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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

取税人ザアカイの回心

イエス・キリストの生涯シリーズ73

ルカによる福音書19章1節〜10節

(2024年4月7日)

エリコの取税人のかしらザアカイが、イエスさまと出会ってまったく人生が造り変えられました。どんな人でも変わることができます。もちろんあなたも。

礼拝メッセージ音声

参考資料

1節の「エリコ」は、エルサレムの東北東25キロほどのところにあった町。
4節の「いちじく桑」は、エジプトイチジクのことで、大きなものは高さが15m、幹の太さが2mにもなります。しかし、幹の低いところから枝が伸びるので、背の低いザアカイでも登りやすかったのでしょう。

(画像引用:Wikipedia
9節の「アブラハムの子」はアブラハムの子孫という意味ですが、ユダヤ人のことではありません。というのも、アブラハムの肉体的な子孫がすべてユダヤ人なのではないからです。たとえばアラブ人、エドム人、ミディアン人などもアブラハムの子孫です。ユダヤ人とは、アブラハムの子イサクの子ヤコブの子孫のことです。
  • アブラハム一族の家系図はこちら
「アブラハムの子孫」とは、アブラハムのように信仰によって救われた人という意味です。「アブラムは【主】を信じた。それで、それが彼の義と認められた」(創世記15:6)。

イントロダクション

3月3日のメッセージで、金持ちの青年とイエスさまの対話の場面を取り上げました。青年が立ち去った後、イエスさまは「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです」(24-25節)とおっしゃいます。

ところが、同じく大変な金持ちだった取税人ザアカイについて、イエスさまは「今日、救いがこの家に来ました」(9節)とおっしゃいました。そして、救いを受け取ったザアカイの人生は180度変わりました。

人は変わることができます。私もあなたも変わることができます。そのために必要な態度をイエスさまとザアカイの触れ合いから教えてもらいましょう。

1.イエスとザアカイの触れ合い

取税人ザアカイの行動

エリコの中に入ったイエス
(1節)それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。

「それから」というのは、先々週のメッセージで取り上げた出来事の後という意味です。すなわち、目の見えないバルティマイがイエスさまによっていやされたという奇跡です。

その後イエスさまはエリコの町に入られました。
ザアカイの説明
(2節)するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。

ザアカイという人物が登場します。この人は取税人のかしらだと説明されています。

当時のイスラエルは、ローマ帝国に占領されて属州になっていました。帝国はイスラエルからさまざまな税金を徴収しましたが、実際に徴収を行なったのはユダヤ人の中から選ばれた取税人たちでした。

ローマ帝国は、決められた額の税金を納めてくれさえすれば、実際に取税人が民衆からどれだけ徴収するかについては問題にしませんでした。そこで、多くの取税人は規定よりも多くの税金を取り立てて、差額を自分の懐に入れていたのです。

特にエリコは、ヨルダン川を挟んで東西に延びる街道と、南北に延びる街道の交差点に位置していて、多くの人々が行き来します。ですから、たくさんの通行税や関税を取ることができます。その分取税人のふところは潤います

しかもザアカイは取税人のかしら、すなわち取税人たちを取りまとめる元締めでした。配下の取税人たちからの上納金も入るため、彼はものすごいお金持ちだったのです。

当然、取税人は一般のユダヤ人たちからは嫌われました。ユダヤの宗教的指導者であるパリサイ人たちに至っては、文書の中で取税人を強盗や人殺しと同列に扱ってさえいます。神殿や会堂に献金しようとしても「盗んで得た汚れた金は受け取れない」と拒否されました。また、取税人は裁判の証人としての資格も与えられていませんでした。

取税人は、ユダヤ人でありながら、まるで異邦人のような扱いを受けたのです。取税人が交流できるのは、同じ取税人仲間など社会の鼻つまみ者たちだけです。

要するに、ザアカイは大変な金持ちでしたが、エリコの町の中で鼻つまみ者だったのです。
イエスを見ようとしたザアカイ
(3節)彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。

盲人バルティマイがいやされたというニュースは瞬く間にエリコの町中に広まって、ザアカイの興味をかき立てました。だから、ぜひその姿を見たいと思ったのでした。それは、表面的には野次馬根性から出た行動だったかも知れませんが、それが彼の人生を大きく変えるきっかけとなります。

ところが多くの人たちがイエスさまを見るために沿道に集まっていました。ザアカイは背が低かったため、イエスさまを見ることができません。

もしもザアカイが町の中で尊敬されていたならば、きっと人々は「ああ、ザアカイさん。そんな所にいたのでは見えないでしょう。さあさあ、前にいらっしゃい」と言って助けてくれたでしょう。しかし、ザアカイは嫌われ者です。むしろ、ザアカイが前に出ようとするのを邪魔したかもしれません。
木に登るザアカイ
(4節)それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。

ザアカイはいちじく桑の木に登りました。いちじく桑は、成長するととても大きくなる木ですが、幹の低い場所から最初の枝が伸びているので、背が低いザアカイにも登りやすかったのです。

ザアカイが木に登ったのは、ただ背が低くてイエスさまが見えなかっただけではなかったでしょう。ザアカイは、イエスさまと面と向かって会うことを恐れたのです。

先ほど申し上げたとおり、ザアカイは町の中で罪人として嫌われていました。これまでもパリサイ人や祭司たちから口汚く罵られたり、呪いの言葉を投げかけられたりしたこともあったでしょう。イエスさまも宗教家ですから、自分に対して同じような反応を示すかもしれません。

自分でまいた種とはいえ、好き好んで罵られたい人はいません。だからザアカイは、太い木の枝に身を隠してこっそりイエスさまの姿を見るつもりだったのです。

ザアカイとイエスの出会い

イエスの呼びかけ1
(5節前半)イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。

イエスさまはザアカイが見物している木の下に来ると、おもむろに上を見上げてザアカイの名を呼び、降りてくるようにとおっしゃいました。これは驚くべきことです。なぜイエスさまは会ったことのないザアカイの名前を知っておられたのでしょうか。

もっとも、この箇所には書かれていませんが、イエスさまが立ち止まって上をご覧になったので、町の人たちもザアカイに気づいて「あれ、罪人ザアカイの奴があんな所にいるぞ」とつぶやいて、それをイエスさまが聞かれたのだという説明も一応可能です。

しかし、私はそんなふうには考えていません。イエスさまは、聖霊なる神さまに示されてザアカイの名前を知っていたのだと私は信じています。
ザアカイという名前には、「きよい人」という意味があります。日本人の名前なら「きよし」さんというところでしょうか。ところが、町の人たちが彼に向かってザアカイと呼ぶときには、「あなたはその名の通りきよい人です」という意味で呼びかけてはいません。「親が期待してつけてくれたザアカイという名にふさわしくない罪人野郎め!」という軽蔑・嘲笑の思いを込めてその名を口にします。

ザアカイ自身、自分がその名にふさわしくない人間だということは自覚していたことでしょう。ザアカイもまたユダヤ人ですから、全知全能の神がおられることを知っていました。しかし、人生の現実の前に、いつの間にか神さま中心ではなく、金中心の生き方をせざるを得なくなってしまっていたのです。

きっと彼の心の中には、「これではいけない」という小さな声が響いていたことでしょう。自分の今の生き方に対して、密かに罪責感を覚えていたことでしょう。そして、このままでは神のさばきを招くという密かな恐れもあったことでしょう。それでも自分では生き方を変えることができません。

そして、ザアカイは町の人たちと温かい交流が持てない寂しさも感じていました。彼の心には深い孤独感があったのです。取税人仲間との交流はありますが、彼らとは金を通しての付き合いであり、ザアカイ自身を本当に受け入れ、愛してくれているわけではありません。

ザアカイは、普段はそういう罪責感や孤独感を全部押し殺して、お金を貯め、贅沢な暮らしをすることでごまかしてきたのです。

そんなザアカイの名をイエスさまは呼ばれました。責めたり馬鹿にしたりする口調ではなく、温かく優しい口調でです。イエスさまが呼ばれたのは、罪のおかげですっかり隠されてはいるけれど、神さまが創造なさった素晴らしい存在としてのザアカイ、敬虔できよくて愛情深い性質を持ったザアカイ、その名にふさわしい本来のザアカイです。

今、イエスさまがあなたの名前をお呼びになるとしたら、どんなふうにお呼びになるでしょうか。
イエスの呼びかけ2
(5節後半)わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」

この言葉も驚くべきものです。

旅人を家に招いて食事を提供したり泊めたりするのは、ユダヤ人にとって当然のことでした。ただ、イエスさまが自分の方から「あなたの家に泊まる」とおっしゃったのは、当時の常識からすると少々図々しいことです。それだけイエスさまが、泊まるのはザアカイの家でなければならないと考えておられたということです。

問題は、なぜ選ばれたのがザアカイの家なのかということです。エリコの町には、まっとうな仕事でお金を稼いでいる金持ちや人格的に尊敬されている人たちがいたはずです。ところが、イエスさまはそういう立派な人たちの家ではなく、わざわざ罪人の中の罪人とさげすまれていた取税人の、しかもその元締めであるザアカイの所に泊まりたいとおっしゃいます。

それはパリサイ人などユダヤの宗教的リーダーなら決して、決して、決してしないことです。なぜイエスさまがそのような常識外れの行動をしたのかについては、10節のところで解説します。
喜び降りてくるザアカイ
(6節)ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

ザアカイは大喜びで降りてきました。イエスさまに罵られるどころか、自分のことを受け入れ頼ってもらえたことに、ザアカイは大きな喜びを感じました。そして、急いで木の上から降りてきます。

そして、イエスさまと弟子たちを自宅に招きました。当然心をこめた宴会でもてなしたでしょう。
文句を言う町の人たち
(7節)人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。

イエスさまの弟子の中には、マタイのような元取税人もいました。そして、マタイが開いた宴会にイエスさまは出席していらっしゃいます。また、イエスさまはあちこちで取税人たちと親しく交わりを持たれました。

ですから、イエスさまの弟子たちはイエスさまの行動に驚きはしなかったでしょう。しかし、町の人々にはまったく理解できませんでした。そこでブツブツ文句を言いました。それでもイエスさまはまったく気に留めず、ザアカイの家に向かいました。

ザアカイの家での出来事

ザアカイの誓い
(8節)しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」

当時の宴会は、寝転がって飲み食いしました。左肘で体を支えながら食事をしたのです。

(映画「ベン・ハー」より)
ザアカイはその体勢から身を起こして立ち上がると、これから自分が何をするつもりか述べました。それは、貧しい人たちへの施しと、脅し取ったものの賠償です。

施しや賠償に関しては、モーセの律法には以下のような規定があります。
  • 3年ごとに、その年の収穫の十分の一を、レビ人、寄留者、孤児、やもめのためにささげること(申命記14:28-29)。
  • このほか、畑の周囲の麦は全部刈り取らず、落ち穂を拾い直さないことにより、貧しい人たちが食糧を得られるようにするとか、困窮した人は親族が面倒を見るとかの命令があるものの、折々の施しの額に関しては特に規定なし。
  • だまし取った場合は1.2倍を賠償すること(レビ記6:5、民数記5:7)
  • 盗んだ場合には2倍を賠償すること(出エジプト記22:4, 7)
つまり、ザアカイは律法の要求以上のことを実践すると宣言しています。

しかも、それはザアカイが自発的に言い出したことです。イエスさまはザアカイの家に着くなり彼の罪を指摘して、このままだと地獄に落ちるぞと脅して、無理矢理悔い改めを迫られたわけではありません。

ザアカイはイエスさまに宿泊先として選ばれ、親しく交わっていただけた喜びの余り、そのように決断し、宣言したのです。
イエスによる救いの宣言
(9節)イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。

イエスさまは、ザアカイが救われていると宣言なさいました。ザアカイの罪は赦され、神さまとの敵対関係は終了しました。それどころか、ザアカイは神さまに愛され、受け入れられ、見守られ、将来救い主が実現する神の国に入る権利を手に入れました。

「アブラハムの子」とは、参考資料にも書いたとおりユダヤ人という意味ではありません。「アブラハムのような信仰を持って救いを手に入れた人」という意味です。

(ガラテヤ3:7)「ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい」。

パリサイ人たちは、ユダヤ人として生まれた人は自動的に神の国に入る権利を持っていると教えていました。しかし、イエスさまはそれは間違いだと教えてこられました。

聖書は、救いは神さまの一方的な恵みと、それを信じる私たちの信仰によって与えられることを教えています。

(エペ 2:8)この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

ザアカイはイエスさまが自分を責めることなく受け入れてくださった姿によって、神さまの恵みに触れました。そして、救いは良い行ないによるのではなく恵みによって与えられるのだということを信じ、救いを手に入れたのです。

その喜びが、ザアカイを施しと賠償の行動へと駆り立てました。ザアカイは施しや賠償を決断したから救われたのではありません。救われたからそのように決断できました。

救いによって神さまに対する罪の責任はなくなりました。しかし、人々を傷つけ損害を与えてきた結果はまだ残っています。だから賠償しなければならないとザアカイは考えました。

そして、自分はたくさんのお金を持っているのだから、貧しい人たちを助けるのは当然だと施しもするべきだと考えました。これまでお金を貯めることで満足を得ようとしていた彼はすっかり人が変わったかのようになりました。
救い主の使命
(10節)人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」

どうしてイエスさまは、エリコの町の中でおそらく最も嫌われていたザアカイの家を選んで泊まられたのでしょうか。それを理解するために、5節の「泊まることにしている」と訳されている文に注目しましょう。ここは、直訳すれば「泊まらなければならない」です。この「しなければならない」という言葉から、サマリアの女の記事(ヨハネ4章)を思い出しました。
イエスさまが公の活動を始めた初期の頃(27年春)、エルサレムで過越の祭りに参加した後ガリラヤ地方に戻られる途中で、イエスさまはイスラエル南部のユダヤ地方と北部のガリラヤ地方の間にあるサマリア地方をお通りになりました。そして、井戸のそばで一人の女性と出会います。この人は心の飢え渇き男性遍歴を続け、その結果町の人たちと距離を取って生活していました。しばらくイエスさまと話をした後、その女性の生き方は180度変わりました。

ユダヤとガリラヤを行き来するユダヤ人のほとんどは、間のサマリアをまっすぐに突っ切ったりせず、一旦東のヨルダン川沿いの道に迂回していきました。なぜならサマリア地方にはユダヤ人とは別の民族サマリア人が住んでいて、当時ユダヤ人とサマリア人は仲が悪くて付き合いをしなかったからです(ヨハネ4:9)。

にもかかわらず、聖書にはこう書かれています。「(イエスは)ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通って行かなければならなかった」(ヨハネ4:3-4)。イエスさまは、この女性に会い、この女性の人生を変え、彼女を通してその町の人たちの人生を変えるために、わざわざ普通なら通らない道を行かれたのです。

ということは、ザアカイに対して「あなたの家に泊まらなければならない」とおっしゃったイエスさまは、ザアカイに会い、ザアカイの人生を変えるために、わざわざエリコの町に来られたということです。

10節で語られているとおり、イエスさまは神さまから遠く離れていたザアカイを見つけ出し、神さまとの親しい関係を取り戻させるために来られたのでした。

では、ここから、私たちが変えられた人生を手に入れるために必要なことをまとめてみましょう。

2.変えられた人生を手に入れるために

小さな心の声を素直に認めよう

ザアカイは、ずっと罪責感や孤独感を抱えていましたが、それをごまかして生きてきました。しかし、イエスさまの愛のまなざしと語りかけによって、それをしっかり見つめる勇気を手に入れました。

自分がごまかしてきたものをしっかり認めるところから、新しい人生が始まります。

金持ちの青年は(少なくともその時は)救いを手にすることはなく去って行きました。一方、同じように金持ちだったザアカイは救いを手に入れました。どこに違いがあったのでしょうか。

青年は自分は神さまの命令を実践しているから罪がないと考えていました。一方、ザアカイは自分が罪深い存在だと知っていました。初めのうちは自分の罪深さや孤独感についての心の声をごまかしていましたが、しっかりと向き合ったためイエスさまの救いを手に入れたのです。

私たちも、自分が本音のところで何を悲しみ、何を恐れているのかしっかり認めましょう。どんなにそれが否定的であっても、破壊的であっても、イエスさまはそれを責めたりなさいません。だから、安心して認めましょう。そして、ここから変わりたいと願いましょう。

無条件の愛を知ろう

ザアカイだけでなく、旧約聖書の昔から、今も、そして黙示録が描く世の終わりに至るまで、自分の罪を自覚し、神さまに罪を赦してくださるよう恵みを求める人を、神さまは退けないで受け入れ、さばかないで赦し、呪わないで祝福してくださいます。

そのためにイエスさまは十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさいました。

あなたは神さまの罰を恐れて、クリスチャンとしての正しい行ないをしようとしてきませんでしたか? イエスさまは、恐怖や欲に訴えるのではなく、愛によって人を新しい生き方へと導かれます。

アブラハムのような信仰を持とう

ザアカイのことを、イエスさまは「アブラハムの子」と呼ばれました。参考資料に書いたように、これはアブラハムのような信仰を持った人という意味です。
アブラハムは「祝福するよ」と神さまに言われて、「そうですか。ありがとうございます」と受け取りました。これが信仰です。同じように、神さまはあなたにも「あなたを祝福するよ」とおっしゃっています。どうぞ、受け取ってください。アブラハムのように、そしてザアカイのように。

まとめ

私たちもザアカイです。それは人を騙してお金をむさぼる人間だということではありません。ザアカイにはザアカイの痛みや矛盾があったように、私たちには私たちの痛みや矛盾があります。

イエスさまがザアカイの孤独感や罪責感を、「あなたの家に泊まる」という一言でいやされたように、イエスさまはあなたの人生をも新しくしてくださいます。あなたは、すでに新しい生き方を手になさったでしょうし、これからもますます新しい生き方へと導かれていくことでしょう。

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