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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ただ中にある神の国

イエス・キリストの生涯シリーズ66

ルカによる福音書17章20節〜37節

(2024年2月11日)

神の国はあなた方のただ中にある」とはどういう意味か解説します。この言葉は、千年王国は物理的に地上に実現せず、信者の心の中に実現するという意味ではありません。

礼拝メッセージ音声

参考資料

20節の「神の国」は、救い主が地上に実現すると旧約聖書で預言されている、理想的な王国のことです。

22節の「人の子の日」とは、人の子、すなわち救い主が現れてすべての神の敵を滅ぼし、神の国を実現するときのことです。

26節の「ノアの日」とは、大洪水が地上を襲い、箱船に乗ったノアの家族8人と、各種類の動物1つがい(種類によっては7つがい)以外の地上の生物が死んでしまった出来事のことです。創世記6-8章参照。

28節の「ロトの日」とは、極めて堕落していたソドムやゴモラなど死海周辺の町々が、神さまのさばきによって天からの火に焼かれて滅ぼされた出来事のことです。神さまはアブラハムの甥であるロトとその家族をあわれみ、天使を遣わして彼らをあらかじめソドムから脱出させますが、その際「決して振り返るな」と警告しました。ところがロトの妻は振り返ったため、塩の柱になってしまいました。創世記18-19章参照。

イントロダクション

思い通りにならないことが続いたり、クリスチャンではない人たちからいじめられたりすると、私たちの心はついつい塞ぎ込んでしまいます。しかし、今回の箇所はそんな私たちに希望を与え、前向きな思いを回復させてくれます。

ところで、今回の箇所の冒頭で次のように語られています。

(20-21節)パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

この言葉は神の国、すなわち救い主が実現すると旧約聖書が約束している理想的な王国、千年王国は地上に実現するのではなく、私たちクリスチャンの心の中に実現する……ということを語っているわけではありません。ではいったい何を表しているのでしょうか。

そしてそのことと、冒頭で申し上げたように、思い通りにならなかったりいじめられたりしたとき、今回の箇所が希望になるということがどう関わっているのでしょうか。

1.弟子たちに語られた言葉

キリストの再臨

見たくても見られない日
(22節)イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない日が来ます。

イントロダクションで取り上げた20-21節は、パリサイ人に対する言葉でした。しかし、ここからは弟子たちに対する言葉です。すなわち、20-21節はイエスさまを救い主だと信じていない人たちに対する言葉であり、22節以降は信じた人たちに対して語られた言葉だということです。この違いが重要ですから、憶えて置いてください。

イエスさまはまず、「人の子の日」を見たいと思っても見られない日が来るとおっしゃいました。

この言葉が語られたのは、イエスさまがエルサレムに向かう最後の旅の途中です。間もなくイエスさまは十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活し、40日後に天にお帰りになります。

その後、弟子たちは大変な迫害を経験することになります。早く救い主であるイエスさまが地上に戻ってこられて、神さまの敵をすべて滅ぼして、地上に神の国を実現してほしいと弟子たちは願うでしょう。しかし、そこにいる弟子たちが生きている間には、イエスさまは再びこの地上に戻ってこられません。22節はそのことを語っています。
偽キリストに関する警告
(23節)人々は『見よ、あそこだ』とか、『見よ、ここだ』とか言いますが、行ってはいけません。追いかけてもいけません。

早くキリストに帰ってきてほしいと願う弟子たちの耳に、「救い主が来られた」というニュースが飛び込んでくるかもしれません。しかし、そんなニュースはフェイクだから惑わされないようにとイエスさまはおっしゃいます。

実際、教会の歴史2千年の間に、数え切れないほどの自称他称のキリストが現れました。たとえば最近再び問題になった旧統一教会の教祖である文鮮明は、自分が再臨のキリストだと主張していました。エホバの証人も1914年にキリストは目に見えない姿で再臨して、今もこっそりと世界を見守っていると教えているそうです。今でも多くの人がそういったフェイクニュースに惑わされています。
再臨の超自然的な現象
(24節)人の子の日、人の子は、稲妻がひらめいて天の端から天の端まで光るのと、ちょうど同じようになります。

イエス・キリストがもう一度この地上に戻ってこられるときには、世界中の人がそれだと気づくほどに明らかな状態でいらっしゃいます。他の人から教えられなくても分かるほどに、イエス・キリストははっきりと分かる形で再臨なさるということです。ですから、キリストがすでに現れたなどというフェイクニュースに惑わされないようにしましょう。
再臨の前の十字架
(25節)しかし、まず人の子は多くの苦しみを受け、この時代の人々に捨てられなければなりません。

そして、イエスさまが再臨して地上に神の国が実現する前に、イエスさまは苦しみを経験しなければなりません。これはイエスさまが間もなく十字架にかけられ、それによって人類の罪が赦される道が開かれるということを表しています。

どんなにすばらしい神の国が地上に実現したとしても、もし私が神さまの敵であると認定されてしまえばそこに入れません。それどころかキリストによって滅ぼされることになります。

イエスさまが私たちの身代わりとして十字架にかけられ、死んで葬られ、復活なさったことは、私たちにとって大きな希望の種です。

前回申し上げましたが、ラザロをよみがえらせてからユダヤの指導者たちはイエスさまを殺すことを公式に決定しました。しかし、イエスさまは過越の祭りのときに十字架にかかって死ななければなりません。それが神さまのご計画であり、そのような死に方をして初めて人の罪を取り除くことができます。

そこで、イエスさまはいったんベタニアの北25キロほどにあるエフライムという町に身を隠します。その後、弟子たちと共にガリラヤ地方とサマリア地方の境まで北上すると、そこからまたエルサレムに向かって少しずつ移動を開始なさいました。

その途中で、10人のツァラアトという難しい皮膚病にかかった人たちを癒やしましたが、この奇跡に関しては信仰の助演男優賞シリーズで取り上げましたので、今回は割愛しました。

とにかく、イエスさまが十字架にかかる過越の祭りがすぐそばに近づいていました。
ノアの洪水と同じ
(26-27節)ちょうど、ノアの日に起こったのと同じことが、人の子の日にも起こります。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていましたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。

ノアとその家族は大洪水から守られ生き延びましたが、それ以外の人は大洪水にのまれて命を落としました。
それと同じように、キリストは人々が油断しているときに突然再臨なさいます。そして、地上の悪をすべて滅ぼしてしまいます。十字架と復活を信じて罪を赦されていない人は、神さまに敵対している罪人として滅ぼされることになってしまいます。
ソドムの滅びと同じ
(28-30節)また、ロトの日に起こったことと同じようになります。人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていましたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子が現れる日にも、同じことが起こります。

ノアの洪水と同じように突然滅びが訪れる例として、ソドムに対するさばきが語られました。

大患難時代

大患難時代の心得
(31-33節)その日、屋上にいる人は、家に家財があっても、それを持ち出すために下に降りてはいけません。同じように、畑にいる人も戻ってはいけません。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。

この箇所だけを読んでも、これが何を意味しているのか分かりません。聖書全体の中にあるちりばめられているこの世の終わりに関する預言によると、キリストが再臨なさる直前の7年間に、さまざまな天変地異が起こったり、ユダヤ人やキリストを信じる異邦人に対する迫害が起こったりします。一般に「大患難時代」と呼ばれる時代です。

この7年間の大患難時代は、反キリストと呼ばれる人物とイスラエルの国が安全保障条約を結ぶことによってスタートします。この反キリストはサタン(悪魔)と人間の女性の間に生まれた人物で、サタンと契約することで大きな力を手に入れ、やがてほぼ世界を統一して支配するようになります。

そして、大患難時代が始まって3年半が経過したとき、反キリストはイスラエルとの条約を一方的に破棄して、エルサレムに向かって軍隊を差し向けます。ユダヤ人を一人残らず絶滅させるためです。

というのも、再臨の条件は、ユダヤ人がすべて悔い改めて国家的な回心をし、イエスさまのことを救い主だと信じることだからです。たとえば、(マタイ23:39)わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」

サタンは、イエスさまが再臨なさったら自分は滅ぼされるということを知っています。ですから、反キリストを使ってユダヤ人を皆殺しにして、再臨の条件が満たされないようにしようとするのです。

そのようなわけで、反キリストが条約を破棄したら、ユダヤ人はすぐにエルサレムを離れて逃げ出さなければなりません。

ロトの妻は天使の言いつけに背いて、滅び行くソドムの町の方を振り返りました。町に残してきた財産や知り合いのことが気になったのでしょう。しかし、その結果塩の柱になって死んでしまいました。
そんなロトの妻と同じことをしないで、反キリストの契約破棄を知ったら家財道具のことなど気にしないですぐに逃げなければならない。イエスさまはそうおっしゃっています。それくらい、反キリストによる迫害が厳しく迅速だからです。

というと怖いですが、私たちクリスチャンは大患難時代を恐れる必要はありません。大患難時代が始まる前に、その時生きているクリスチャンもすでに死んでいるクリスチャンも、みんな栄光の体が与えられて天のパラダイスに引き上げられるからです。これを「携挙」と言います。安心ですね。

ここで語られているのは、クリスチャンが天に引き上げられた後の時代、世の終わりの時代のユダヤ人たちに関することです。
たくさんの死者を出すほどの迫害
(34-35節)あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝床で人が二人寝ていると、一人は取られ、もう一人は残されます。同じところで臼をひいている女が二人いると、一人は取られ、もう一人は残されます。」

反キリストの迫害は厳しく、2人に1人のユダヤ人が殺されるほどだとイエスさまはおっしゃいました。
  • この箇所は、携挙のことを指すという解釈もあります。ただ、前後の話の流れから、増田牧師はこのように解釈しています。
迫害が起こる場所
(37節)弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言うと、イエスは彼らに言われた。「死体のあるところ、そこには禿鷹が集まります。」

弟子たちは、そんな恐ろしい迫害がどこで起こるのかと尋ねました。すると、イエスさまは不思議なたとえをします。

イエスさまがおっしゃった死体というのは、終末時代のユダヤ人のことです。大患難が起こった時点では、福音書の時代や今の時代と同じく、ほとんどのユダヤ人はイエスさまのことを救い主だとは信じていません。彼らは肉体的には生きていますが、霊的には死んだ状態です。ですから死体と呼ばれています。

そんな不信仰なユダヤ人がいるところにハゲタカが集まります。このハゲタカとは、反キリストが集めた異邦人の軍隊です。彼らもまたイエスさまを信じていません。
キリストの再臨
ユダヤ人がいるところならどこででも反キリストによる迫害が起こります。しかし、特に迫害が激しく起こるのはエルサレムです。反キリストはエルサレムに軍隊を送り込み、そこを占領しますが、逃げ出すことができたユダヤ人たちもいました。

逃げ出したユダヤ人たちはボツラという場所に逃げ込みます。このボツラは、死海とアカバ湾の間にあるペトラ遺跡のことです。今のヨルダンにあります。
ユダヤ人たちがまだ生き残っていることを知った反キリストは、ボツラにも軍勢を進めます。そして、いよいよユダヤ人たちの命が風前の灯火となった時、生き残ったユダヤ人たちは丸2日間悔い改めの祈りをささげて、イエスさまを救い主だと信じます。イスラエルが国家的に回心するのです。

これで再臨の条件が整いました。そこで、イエスさまは再び地上に戻ってこられ、反キリストと彼に従う人々を滅ぼします。こうして、地上に神の国、千年王国が誕生します。

ただ中にある神の国

冒頭の20-21節に戻ります。
神の国はあなたがたのただ中にある
(20-21節)パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

そんな彼らに向かってイエスさまは、「神の国は目に見える形で来るものではない」とおっしゃいました。これは、神の国、千年王国が物理的に目に見える形で実現することを否定する言葉ではありません。そして続いて語られた「神の国はあなた方のただ中にある」という言葉も、神の国が心の中に実現するという意味ではありません。

この言葉がパリサイ人に対して語られた言葉だということにもう一度注目しましょう。彼らは22節以降の聞き手である弟子たちと違って、イエスさまを救い主だと信じていない人たちです。

パリサイ人たちは、神の国の王であるイエスさまのことを救い主だと認めませんでしたが、それでもイエスさまが神の国の王、救い主であることは変わりません。

「ただ中」と訳されている言葉は「間に」とも訳せます。パリサイ人たちは認めていませんが、王であるイエスさまは彼らの間に確かにいらっしゃいます。神の国は、神の国の王であるイエスさまが来られたことによって、すでに実現し始めています。

しかし、神の国の王であるはずのイエスさまを王だと信じないのに、神の国の実現を待ち望むパリサイ人たちの言葉は矛盾しています。彼らは決して神の国が物理的に実現するのを見ることができません。

一方、イエスさまのことを救い主、神の国の王だと信じたユダヤ人たちは、たとえひどい迫害を経験したとしても、必ず神の国に迎え入れられます。たとえ死んでも復活して入れていただけます。

この言葉はそのことを示しています。

では、ここからどんなことが分かるでしょうか。冒頭で次のように申し上げました。思い通りにならないことが続いたり、クリスチャンではない人たちからいじめられたりすると、私たちの心はついつい塞ぎ込んでしまいます。しかし、今回の箇所はそんな私たちに希望を与え、前向きな思いを回復させてくれます。

2.神の勝利はすでに始まっている

最終的にイエスさまと神の国は勝つ

先週、神さまのご計画は必ず実現することになっているということを学びましたね。そして、今回学んだように、神さまは世の終わり、さらには永遠の未来に至るまでバッチリとご計画を立てておられます。

サタンは神さまのご計画を邪魔しようとして、あの手この手を尽くします。福音書の時代には、イエスさまを十字架以外の方法で殺そうとしましたし、これまでもまた世の終わりの時代も、反ユダヤ主義の人たちや反キリストを使ってユダヤ人を絶滅させ、イエスさまが再臨しないように画策することが預言されています。

しかし、サタンのこれまでの企みは成功しませんでした。そして、これからも成功しません。最終的には神さまの勝利に終わります。

すなわち、私たちがイエスさまの十字架と復活を信じたとき、私たちは罪をすべて完全に赦され、神さまの子どもとなりました。そして、永遠に祝福されて幸せになります。それをサタンは嫌がりますが、あなたの永遠の幸せは決定事項です。

そのことを私たちは今回のエピソードから学ぶことができます。

今は形勢が不利に見える場合がある

ただし、最終的な勝利は決定事項ですが、それが現実のものとなるまでの間は、「本当に勝てるのだろうか」と不安になるような状況になることもあります。

正直者が馬鹿を見るということわざがありますが、イエスさまのことを信じないで好き勝手に生きている人の方が幸せな暮らしをしているように見えることがあります。全知全能の神さまを信じている私たちが、病気や経済的な問題や人間関係の問題に悩まされることがあります。クリスチャンだからという理由で、馬鹿にされたりいじめられたりすることがあります。

私自身も、物事がうまく行かないとき、ついつい「本当に神さまは勝利なさるのだろうか。そして私も神さまの勝利の恩恵を受けることができるのだろうか」と不安になることがあります。そして、イライラしてしまったり、気分が落ち込んだりすることがあるのです。

しかし、そんなときは将棋のことを思い出すようにしています。先日、将棋の八大タイトルを独占している藤井聡太さんが、王将戦でタイトルの防衛に成功したというニュースが流れました。藤井さんの活躍のおかげで、今は空前の将棋ブームだそうです。
プロの将棋の対局を見ていると、一方が「負けました」と言って試合を途中放棄することがほとんどです。私のような素人は、「まだ王さまが詰んでいないのになぜ?」と思ってしまいます。しかし、プロの棋士は何手も何十手も先まで予想することができます。だから、これ以上はどんなにがんばっても負けを回避できないと分かってしまうのです。だから「負けました」と潔く認めるのですね。

神さまとサタンの将棋は、すでに決着が付いています。しかし、プロ棋士と違って諦めの悪いサタンは、負けを認めようとしません。そして、今もあの手この手で神さまと神さまを信じる私たちに対する嫌がらせの攻撃を続けています。それでももうすでに勝負は決しています。

自分が嫌な思いをして、それで神さまの勝利を疑いそうになった時、私はこの将棋の勝敗について思い出すのです。

最終的な勝利を信じ、告白しよう

イエスさまは最高のプロ棋士のようなお方です。もうすでに勝負は決していて、イエスさまは必ず悪魔と罪と死の力に勝利なさいます。

またイエスさまはどんな病気も治すことができる名医のようなお方です。決してヤブ医者ではありませんから、安心して好みを任せることができます。

この話をお読みください。
熊五郎さんが長屋の前を通りかかりますと、長屋の住人、八兵衛さんがなにやらぷんぷん怒っております。

熊「おう、八つあん。何をそんなに腹立ててんだい」。

八「熊さんかい。何をって、うちの向かいのヤブ医者の野郎のこった。ここんとこの流行病で、医者が足りなくなったと見えて、何考えてんだか、あそこの先生でいいから呼んでこい、なんてんで、呼びにきた野郎がいるんだよ。するってぇと、めったに来ない患者だってんで、あの野郎、血相変えて飛び出してきやがった。そん時、うちの坊主が表で遊んでたんだ。ええい、子どもが邪魔なら、手でどけりゃあいいじゃあねぇか。それをあの野郎、足で蹴飛ばして行きやがった。ちくしょうめ。帰って来たら、二、三発ぶん殴ってやらなきゃ気がすまねえ!」

熊「何だって、あの医者に足で蹴飛ばされたのかい。いやぁ、そりゃ良かったじゃあねえか」。

八「てやんでぇ。かわいいせがれを足蹴にされて、いいわきゃねぇじゃあねぇか」。

熊「いいや、よかったよ。あのヤブ医者の手にかかってみな。今頃せがれの命はねえよ」。

こんなお医者さんにかかったら、大変ですね。

ところで、イエスさまは人生の名医でしょうか、ヤブ医者でしょうか?

イエスさまを信じ、イエスさまに従っていこうとしたとき、人生がますます大変になったという経験はありませんか? 家族や友だちとの関係がおかしくなったとか、職場で葛藤するようになったとか、自分の情けなさにがっかりするようになったとか、いろいろな問題が降りかかってきたとか。そうすると、イエスさまは本当はヤブなんじゃないかと思ってしまいます。

しかし、イエスさまがそのような葛藤や苦しみを許容なさっておられるのは、その葛藤や苦しみを通して、私たちを真の平安、真の幸福へと導こうとしておられるためです。まさに、良薬は口に苦しです。

旧約聖書のヨブが様々な痛み苦しみを味わいながらも、最後には神さまのみこころに信頼することを選んだように、私たちもイエスさまが名医であることを信頼したいと思います。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
聖書は、私たちが自分の信仰を言葉に出して表現することを大切にしています。問題にぶつかったとき、将来に対して不安が頭をもたげてきたとき、イライラしたとき、落ち込んだとき、「イエスさまの勝利は決まっている。私もイエスさまによって必ず幸せになれる」と口に出して告白、宣言しましょう。

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