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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

盲人バルティマイのいやし

イエス・キリストの生涯シリーズ72

マルコによる福音書10章46節〜52節

(2024年3月24日)

イエス・キリストが盲人バルティマイをいやした記事です。イエスはわざわざ「何をしてほしいのか」と尋ね、答えを聞いてから奇跡を行ないました。なぜでしょうか?

礼拝メッセージ音声

参考資料

今回の出来事が起こったのは、マルコやマタイ20:29によればイエスさまたちがエリコから出てこられたときの出来事です。しかし、ルカでは「エリコに近づいたとき」(ルカ18:35)となっています。実は、新約時代のエリコの北約2キロの場所に、旧約時代のエリコの遺跡がありました。旧約エリコを出て新約エリコに入る前に今回の出来事が起こったのでしょう。

エリコはエルサレムからエルサレムの東北東25キロほどのところにあった町です。当時はエルサレムとヨルダン川の向こう岸を東西につなぐ街道と、ガリラヤ方面から南下する街道の交差点に位置していた交通の要所でした。
マタイの福音書によれば、この時いやされた盲人は2人です。バルティマイが主導的な役割を果たしたため、マルコやルカは彼だけを特に取り上げたのでしょう。

47節の「ダビデの子」は救い主の称号の一つ。ダビデはイスラエル王国2人目の王。このダビデの家系から救い主(ヘブル語でメシア、ギリシャ語でキリスト)が生まれると神さまが約束されたことから(第2サムエル7:12-13、イザヤ9:7、エゼキエル3:23-24)、「ダビデの子」は救い主を表す称号となりました。

イントロダクション

聖書は愛を実践すること、特に困っている人を助けることを、信仰者がすべき重要な行ないとして勧めています。しかし、こちらは愛情や善意のつもりでも、よけいなお世話になってしまったり、相手を甘やかすことになってかえって無責任・依存的にさせてしまったりすることがあります。それは慈善行為だけでなく、子育て・孫育てでもそうですね。

今日は、目が見えないバルティマイに対するイエスさまの接し方から、爽やかな愛の示し方を教えていただきましょう。

1.バルティマイのいやし

バルティマイの訴え

バルティマイについての説明
(46節)さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。

エルサレムに向かうイエスさまの旅は、いよいよ終わりを告げようとしていました。エルサレムから25キロほどの所にあるエリコが今回の舞台です。エリコ近くの道端に、バルティマイという目の見えない人が物乞いのために座っていました。

この当時、体に障がいのある人のほとんどは、仕事に就くことができませんでした。そこで、彼らは物乞いをして暮らしていました。バルティマイもその一人だったのです。
バルティマイの叫び
(47節)彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。

バルティマイは目が見えませんが、聞こえる音によって大勢の人たちがエリコの町に近づいてくることを知りました。元々、過越の祭りが近づいていたために、たくさんの人がエルサレムに向かうため街道を歩いていましたが、いつもと明らかに雰囲気が違います。

そこで、バルティマイは近くにいた人に何事かと尋ねました。すると、ナザレのイエスが弟子たちや大勢の群衆と共にこちらにやってくるという答えが返ってきました。

エリコは交通の要所でたくさんの人たちが出入りしますから、イエスさまがこれまでなさった奇跡についてもさまざまな噂話が旅人たちからもたらされたことでしょう。その一部はバルティマイの耳に入っていました。

そこで、バルティマイは大声でイエスさまに呼びかけました。「ダビデの子」というのは、救い主のことです。バルティマイはこれまで聞いた噂話から、イエスさまこそ聖書が登場を約束してきた救い主に違いないと信じていました。

聖書の預言によれば、救い主は目の見えない人の目を開くと約束されています。そして、実際にイエスさまはこれまで目の見えない人をいやされました。それをバルティマイは聞いて知っていたのです。そして、自分のこともいやして欲しいと思いました。そこで、「自分のことをあわれんでほしい」と、大声でイエスさまに呼びかけました。
やまない叫び
(48節)多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。

バルティマイが叫び始めると、大勢の人がこぞってバルティマイを黙らせようとしました。神の国の王、救い主でいらっしゃるイエスさまの前で、大声を出すのは無礼であると考えたからでしょう。

特に、体に障がいがある人たちは、当時の一般のユダヤ人たちから見下げられていました。聖書はそのようなことは教えていないのですが、障がいがあるということは神さまの祝福を失っているということ、霊的に問題がある人、格別罪深い人だと考えられていたからです。そんな罪深い人が偉大なイエスさまに大声で呼びかけるなんて何事だ。人々はそう考えて黙らせようとしたのでしょう。

ところが、バルティマイは叫ぶのをやめません。彼は目が見えないので、他の人のように自由に歩き回ることができません。今回イエスさまにいやしていただくチャンスを逃せば、もう二度とお目にかかることができなくなるかもしれません。バルティマイとしては、黙っているわけにはいかなかったのです。

イエスとバルティマイの接触

バルティマイを招くイエス
(49節)イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言った。

イエスさまはバルティマイの叫び声を聞くと、バルティマイをここに連れてくるよう弟子たちに指示なさいました。そこで、バルティマイはイエスさまの前に連れてこられます。
喜び近づくバルティマイ
(50節)その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。

イエスさまが自分を呼んでおられると知ったバルティマイは、大喜びでやってきます。「躍り上がって」という表現が、バルティマイの喜びをよく表していますね。
また、「上着を脱ぎ捨て」と書かれているのも印象的です。上着は、貧しいバルティマイが持っている唯一と言っていい財産です。これまで寒さを防いだり、寝るときの掛け布団代わりになったりしました。しかし、バルティマイはそれを脱ぎ捨てました。

同じマルコ10章には、金持ちの青年の話が載っています(3月3日のメッセージで取り上げました)。イエスさまは青年に、財産をすべて貧しい人たちへの施しに使って、身一つで自分に従ってくるよう語られましたが、青年は財産を手放すことが惜しくて実行できませんでした。

しかし、バルティマイはすべてを捨ててイエスさまの元にやってきました。「上着を脱ぎ捨て」というのは、バルティマイの本気度が伝わってくる表現です。

バルティマイのいやし

イエスの問いかけとバルティマイの返答
(51節)イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」

イエスさまは、バルティマイに何をしてほしいか尋ねました。目の見えない人が「私をあわれんでください」と叫んでいたのですから、目をいやして欲しいんだなということは容易に想像できるはずです。

まして、イエスさまは全知全能の神が人となって来られた救い主なのですから、分って当然ではないでしょうか。しかし、イエスさまはあえてバルティマイの口から願いを聞こうとなさいました。

するとバルティマイは、すぐに答えます。「目が見えるようにしてください」。
いやしとその結果
(52節)そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。

「救った」というのは、バルティマイの目がいやされたという意味です。 バルティマイの目を開いたのは、イエスさまの奇跡の力です。しかし、イエスさまはバルティマイの信仰が彼をいやしたとおっしゃいました。すなわち、バルティマイの信仰をほめていらっしゃいます。

それと同時に、文字通りバルティマイが霊的に救われたことも示しています。福音書の時代には、人はイエスさまが約束の救い主であるということを信じる信仰によって救われました。バルティマイには、イエスさまがダビデの子、すなわち救い主だという明確な信仰がありました。バルティマイはその信仰によって救いを手に入れていたのです。イエスさまはそれを指摘なさいました。

この言葉が語られた時点では、まだ目はいやされていません。しかし、イエスさまが語り終えると、すぐにバルティマイの目はいやされました。

そして、イエスさまは「行きなさい」とおっしゃいましたが、バルティマイはイエスさまについていきました。すなわちイエスさまと一緒にエリコの町に入っていきます。おそらくその後もイエスさまと行動を共にしたことでしょう。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。それは、他の人への愛の示し方です。

2.他の人への愛の示し方

尋ねてから手を出す

イエスさまは、「わたしに何をしてほしいのですか」と尋ねて、バルティマイ自身の意思と言葉を引き出してからいやしを行なわれました。

「私に何か手伝えることはありませんか?」とか「お手伝いしましょうか?」と尋ねてから手を出すのは、相手が本当は望んでいないことをする、いわゆる「よけいなお世話」を避けるために大切なことです。

そして、それだけでなく、相手から主体性を取り上げないためにも大切なことです。
信田先生の体験談
原宿カウンセリングセンター所長の信田さよ子先生は、家族の問題で悩んでいる女性たちの自助グループを導いておられます。そこに集まる女性たちは愛情豊かな人たちばかりだとおっしゃいます。信田先生の服のボタンが取れかけているのをすぐに見つけて、ささっと止め直してくれるなど、よく気がついてあれこれと世話を焼いてくれます。

だから、グループの集まりに参加すると何もする必要がなくなると信田先生はおっしゃいます。それだけでなく「何もする気が起こらなくなる」と。

相手の問題を勝手に解決し続けていると、相手から自力で問題解決をしようという意欲や力を削ぎ落としてしまう恐れがあるということです。

相手の問題はあくまでも相手のものですから、勝手に取り上げてはいけません。もちろん、だからといって、あなたの問題だから自分一人で解決すべきだと無視するというわけではありません。助けの手を差し伸べていいのです。ただし、解決の主体はその人自身で、こちらはそのお手伝いがしたいという態度で接することが重要だということです。
「いやす」ではなく
以前お医者さんのインタビュー記事を雑誌で読みました。そのお医者さんがこんなことをおっしゃっていました。「『いやす』という言葉がありますが、僕たち医者が患者さんの病気をいやすのではなく、患者さんが持っている自然治癒力によって病気が『いえる』のです。僕たち医者はそのお手伝いをしているだけです。いやしの主役は患者さんです」。
相手の主体性を尊重するために、「お手伝いしましょうか?」と尋ねてから手を差し伸べることが大切です。場合によっては、「絶対大丈夫だから自分でやってごらん」と励ましながら見守るだけにすることも必要です。

肯定的評価を心がける

愛を実践する際に気をつけなければならないのは、愛を示す方が上で、愛を受け取る方が下という上下関係になりがちだということです。もしそういう上下関係で関わってしまうと、相手はうれしい反面みじめな思いを味わいかねません。

イエスさまは、神の御子でいらっしゃるにもかかわらず、人々を見下しませんでした。むしろ質問を通して相手のすばらしさを引き出し、それを賞賛なさいました。今回のバルティマイの他にも、イエスさまが他の人の信仰をほめた例が福音書の中に残されています。

たとえば、
  • 12年間長血をわずらっていた女性(マタイ9:22)
  • パリサイ人シモンの家でイエスさまの足を涙でぬらした女性(ルカ7:50)
  • 重い皮膚病をいやされた10人のうち、感謝するために戻ってきたサマリヤ人(ルカ17:19)
私たちも、相手に尋ねてから手を出すことで相手から主体性を奪わないようにすると共に、相手が問題解決のために奮闘努力している姿勢を認め、それを肯定的に評価しなければなりません。

先日、ネットの記事を読んでいたら、ご主人に夕食は何がいいか尋ねたら、「カレーでいいよ」と言われてちょっとカチンときたという主婦の方がいました。カレーだって作るのに手間がかかるし、おいしくするためにいろいろ工夫も必要なのに、「それでいい」とは何事かというわけです。

まあ、ご主人も専業主婦は楽でいいなぁなんてつもりで発言したわけではないでしょうが、人知れず工夫や努力をしておられる人たちの頑張りにもっともっと心を向ける必要があるなあと思わされました。

別の話です。幼稚園を訪問したとき、ある子どもが丸太を運ぼうとしているのを見ました。どういうわけか、その頃丸太を運ぶのが子どもたちの中でブームになっていたのです。でも、その子は体が小さくて、うまく運ぶことができません。

すると、近くを通りかかった先生が、「手伝おうか?」と声をかけ、子どもがうなずくと丸太の片側を持ちました。片側というか、ほぼ真ん中あたりを持ったので、丸太の重量のほとんどは先生にかかっています。

そして、子どもと一緒に「よいしょ、よいしょ」と言いながら子どもが運びたい所まで丸太を移動しましした。その時先生は、「できたー! ○○ちゃんあきらめないでがんばったねー。がんばり屋さんだねー」とその子をほめました。ちょっと気温が低い日でしたが、私の心もほっこり温かくなりました。
特に愛のわざを示すときには、相対的に相手が低い位置になりがちです。だからこそ、相手がこれまで問題に耐えてきたその忍耐力や、問題解決のために努力している姿勢などに注目し、それを賞賛したりねぎらったりするよう意識しなければなりませんね。

神の愛を十分味わう

先ほど紹介した幼稚園のエピソードには続きがあります。先生にほめられたその子ども、その後他の子どもが丸太を運ぶのを手伝ってあげていました。愛を受け取った人は、愛を与える人になります。

目をいやしていただいたバルティマイは、その後イエスさまに従っていきました。すなわち、今度は他の人に愛を与える人生を始めたということです。

私たちも愛を実践する人として成長するために、イエスさまからたくさん愛を受け取りましょう。

そして、イエスさまの愛は、すでに私たちにたくさん注がれています。聖書を通し、祈りを通して、そのことを教えていただきましょう。

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