユダヤの北にあるサマリア地方です。

ただ前回までの箇所でユダヤ人がたくさん登場しますから、ユダヤ人ではなくサマリア人が住むサマリアではありません。ですから、イエスさまはまだヨルダン川の向こう側であるペレヤ地方にいらっしゃったと考えることができます。
弟子たちの心配
(8節)弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」

弟子たちは、ハヌカーの祭りのときにイエスさまが殺されそうになったことを思い出しました。そして、ユダヤに戻るのは危険ではないかと考えて、そのことをイエスさまに指摘しました。
恐れのないイエス
(9-10節)イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」

この言葉は何を意味しているのでしょうか。このたとえと似た話が同じヨハネによる福音書の中にあります。(ヨハネ9:4-5)わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」

ここから「昼」という表現はイエスさまの公の活動期間のことを指していることが分かります。間もなく「夜」、すなわちイエスさまが十字架にかかるときがやってきます。その前に、父なる神さまが定めておられる働きをしなければならないと、イエスさまは弟子たちに向かって語られました。

ですから11:9の「昼間歩く」という表現も、「天の父なる神さまのみこころにかなう行ないをする」ということを表しています。イエスさまは、ご自分が父なる神さまのみこころを実行しているのだから、たとえユダヤに戻っても大丈夫だと語っておられるのです。

実際、これまでイエスさまは何度も殺されそうになりましたが、そのたびに神さまによって守られてきました。救い主であるイエスさまが亡くなるのは、全人類の罪を赦すために過越の祭りのときに十字架にかかるときだというのが、父なる神さまのみこころです。ですからそれまでの間、神さまはイエスさまが殺されないように守ってくださっています。

もしかしたら弟子たちは、イエスさまがラザロ危篤の話を聞いても動こうとなさらなかったのは、ユダヤの宗教的指導者たちに殺されるのを恐れてのことだと考えていたのかもしれません。だからこそ、「最近ユダヤで殺されそうになったばかりではありませんか。そんなところに行くのですか?」とイエスさまに指摘したのかもしれません。

しかし、イエスさまはユダヤの指導者たちを恐れてはいませんでした。イエスさまがペレヤに2日間留まったのには、別の理由があるということです。それについては後で考えていきましょう。
ラザロを起こしに行こう
(11節)イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」

「眠った」という表現は死んだということを表す婉曲表現です。日本語にも同じ表現がありますね。
ラザロの死
この後の話はザッと説明するだけにします。弟子たちはイエスさまのこの言葉を聞いて「眠っているだけなら大丈夫でしょう」などと発言しました。やっぱり弟子たちはユダヤに行くことを恐れていて、イエスさまを止めようとしたのでしょう。そこでイエスさまは、「ラザロは死んだ」とはっきり宣言なさいました(12-14節)。

こうしてイエスさまがベタニアに到着すると、ラザロは死んで4日経っていました。マルタもマリアも、また近所の人たちも、みんな嘆き悲しんでいました。
パリサイ人たちの口を封じるため
イスラエルの霊的指導者であるパリサイ人たちは、イエスさまが人となって来られた神、救い主だということを認めようとしていませんでした。

そしてパリサイ人たちは「死んだ人の魂は3日間遺体の周りに留まっていて、その後死後の魂が行く場所である"よみ"(シオール)に下る」と教えていました。ですから、仮にイエスさまが死後3日以内にラザロをよみがえらせたとしたら、「魂がまだ遺体の周りにいたのだから、よみがえっても不思議じゃない」と言って、イエスさまの救い主としての力を否定することが可能です。

しかし、ラザロは死後4日経っているのですから、当時の常識ではもうよみがえる希望はないはずです。もしもこの状態でイエスさまがラザロを蘇生させたとしたら、それはイエスさまが救い主としての力をお持ちだと説明する以外ありせん。

つまりイエスさまは、常識的にはよみがえることはないと考えられていた死後3日を超えた状態にさせるために、ラザロ危篤の知らせを受けた後もあえてペレアに留まり続けたのです。
ラザロよ、出てきなさい
さっそくイエスさまはラザロの墓の前に案内させました。そして墓穴を塞いでいた石のふたを取りのけよと、人々にお命じになりました。
  • 当時のイスラエルでは、遺体を2回埋葬しました。墓は崖に開けた横穴です。そこに亜麻布を巻いた遺体を置き、1年ほどかけて自然に白骨化させます。その後骨を拾って箱の中に入れ、墓の中に設置された棚に置くのです(詳しくは「月刊いのちのことば2013年5月号」参照)。
そしてイエスさまは墓の中に向かって、「ラザロよ、出て来なさい」と叫ばれました。すると、ラザロが体中を亜麻布で巻かれた状態で墓の中から出てきました。ラザロがよみがえったのです。

イエスさまは4節で「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります」とおっしゃいました。その言葉通り、天の父なる神さまと御子イエスさまのすばらしさが人々の目に明らかになりました。こうしてベタニアにいた多くの人々が、イエスさまこそ救い主だと信じるようになりました(45節)。

ではここから何を学ぶことができるでしょうか。祈っても祈っても問題が願い通りに解決しないとき、私たちはどんなふうにその状況を捉えればいいでしょうか。

2.神は愛だということを銘記しよう

神は私を愛している

祈りがなかなかかなえられないとき、あるいは祈ったのとは真逆の結果になってしまったとき、私たちはがっかりします。そして、自分が神さまにそんなに大切にされていないのではないかと考えて、悲しくなったり腹を立てたりしてしまうことがあります。

それでも、聖書は神さまが私たちを愛しておられると繰り返し宣言しています。たとえば、(ヨハネ3:16)神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

私たちは生まれながらに罪人でした。罪とは神さまに逆らうことです。神さまの存在を否定したりその尊厳を値引いたりする失礼です。ですから、本来私たちは神さまの敵であり、仲良くしていただけるどころか罰として永遠の苦しみを与えられるはずの存在でした。

ところが、そんな私たちのことを神さまは愛し、罰したくないと思われました。そこで神さまは救いの計画をお建てになりました。それはつぎのようなものです。
  1. 御子イエスさまが十字架にかかり、私たちの身代わりとして罪の罰を受けて呪われることによって、私たちに罰が及ばないようにする。
  2. そして、「イエスさまが十字架にかけられたのはこの自分の 罪を赦すためだった」と信じ、さらに「イエスさまは死んで葬られ、3日目に復活なさった」と信じるだけで、本当に罪が赦される。
  3. 条件は十字架と復活を信じるだけであり、他に何か良い行ないをするとか犠牲を払うとかする必要はない。
  4. 神さまは十字架と復活を信じた人の罪を赦すだけでなく、神さまの子どもにしてくださり、永遠に続く祝福を約束してくださる。
イエスさまがご自分の命を捨てても惜しくないと思われるほど、私も皆さんも三位一体の神さまにとって大切な存在です。

自分が神さまに愛されていないんじゃないか、愛されているとしても大して大切には思われていないんじゃないかと感じたときには、いつも十字架の愛を思い出しましょう。

神には神の計画がある

イエスさまはラザロの死後4日のタイミングでベタニアに到着するため、あえてペレヤに2日間滞在なさいました。そのように、聖書の神さまは行き当たりばったりに行動するお方ではなく、きっちりとした計画をたて、計画通りにことを行なわれます。
もちろん神さまは全知全能ですから、その計画は破綻することなく確実に実現します。今回の箇所でも、「ラザロの病気を通して父なる神さまとイエスさまの栄光が現れる」という神さまのご計画は実現し、多くの人がイエスさまを救い主だと信じました。

神さまはこの世界全体、宇宙全体のことを考え、さらに永遠に至る時間の流れも考えて計画を立てておられます。ですからそのご計画が、私たちが「これが最善である。こういったことがこういうタイミングで起こることがベストである」と考えている計画とは違う場合があります。

それは思いがけないこと、おかしなことが起こったわけではありません。そういうことは当然起こりうるのです。
神はあえてそうなさった
何か思いがけないいやなことが起こったとき、あるいは祈りがなかなかかなえられないとき、それどころかこうはなってほしくないと思うことが起こったとき、自分に言い聞かせましょう。「これは神さまがあえてそうすることを選ばれた結果起こったことだ。神さまには何かすばらしいお考えがある」と。

そして、ゲツセマネの園でイエスさまが父なる神さまに祈られたように、(マタイ26:39)「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」と祈りましょう。

その計画は私たちにとっても最善である

ここで質問です。私たちの計画と神さまのご計画、どちらが確実ですばらしいでしょうか? もちろん神さまのご計画ですね。私たちの願ったことが実現しなかったとしても、それは神さまが私たちのことを大切に思っておられない証拠ではありません。

イエスさまはラザロ危篤の知らせを受けてもすぐにベタニアに向かいはしませんでした。それはマルタとマリアの期待を裏切る行為です。しかし、それでも聖書は(5節)「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と言います。

神さまは私たちのことを御子イエスさまを犠牲になさるほどに愛してくださっているのですから、神さまが最善だとお考えになることは、私たちにとっても最善です。
止まった電車
以前、川崎市でカウンセリングセミナーを定期的に行なっていました。福島からの移動なので、前の日にホテルに泊まって翌朝バスで会場に向かいます。ホテルからバス停へは駅の構内を通っていきます。

その日は、駅の改札口がやたらに混んでいました。見ると、電光掲示板に「人身事故のため運行停止。復旧は未定」と書かれています。

私は一瞬、これは弱ったぞと思いました。私はバスなので遅刻せず会場入りできますが、受講生の多くは電車で川崎までいらっしゃいます。もしかしたら、遅刻なさる方がたくさんいらっしゃるのではないかと考えたのです。

改札口で立ち往生する人たちの中には、大声で駅員さんに詰め寄る人もいました。しかし、どんなに泣こうがわめこうが駅員さんに八つ当たりしようが、それで人身事故がなかったことにはなりませんし、運行復旧が早まるわけでもありません。

バスで会場に向かいながら、私はしばらく神さまに祈りました。「これが最善だと信じます。どうか最善だという前提で、私が何をしたらいいか教えてください」。

会場に着くと主催者の方と話をして、電車の遅延で遅れてこられる方々が到着するまで、これまで学んだことをすでに集まっている人たちで振り返ったり、質疑応答をしたりすることにしました。

するとこれがすこぶる受講生の皆さんに評判が良く、次回からもこういう時間を持ちたいという声が上がったほどでした。
信仰と感謝の祈り
私たちを愛しておられる神さまは、私たちのためにならないような計画は決してお立てになりません。

私たちが願ったとおりのことが願ったとおりのタイミングで起こらなかったとしても、「これは神さまがお決めになったことであり、これこそ最善だ」と自分に言い聞かせましょう。そして泣いたりわめいたり八つ当たりしたりする代わりに、「これが最善だと信じます。ありがとうございます」と祈り、感謝しましょう。

いつか必ず、それが最善だったということを私たちは知ることができます。地上では死ぬまで理解できなかったとしても、天に挙げられたとき、私たちは神さまからその答えを教えていただけます。楽しみに待っていたいですね。

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