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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ミナのたとえ

イエス・キリストの生涯シリーズ74

ルカによる福音書19章11節〜28節

(2024年4月14日)

ミナのたとえは、イエス・キリストが語ったたとえ話の一つです。このたとえ話は、世の終わりに信者が体験することを表し、今をどのように生きればいいか教えています。

礼拝メッセージ音声

参考資料

11節の「これらの言葉」とは、取税人ザアカイとイエスさまの対話の内容です。

13節の「ミナ」は貴金属の重さの単位で、金なら1ミナ=575グラム。お金の単位としても用いられ、1ミナは100デナリ、すなわち労働者100日分の給料に相当します(日当5000円で計算すると50万円)。

23節の「銀行」は、直訳すると「両替商の机」。両替商は、資産家から預かったお金を元手にした高利貸しも行なっていました。当時の金利は非常に高く、年利48%という例もあったようです。

イントロダクション

今回取り上げるのは「ミナのたとえ」です。有名なタラントのたとえ(マタイ25:14-30)と似ていますが、違いも結構ありますし、たとえが表している内容も異なります。
ミナのたとえを通して、私たちはこれから世界がどんなふうになっていくのか、そしてそれを知っている私たちが今をどんなふうに生きればいいか、ということを教えていただきましょう。それを知って実践するとき、私たちには将来とんでもない幸せが与えられるということをミナのたとえは教えてくれます。

1.1ミナ預かったしもべたちのたとえ

ミナを預ける主人

たとえ話の背景
(11節)人々がこれらのことばに耳を傾けていたとき、イエスは続けて一つのたとえを話された。イエスがエルサレムの近くに来ていて、人々が神の国がすぐに現れると思っていたからである。

「これらの言葉」とは、前回取り上げた取税人ザアカイとイエスさまの対話です。イエスさまはザアカイについて次のようにおっしゃいました。「今日、救いがこの家に来ました」(9節)。

この宣言を聞いた人たちは、イエスさまがエルサレムに向かっておられることを考え合わせて、いよいよ「神の国」の実現が近いと考えました。神の国とは、救い主が現れたとき日常に実現する理想的な王国のことです。一般には「千年王国」という名前で知られています。

旧約聖書の預言者たちは、神の国が実現するという預言をたくさん残しています。特に福音書の時代には、イスラエルの国はローマ帝国の支配の下にありましたから、特に救い主の到来と神の国の実現が待ち望まれていました。というのも、救い主は神さまの敵を滅ぼして、イスラエルに平和と繁栄をもたらすと預言されていたからです。

彼らは期待していました。
  • イエスさまがエルサレムに着いたら、さっそくご自分が救い主であり、イスラエルの、いや世界の王であると宣言するだろう。
  • イエスさまはローマ軍に対して戦いを挑み、彼らをイスラエルから追い出すだろう。
  • そして、すぐに全世界を征服なさるだろう。
  • そのようにして実現した神の国において、自分たちイエスさまの弟子は、大臣クラスの高い位を与えられるだろう。
しかし、今の私たちは知っていますが、神の国は福音書の時代には実現しませんでした。今もまだ実現していません。実現するのは、イエスさまが再臨なさったとき、すなわち未来です。

そこでイエスさまは、「今すぐにでも神の国が実現する」という思い込みと勝手な期待を打ち破るために、このたとえ話を語られたのです。
主人の旅立ち
(12節)イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。

身分の高い人が王位を受けるために旅立ちました。これは、当時のイスラエルの国の事情が背景にあります。

この時代のイスラエルはローマ帝国の支配を受けていました。ですから、イスラエルの王になろうとする人は、ローマ皇帝の許可を得て任命されなければなりませんでした。そこで、イエスさまが生まれたときにイスラエルを治めていたヘロデ大王も、またその後を継いだ長男アルケラオも、わざわざローマまで出向いて皇帝から王の位を授かりました。
10ミナを10人のしもべに預ける主人
(13節)彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。

10人に10ミナですから、1人あたり1ミナです。1ミナは労働者100日分の給料に相当します。結構な資金ですね。

ミナのたとえと似ているタラントのたとえでは、しもべたちはそれぞれの能力に応じて、異なる額の資金が与えられました。しかし、ミナのたとえでは全員同じ額を預かっています。これが何を意味するのかは、後半でお話しします。

もちろんこのお金はしもべが自分のために使っていいものではありません。主人はそれを元手に商売をすることを期待していました。
国の人々の態度
(14節)一方、その国の人々は彼を憎んでいたので、彼の後に使者を送り、『この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません』と伝えた。

先ほど申し上げたヘロデ大王の長男アルケラオが王位を求めてローマに赴いたとき、彼の即位に反対するユダヤ人50人もローマに向かい、王位を与えないで欲しいと皇帝に訴えました。紀元前4年のことです。イエスさまのたとえ話を聞いた人は、この出来事を思い出したことでしょう。

しもべの報告と主人による報い

精算の時
(15節)さて、彼は王位を授かって帰って来ると、金を与えておいたしもべたちを呼び出すように命じた。彼らがどんな商売をしたかを知ろうと思ったのである。

王となって帰ってきた主人は、10人のしもべを呼び出して彼らが留守の間どんな働きをしたかチェックしようとしました。
1人目のしもべ
(16-17節)最初のしもべが進み出て言った。『ご主人様、あなた様の一ミナで十ミナをもうけました。』主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』

資金を10倍にしたしもべは、10の町を統治する権限が与えられました。それは、このしもべが主人の願いに忠実に応答したからです。
2人目のしもべ
(18-19節) 二番目のしもべが来て言った。『ご主人様、あなた様の一ミナで五ミナをもうけました。』主人は彼にも言った。『おまえも五つの町を治めなさい。』

資金を5倍にしたしもべは、5つの町を統治する権限が与えられました。それは、このしもべが主人の願いに忠実に応答したからです。
3人目のしもべの言い分
(20-21節)また別のしもべが来て言った。『ご主人様、ご覧ください。あなた様の一ミナがございます。私は布に包んで、しまっておきました。あなた様は預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取られる厳しい方ですから、怖かったのです。』

このしもべは預かった資金を隠しておいただけで、結局何もしませんでした。主人が帰ってくるまで、ダラダラと時を過ごしてサボっていたのです。

そしてその言い訳として、このしもべは主人が怖かったからだと言いました。失敗したらひどい目にあわされるから、何もしない方がましだということでしょう。確かに、失敗しない最も確実な方法は、何もしないことです。

しかし、これは主人に責任を転嫁する行為です。そして、主人を侮辱するような言い草です。
主人の返答
(22-23節) 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はおまえのことばによって、おまえをさばこう。おまえは、私が厳しい人間で、預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取ると、分かっていたというのか。それなら、どうして私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうしておけば、私が帰って来たとき、それを利息と一緒に受け取れたのに。』

主人は、このしもべが言うようなひどい主人ではありません。たとえしもべが商売に失敗しても、咎めることはしなかったでしょう。しかし、このしもべは主人が恐ろしい人だと言い訳したため、その言い訳をつかって彼を論破します。
本当に主人のことが怖くて、絶対失敗できないと思っていたのなら、高利貸しに預ければ良かったじゃないかと主人は言いました。そうしたら利息を生むことができたはずです。それすらしなかったというのは、このしもべがただただサボっていただけだと主人は指摘します。
3人目への処分
(24節)そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナをこの者から取り上げて、十ミナ持っている者に与えなさい。』

主人は3人目に預けていた1ミナを取り上げて、1人目のしもべに渡すよう命じました。「そばに立っていた者たち」とは、おそらく他のしもべたちでしょう。

ただ、3人目はクビになったわけではありませんし、ひどい罰を受けたわけでもありません。他の忠実なしもべたちと違って、町を支配する権限が与えられるという報酬を受け取れなくなっただけです。

一方、10ミナ稼いだ1人目のしもべは、より多くの資金で今後も商売をすることができるようになりました。しもべとしてさらに多くの仕事を任されるようになったということです。
処分を聞いた人々の反応
(25節)すると彼らは、『ご主人様、あの人はすでに十ミナ持っています』と言った。

すでに十分な仕事が任されている1人目のしもべに、どうしてさらに多くの資金が預けられるのでしょうか。他のしもべたちには、主人の処分に納得がいきませんでした。
持つ者と持たない者
(26節)彼は言った。『おまえたちに言うが、だれでも持っている者はさらに与えられ、持っていない者からは、持っている物までも取り上げられるのだ。

この言葉は、聖書が世の中の経済格差を認めているということではありません。「持っている者」とは、神さまに忠実に従おうという思いを持っている人のことで、「持っていない者」は、神さまに忠実に従おうという思いを持っていない人のことです。

忠実に従おうという思いを持っている人には、神さまはごほうびとして、さらに大きくて重要な働きの場を与えてくださいます。

「もっと働くの? やだな」と思われるでしょうか。しかし、神さまに忠実に従いたいと願う人にとって、より大きな働きの場が与えられることはうれしくてワクワクするようなことです。 これについても後半お話しします。

敵対した国民への処分

死刑宣告
(27節)またさらに、私が王になるのを望まなかったあの敵どもは、ここに連れて来て、私の目の前で打ち殺せ。』」

主人は、自分を王として受け入れようとしなかった人々を死刑にするよう命じました。この部分が付け加わっているのも、タラントのたとえとの大きな違いの一つです。

ところで、ヘロデ大王の息子アルケラオもこれと同じことをしています。結局ローマ皇帝はアルケラオに王の称号は与えませんでした。代わりに与えられたのは、王より一段下の「民衆の統治者」という称号でした。

それでも、イスラエルを治める権利を得たアルケラオは、帰国すると反対した者たちをことごとく斬殺しました。27節のイエスさまの言葉を聞いた民衆は、またもこの事件のことを思い出したことでしょう。

なお、アルケラオがあまりにも残虐なので、わずか2年でローマ皇帝は彼を流罪にしてしまいます。そして、代わりにユダヤ地方とサマリア地方はローマから派遣された総督が治めることとしました。また、それ以外の地域はアルケラオの兄弟アンティパスとピリポが分割して治めることになりました。
エリコからエルサレムへ
(28節)これらのことを話してから、イエスはさらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。

エリコのザアカイの家を出たイエスさまは、エルサレムに向かって出発なさいました。エリコからエルサレムは歩いて1日の距離です。

そして、エルサレムで待っているのは、イエスさまが王になるという宣言ではなく、また神の国樹立の宣言でもありません。逮捕と十字架の死、そして復活でした。
ではこのたとえは私たちに何を教えているでしょうか。

2.たとえの意味

世の終わりに起こること

このたとえ話は、救い主が治める理想的な王国、すなわち千年王国がすぐにでも実現すると期待していた人たちに向けて語られました。しかし、実際には千年王国の実現はずっと未来の話です。

それまでに何が起こるのでしょうか。それについて聖書は次のように教えています。
  1. 十字架
  2. 復活
  3. 召天
    イエスさまは天にお帰りになりました。
  4. 聖霊降臨と教会の誕生
  5. キリストの体である教会の時代
    今の私たちは、この時代を生きています。
  6. 教会の携挙
    死んだクリスチャンと生きているクリスチャンに栄光の体が与えられ、神さまや天使の住まいである天に引き上げられます。
  7. キリストの御座のさばき
    引き上げられたクリスチャンに対して、イエスさまが地上での生き方に応じてどんな報酬が与えられるか査定してくださいます。実際に報酬が与えられるのは、千年王国が実現したときです。
  8. 再臨
    天に引き上げられたクリスチャンも一緒に地上に戻ってきます。
  9. 千年王国の実現
    クリスチャンの他、旧約時代の信者や、携挙後に信者になった人たちも、死んでいたとしたら復活して千年王国に住みます。
  10. 白い御座の裁き
    神さまを信じなかった人たちに対して永遠の苦しみという判決が下されます。神さまを信じず、津美穂赦しを受け取らなかったからです。信者はすでに罪を赦されているので、この裁きを経験することはありません。
  11. 新天新地
    今の宇宙が消え去って、新しい宇宙が創造されます。千年王国の市民はそこで永遠に続く祝福を楽しみます。
ミナのたとえが表しているもの
  • 王となる主人はイエスさまのこと。
  • 主人が王になるため旅だったのは、召天のこと。
  • 主人が王となって戻ってくるのは、再臨のこと。
  • しもべたちの働きのチェックは、キリストの御座の裁きのこと。
  • 働きに応じてしもべたちに町を統治する権限が与えられたのは、千年王国で与えられる報酬のこと。
  • 反対した国民に対する処分は、白い御座の裁きと永遠の刑罰のこと。

預けられたミナが表しているもの

タラントのたとえでは、資金はしもべの能力に応じて預けられましたが、ミナのたとえではみんな一律です。ですから、ミナが表しているものは私たちに与えられている能力ではありません。

クリスチャン皆に等しく与えられているものは何でしょうか。たとえば、
  • 神さまに祈ること(特に誰かのためにとりなしの祈りをすること)
  • 神さまのすばらしさを賛美すること
  • すべてのことを喜び、神さまに感謝すること
  • 福音を他の人に伝えること
  • その他、聖書が実行するよう命じていることを実践すること
これらを私たちが行なうことを、やがて神の国の王として帰ってこられるイエスさまは期待しておられます。私たちは忠実だった1人目や2人目のしもべたちのように、イエスさまの期待に応えてこれらのことを積極的に実行しましょう。

千年王国での祝福

主人の期待に応えようとしなかった不忠実なしもべも、罰を受けることはありませんでした。私やあなたがイエスさまの思いをまったく無視して、死ぬまで自己中心的な生活を続けたとしても、地獄に落とされることはありませんし、千年王国や新天新地に住む権利を失うわけでもありません。

千年王国に住めるだけでも大した祝福です。しかし、忠実に生きた人たちにはボーナスの祝福が与えられます。それは、千年王国で責任ある仕事を任されるということです。それは決してしんどいものではなく、喜びや感動に満ちた毎日を送ることができるということです。

作った料理を家族や知り合いが美味しそうに食べている姿を見たら、こちらもうれしくなりませんか? 困っている人に手を差し伸べて感謝されると、こちらも温かい気持ちになりませんか? 難しいパズルが完成すると、達成感に満たされませんか?
千年王国で味わうボーナスの祝福、より責任ある仕事を任される祝福は、その何千倍、何万倍、何億倍も感動に満ちたものです。自己中で生きても地獄に落とされることはないけれど、そういう感動や喜びを味わい損ねるとしたらなんともったいないことでしょうか。

弟子たちは千年王国で高いくらいに付き、左うちわの生活ができることを求めていました。しかし、イエスさまはミナのたとえを通して、それとはまったく異なる祝福が用意されていること教えてくださいました。

イエスさまは今、私たちに何をするよう期待しておられるでしょうか。それを祈りや聖書や他のクリスチャンの姿を通して教えていただき、忠実に実践しましょう。

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